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第8回 人形の旅立ち   
                長谷川摂子/引用は 「人形の旅立ち」 福音館書店
 
 平成16年3月1日掲載

春岡 早いものでもう三月ですが、四月になると、学校は新学年、会社などでは転勤などがあって、新しい旅立ちがありますね。
江波 そうですね。でも、何にしても希望に燃えた旅立ちというのはいいものです。
春岡 そういえば、『人形の旅立ち』という本がありますね。平田市出身の長谷川摂子さんが書かれたものですが。
江波 一月の二十一日でしたか、島根日日新聞にも記事が掲載されていましたが、坪田譲治文学賞を受賞されましたね。
春岡 そうでした。岡山市出身で名誉市民でもある故坪田譲治という作家の業績を称えて作られたものと書いてありました。五木寛之なども選考委員だったんですね。
江波 岡山市は文学にも力を入れているということなんですが、地方の文学賞というと他には金沢市に鏡花文学賞というのがあります。島根県には、そういう文学賞は現在ないので残念ですね。新聞社などが出している賞もありますけど。
春岡 泉鏡花というと、明治から大正、昭和の初めにかけて、幻想的な小説を書いた人ですが。
江波 そうです。特異な浪漫の世界を展開した作家です。代表作に、「照葉狂言」とか、「高野聖」、「婦系図」などがあって。
春岡 先生は、泉鏡花あたりは好きな作家ではないですか?
江波 どちらかと言えばですが。長谷川さんの『人形の旅立ち』は、平田が舞台になっていますが、長谷川さんのご実家の前にある神社がそうなんですね。
春岡 えっと、あれは宇美神社……。
江波 そうそう、安土桃山時代にまで遡るらしいですが、風格があります。古い町並みが残っている平田町の町にはぴったりのような感じです。宮ノ町でしたね。
春岡 『人形の旅立ち』には、作品が五つ掲載されています。標題作の「人形の旅立ち」と「椿の庭」、「妹」、「ハンモック」、最後が「観音の宴」になっています。
江波 つまり、長谷川さんが育たれたところとその周辺が舞台になった物語集ということになります。
 私は、なかでも「人形の旅立ち」が好きで、「観音の宴」は非常に幻想的でいいなあ、と思います。
春岡 「人形の旅立ち」は、宇美神社に入って右手にある荒神さん、大きな楠がありますが、その根元に置かれた雛人形が主役ですね。その他の物語は、築地や隣りの家の板壁に囲まれた畑とか、お稲荷さんの祠などが登場して、読んでいる私までも、そこに居るような、古い時に生きているような感じがします。
江波 まさに出雲、という思いがしますが、春岡さんはどう思います?

平成16年3月2日掲載

春岡 古都というと直ぐに松江と思われますが、平田の街も落ち着いた感じです。この作品は、まさに平田でないとぴったりしない、平田の方には非常に馴染み深いということになります。
――低い山をひとつ越えれば日本海というわたしの故郷の冬は、くる日もくる日も鉛色の空におおわれて、人々はびちょびちょした冷たいみぞれや、くるったように吹きつける粉雪や、ぼったりぼったり落ちてくるだんべ(ぼたん雪)の下で、冬の暗さにじっとたえているのでした。
 ほんとうにめったにないことですが、ときとして厚い灰色の雲がきれて、青い空のひとひらがまるで地に埋もれていた宝石のように顔をのぞかせることがあると、わたしの町の人々は、
「ええ凪ぎですのう」
「ほんに、おだやかな天気で――」
と、声をかわして喜びあうのでした。――
江波 会話は全て方言が使われているのですが、出雲弁、平田弁と言うのでしょうか、やわらかい響きが感じられて、それが余計に幻想的な雰囲気を出しています。
春岡 ここに登場するわたし≠ニいうのは、第一人称で書かれた小説などの場合のわたし≠ニいうことなのでしょうが、長谷川さんが平田の方だということで、どうしても作者とわたし≠ヘ重なりますね。
江波 名前よりも、この物語ではわたし≠ェ似合うでしょう。語りかけの形になっていますからね。
 ということで、物語の主人公は私なのですが、家の近くの氏神さんの境内で、鞠つきをします。いちもんめのいーすけさん/いのじがきらいで/いちまん/いっせん/いっぴゃくおく/いといといとめのおふだを/はちまんさあまに/さああげた/とおりゃんせ……と歌いながら遊ぶのです。
 ついている鞠が手元から荒神さんの方に転がって行きます。私は胸の奥がつうんとして怖いのですね。
――荒神さんというのは、参道の東側にある古い楠の巨木でした。あまり古くてまるで年寄りの百姓の手のようにごつごつと幹は節くれだち、そういうこぶの上には暗緑色の苔がびつしり生えていて、その苔の上から名前のわからない、なにか蘭の葉のようなものがつんつんとびでているのです。おまけにふとい幹の中ほどのところに大人の頭ほどのうろがぱっくりあいていて、いつもうす気味悪い小さな闇をたたえていました。――
春岡 私も宇美神社に行ってみたのですが、確かに楠があって、物語に書かれているとおりなのです。
江波 物語と現実が混同するような気持になりはしませんか?
春岡 物語に引き込まれるという感じで。

平成16年3月3日掲載

江波 引き込まれるということは、それだけ物語が素晴らしいということですね。
春岡 そうですねえ。本当に……。
江波 主人公の私が、本当に怖かったのは荒神さんそのものではなかったのですね。
――でも、わたしがほんとうにこわかったのは荒神さんではなくて、荒神さんの根方に捨てられていた古い雛人形でした。――
春岡 そうそう、これも実際に古い人形が置かれていました。私が行ったのは秋でしたから、書かれているように雛人形ではなかったのですが。それこそ、秋になると、雛人形達はどこに行ったのかな? と。
――出雲地方では男の子も女の子も雛壇に自分の人形をかざってもらいます。女の子は内裏雛、三人官女、五人囃子など、ごくふつうのお雛さま、男の子はりつばな鬚をはやした天神雛です。
江波 出雲地方では、と書かれると、この地方の風土的なものが出て来ますね。
――そんな人形たちがいっせいにとりだされる日、衣の金欄がすりきれて白っぽくなったり、鼻がそげて中から土壁色の地が見えたりしている古い人形は、この荒神さんの根方にそっとすてられるのでした。――
春岡 雛人形ばかりではないですが、あちこちの神社の境内でこんな光景を見ることがあります。
江波 私も天神さんの人形を小さい時に揃えてもらっているのですが、考えてみると、それこそ自分の年齢と同じなんですね。つまりは実に古い……。
春岡 でも人形は歳を取らないでしょう。
江波 えっ? それはそれとして……。
――ですから、ちょうどまりつき遊びたけなわのころになると、荒神さんの根にもたれるようにして、たくさんの古い人形が不規則な姿勢でよこたわっていました。――
春岡 静かな光景が、目に見えるようです。
――それはまるで盛装しておだやかに死をまつ病人のようで、すりきれた金や銀、一様にあせた紅や緑や紫の華やかな衣装につつまれて端正にじっと前方を見つめている人形の顔は、なにかこの世の喜怒哀楽をすべて自分のうちにぬりこめて、静かにじっとたえているように思えるのでした。人形たちは深い深い沈黙につつまれてひっそりと息づき、子ども心にも近づきがたい不思議な世界を荒神さんの根方につくつていたのです。――
江波 人形にも命があるのだ、ということを言っているように思えます。
 そして季節は夏になります。境内が蝉時雨に覆われる頃になると、人形達はいなくなるのです。子ども達はままごと遊びに夢中で、気持もそこから離れ、消えた理由など分からないうちに、人形達はいなくなってしまうのですね。
春岡 子どもの心理はこうなんですよね。

平成16年3月4日掲載

江波 子ども達は、いっとき関心を持つものの、暫くすると興味があちこちに行きますからね。
春岡 人形がどうして見えなくなり、それはどこに行くのかということが大事なところですから……。
――そんなある日の夕方、浴衣にたすきがけで庭に打ち水をしていた祖母にまつわりついて、わたしはなにかと話しかけていました。
「ねえ、ばあちゃん、宮の大松の下は、なしていつでも風が吹くかねえ」
「なしてかのう。風の神さんが松の枝にひるねにこらっしゃるだ」
 祖母はめんどくさそうにふりむきもしないでこたえました。わたしはたすきの下でぺらぺらしているねずみ色の浴衣の袖をつかんでまたききます。
「ねえ、ばあちゃん、荒神さんの根方のおひなさんは、どこへ行きなさっただらかねえ」
「さあら、西のはてやら、東のはてやら、けして(きっと)でこさんの浄土にお旅立ちだわな」
「ふうん。どげなふうにしてお旅立ちだろかねえ」
「さあら、見たもんがおらんけんのう。ばあちゃんにもわからんわ」
「こんど、ばあちゃんと見に行きたいな」
「あい、あい」
 祖母は、孫の調子に合わせて相づちをうっていました。――
江波 その日の夜であったか、別の日だったか分かりませんが、明々とした満月の夜には間違いありません。私と祖母は、神社にある荒神さんの木の下に立っています。そこで驚くべきことが起こったのです。
――荒神さんの根方では、雛人形たちが立ちあがろうしていました。――
春岡 人形の旅立ちの場面ですね。
――人形たちは立ちあがると、みないいあわせたように天をあおいで何かを待つような風情でした。それはいつものあてどない視線ではなくて、みなが同じ一点を飢えたように見つめていました。――
江波 楠の上の方にある大きな穴、つまりうろの方を人形達は見つめています。すると、その穴の中から縄ばしごのようなものが降りてきます。
――やがて意を決したように、あの威厳にみちた天神雛が、まず歩をすすめてそのはしごにのりました。不思議なことに人形は、人間のように手ではしごをぎってはいつくばるようにしてのぼるのではなく、なめらかな傾斜を軽くすべるように、直立した姿勢のままで上へ上へとのぼっていくのです。――
春岡 雰囲気がよく分かります。アニメなどでよく出てくる感じですね。

平成16年3月5日掲載

江波 物語は、この辺りから一気にクライマックスに駆け上がりますが、まさに圧巻という思いがします。
――それははしごをよじのぼるというより、はしごにそって水蒸気が立ちのぼるようでした。そして、てっぺんまでつくと、うろのふちに静かに立ち、ひと呼吸おくとはっと衣をひるがえし、白っぽい光をたたえたうろの中に姿を消していったのです。
春岡 まるでスクリーンに映った映像を見ているような描写ですね。
――天神雛が消えたその瞬間、息をのんでその光景を見つめていたわたしは、なにかに張りついてしまったような全身の緊張が、ぴんと音をたててはじけ散ったような気がしました。思わずわたしは「あっ」と声をあげて、祖母に身をすりよせました。祖母はそのとき両手を合わせ、わずかに頭をたれ、静かにそこに立っていました。
江波 子どものために書かれた物語だとは思うのですが、大人であれ誰であっても読み応えがあります。
春岡 ほんとにそう思います。
――「おお、おお、なおも、お見送りせねばのう」
 祖母はわれにかえったようにかすれた声でいうと、すっとしゃがんでわたしに背中をかしました。わたしは夢中で祖母の背にしがみつき、祖母はわたしをおぶうとしっかり立ちあがり、二、三歩前にすすんで、わたしにあのうろの中をのぞかせてくれたのです。
 それを見た瞬間、わたしの体に戦慄が走り、わたしの体は声のない叫びで満たされました。
「あっ、海だっ」
 うろをのぞきこんだわたしの眼下には、月の光をいちめんにうけて、きららにきらめく海が満々とひろがっていました。波はおだやかで、ちらちら銀色に光るさざ波がずっとずっと遠くまでつらなっていました。――
江波 夜の日本海も、こういう情景ではないかと思います。子どもの頃に過ごした故郷の風土が何年経っても心の中に残っているから、こういう文章が生まれるのではないでしょうか。
――次の瞬間、紅の衣の女雛がうろのふちから、いいえ、海をいだく天の一角から身をおどらせました。十二単衣がいくえにも重ねた極彩色の千代紙を散らすょうに宙にまい、月の光をうけた長い黒髪をきらめかし、きりきり渦をまいて落下していきました。水面につくとはんのわずかに銀色の水しぶきをあげ、女雛はすぐ波間に浮かびま
した。波がゆれ、海全体がかすかにふるえていたのに、その不思議な空と海にはさまれた世界は死んだょうに無音でした。――

平成16年3月6日掲載

春岡 夢を見ているような情景ですね。
江波 そうですね。大人になっても、いつまでも覚えている子どもの頃に見た夢。
――それから次々に人形たちは天の一角から、みごとな金襴の衣装をひるがえし、華やかに、厳かに、不思議な入水の舞いをまいました。見るまに海の上には緑や紅、金や銀、黒や紫がちりしき、それらは浮きつ沈みつしながら月の光の中を流れていきました。
 わたしと祖母はいつまでもいつまでも、きらめきゆれていく雛人形たちの波間の旅立ちを見送っていました。――
春岡 ふうっとため息が出るような……。
江波 この本で私が凄いなと思うのは、まず挿絵です。版画家の金井田英津子さんという方が描かれているのですが、サンドストーンというのですか、黒を基調にした絵が地の色の薄茶色に浮かび上がって、何というのか、郷愁と幻想の世界を作り出していると思います。
春岡 目次の次のページに描かれた地図は、それこそ手書きで長谷川さんの家の前にある宇美神社の境内が描かれています。『人形の旅立ち』は、五つの作品が入っているのですが、舞台になっている場所がその地図に示されていますね。「人形の旅立ち」の荒神さん、「観音の宴」の神宮寺、「椿の庭」に登場する、こーえんなどが。
江波 何でもないように見える地図なんですが、しばらく眺めていると、不思議な世界のように思えてきますね。
春岡 画集を見ているような、と言っても言い過ぎではないようにも思えます。
江波 あ、画集ですか。そう言われれば、そうですね。
 この物語が最初に発表されたのは、『子どもの館』の昭和五十五年九月号なんです。春岡 最初から本になってはいなかったのですか。
江波 本の形を取ったのは、昭和五十八年に発行された『少年の日に』という福音館書店から出たものです。
春岡 そうなんですか。かなり前だったということになりますね。その時には挿絵はないのですか?
江波 そうです。挿絵が入ったのは、『人形の旅立ち』という書名で、平成十五年のものからですね。
春岡 『人形の旅立ち』には、最初のお話にもあったように五つの物語があるわけですが、いずれも平田が舞台なので、ある意味で連作と言ってもいいのかな、と思っています。
江波 では、また楽しい小説の舞台で……。

※人形の旅立ち 終わり