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第15回 いま何時?   
                田辺聖子
                    引用は 「三十すぎのぼたん雪」 新潮文庫版より
 
 平成16年4月19日掲載

春岡 五木寛之の「晴れた日には鏡を忘れて」という小説には隠岐が登場しましたが、日本海は穏やかでいいですね。
江波 そうですねえ。春の海は長閑でいいでしょうね。そう言えば、田辺聖子という作家の「いま何時?」という小説に加賀の潜戸が出て来ます。
春岡 田辺聖子という人は、随筆もかなり書いてますね。
江波 昭和三年生まれですから、七十過ぎということになりますか。大阪生まれの小説家、エッセイストで、よく雑誌にも出てます。語り口が軽妙ですね。
春岡 大阪弁をうまく使っている小説が多いように思います。
江波 そうそう。人生の機微を描く、とでも言うのでしょうか。無類の宝塚ファンで、スヌーピー好きとしても知られているようです。「いま何時?」という小説ですが、タイトルに疑問符が付いているというのも、なかなかに……。
春岡 そう言われれば、なるほど、そうですね。「いま何時?」という小説の舞台は加賀の潜戸ですか?
江波 いえ、大山から島根半島、最後は三瓶というわけです。短い小説ですけれども。
春岡 というと短編小説集でしょうか。
江波 昭和五十三年に実業之日本社から出ています。文庫本になったのは、昭和五十七年で、新潮文庫ですね。表題が「三十すぎのぼたん雪」で、九つの短編が収録されています。「ちびんこにへらんこ」、「ぎっちょんちょん」とか「偕老同穴」など。
春岡 タイトルだけ見ても、賑やかですね。作者が見えるというような感じ……。
江波 最初は、昭和五十年の『週刊小説』に載って、三年後に本になってます。
春岡 江波さんの「刺青皮の女」という小説が載った号は、あれはいつのでしたか。江波 覚えておられましたか。「刺青皮の女」は、平成十三年の五月号でした。
春岡 泉鏡花の作品を思わせる土俗的なエロチシズムがあって……。
江波 それはないですが。ところで、多くの作家は、雑誌に書いたものを数年後に本にするという形を取りますね。その方が楽というか、出版社も原稿の催促をするということもないから、予定が立ち易いのではないでしょうか。ですから、雑誌に書いて、単行本になり、次には文庫になる、最後には絶版というのがお定まりの形のようです。最初に新聞小説というのもありますが。
春岡 最近は、電子的な形、つまり、インターネット上でも発表するというのがありますね。
江波 そうですねえ。多様化して行くということではないでしょうか。
春岡 ところで、「いま何時?」は?
江波 三十一歳、独身の比佐子は、よく一人旅に出ます。そこで、好男子、つまり、いい男を見つけると……。

平成16年4月20日掲載

春岡 思わせぶりですね。
江波 そういうわけでもないですが。ともかく、比佐子は旅が好きで、旅先で男に声を掛けるのです。「いま何時ですか?」と。春岡 時計を持ってないんですか?
江波 持ってはいるのですが、話しかけるきっかけを作るのです。
――「すみません……いま、何時ですかァ?」
 と私は、イーゼルを立てて、絵を描いている男に近寄って聞いた。
 彼は、私の顔を見もせず、めんどくさそうにちょいとパレットをもちかえて時計を覗きこむと、
「一時半」
 とぶっきらぼうにこたえた。
「ありがと!」
 私は、男の方へ一歩、近よって、ついでのように絵を覗きこんだ。
春岡 小説の冒頭ですね。
――男は二十七、八ぐらいの、よく日に焼けた、がっしりした男で、足は山歩きのこしらえである。油絵を描いているが、本職なのか趣味なのか分らない。絵はていねいで、よく描きこまれていた。
 私は絵の批評はできないが、絵葉書みたいだなーと思ってみていた。
 ブナの原生林の上にそびえる山と、木々の繁みが描いてある。――
江波 まず、大山です。
――この山は見る場所によると、伯耆富士といわれるやさしい姿は失われて、岩が雪のごとく白く、峯々の先は槍のように尖んがっておそろしいきびしい山容である。
 ノコギリのような山稜の線、岩肌はむき出しで歯をかみ鳴らしたような感じにみえる。
 青年の絵は、そこのところを、うまく捉えている。
「きれいね」
 と私はいってみた。青年はだまっていて、私の言葉も耳に入らないらしい。――
春岡 仲良くなるのに失敗したということでしょうか。(笑)
――私は、今日は松江泊りなので、ゆっくり時間はあるのだが、足を早めた。
 大山の裾野は、観光バスがいっぱいきていて、人々は群れていた。道路はきれいに舗装されて、あとからあとから、バスがくる。こういうバスに乗っている人に、
「何時ですか?」
 と聞いたってしかたない。――
江波 つまり、観光バスは老人や、農協婦人部や、家族づれが多いから、時間をきくだけならいいが、比佐子は、男性と口を利きたいわけです。だから、観光バスには縁なき衆生である、などと書いてあります。
春岡 こういう女性はいるでしょうか。どうかなあ、と思います。
江波 ……いるかもしれませんよ。

平成16年4月21日掲載

春岡 だから、小説なのですね。
――むろん、観光バスでも、若い男たちの団体がある。
 以前、私はウッカリ、若い男の団体ともしらず、片端から好ましそうな男に近づき、「いま何時ですかー」
 といっていた。その中の一人は、時計が止まっているといい、親切にも、
「おーい、いま何時やァ」
 と大声で仲間を呼んでくれた。その連中は私が時間をきいてまわった男たちだったので、私は、バツのわるい思いをしたことがあった。
 私は、むろん、ひとり旅のとき、腕時計をもっている。
 しかし、「何時ですか?」と訊くのは、私の手である。
 要するに、私が淋しいからである。――
江波 というわけで、「三十すぎのぼたん雪」なんですね。
春岡 というと?
江波 表題作では、三十過ぎた三人の女性が登場して話をしているのですが、そこに、牡丹雪が降ってきて、比佐子は、しんみりしたという場面があるのです。
――私は境港へ着いた。今日はここからフェリーで対岸へわたって、島根半島の海岸をみようと思う。バスの時間がうまく接続すればいいんだけれど。
 フェリーは、ほんの五分ばかり乗るだけである。かなりの人と車であった。――
春岡 境水道大橋があるのに、なぜ車をフェリーに乗せるのでしょう?
江波 この小説が書かれた頃は、橋は有料だったのです。無料になったのは平成十四年七月ですから、多分、フェリーの方が安かったのではないでしょうか。
――私はフェリーの中で、一人旅の恰好の男をみつけた。リュックを足もとに置き、ピケの帽子をかぶっている。だが、山登りのスタイルではなく、よくある、ジーパンに、つっかけの運動靴である。
 屈託ない顔で、対岸の宇井の港をながめている。
「すみません。いま何時ですか?」
「はあ?」
 男は、私を見かえって、ふしぎそうに、
「何時だったら、いいのですか?」
 そういうきかれかたをすると困ってしまう。
「あのう……」
「いや、何かに間に合うように、時間をたしかめられるわけ? バスか、船か。それとも、ただ、漫然と時間を訊くわけ?」
「漫然と、の方です」
「あ、そう」
 青年は何だか偉そうに、秒までこたえてくれてついでに、日にちもいった。時計にあるかぎりの数字はみな、しやべらないと気がすまないみたい。――

平成16年4月22日掲載

春岡 笑ってしまいます。(笑)
江波 楽しいですね。小説は楽しむものですから、いいじゃないでしょうか。
――中江の瀬戸は、海がきれいだった。フェリーを下りてバスの時間をしらべる。峠をこえて海岸線へ出るのだが、松江まで戻れるだけの時間を見なければいけない。
 またひとり、すてきな男がいた。――
春岡 また居ましたね。
――私は近づいて、さりげなく聞いた。
「すみません。いま、何時ですか?」
「え! ああ……」
 青年は不意なのでびっくりしたが、すぐ、答えてくれた。私は、風貌と声、アクセント、言葉づかい、それらのものが釣り合っているのかどうか、考えるのも好きである。上品な男でも、あんがい、口を利かすと、下品なのもあり、これも、いろいろ思いくらべてたのしい。
「どうもありがと!」
 というと、青年は手をあげて応えてくれた。
 しかし、その手は、私にあげたのではなく、向うから走ってくる娘に向ってあげているらしい。
 まあ、それもよし。私の空想の中では、私に手をあげているのだ。――
江波 残念でした。
――私がいいきもちでバス停に坐っていると、そこへ白いツードアの車がすべりこんだ。
 バス停からすこしずらして止め、車を日かげにおいて、おもむろに地図をとり出す。
 ちょっと年がいっていて、三十四、五くらいだが、快活そうな丸顔の、髪のみじかい男である。ワー、これもステキ。話しかけよう。
「失礼。いま何時でしょう」――
春岡 読んでいくと、何となく気分がいいというのか、ほのぼのとした感じを受けるのですが、やはり作者の人柄なのでしょう。
江波 どの短編もですが、悪人は出てこないですね。いい人ばかりというか、つい隣りにいそうな……。
――男はすぐ、答えてくれた。
 そうして、丸い黒々とした瞳をあてて、
「洞窟はどのへんですやろ。潜戸という洞窟が、海にあるはずですが、このへんの地図をお持ちやないですか?」――
春岡 結局、比佐子は男と一緒に行くのですね。
――「一しょにいきませんか、どこへいかれるつもりですか?」
「ええ、海岸線をまわるのですけど、潜戸までいくつもりはなかったの」
「いそぎ旅?」
「今夜は松江で泊るの」
「僕は、三瓶。何やったら車に乗りませんか。送ってあげます」――

平成16年4月23日掲載

江波 登場人物のそれぞれが、小説の中で生き生きしているような感じがよく出ていると思いますが、どうでしょう。
春岡 誰もが楽しんでいますね。
――「僕、一人で潜戸を見にいってもしかたないし。もし、漁船をチャーターして、見物するのなら、一人で乗っても勿体ない」
 私は、とてもうれしかった。三十分に一台というバスを待っていたら、とても長くかかりそうだったから。それに、男は、あやしい雰囲気はなくて、よくしゃべり、闊達で、楽しそうだったから。
「そうしなさい、そうしなさい」
 という。
「そうね、ではお言葉に甘えて」
 私は、彼の隣りに坐りこんだ。――
江波 読み手も同じように楽しんでいるじゃないでしょうか。
――「ええ道連れができてよかった! あんたみたいな美人が、どうして一人旅?」
「あなたは?」
「僕は、いま独身やから、旅をたのしんでいます。家内は友だちと海外旅行してるんですよ」
「ソレハソレハ。どうして、一しょにいかれなかったのですか」
「たまには羽のばしとうて」
 と男はいって笑った。
「羽をのばすと、あんたみたいな美人も、乗せることができて」
 私の空想通りなのでとてもうれしい。
「でも私、ウエストは太いし、美人じゃありませんわよ」
「そうかなあ……」
 なんて男は、そろっと手をのばして、腰まわりをさぐりに来て、勿体らしく、
「そうは思えませんけど」
 なんていう。
「運転中、なさらないで下さいね、危ない」
「ハッハッハハ」
 私は、男は正直そうだと思ったが、ほんとうに正直なのがわかった。――
春岡 物語という雰囲気ですね。つまり、文体の軽妙さ、語り口の巧みさがあるので、読後感として、あ、面白かった、というようになるのではないでしょうか。
江波 筋が、すっと運ぶというのでしょうか。会話の面白さが、支えていますね。
春岡 それにしても、そうは簡単に仲良くなれるわけはないと思うのですが。作者はこんなことを書いています。
――旅先のアバンチュールなどというものは、世間の噂や、週刊誌の情報ほど、手がるにころがっているのではないのだった。「何時ですか?」からモヤモヤと怪しくなり、意気投合して一つ宿にとまることなど、あるはずもないのだ。――
江波 でも、三十過ぎだろうと何だろうと、女の人からそう誘われると、たいていの男は……どうなんでしょう。

平成16年4月24日掲載

春岡 誰もがそうというわけではないでしょうけれども。
――海岸線を走る車ははとんどなく、その美しさは、たとえようもなかった。交通不便な、島根半島の尖端は、人々がまだ荒らしていなかった。小さな漁港があり、青い湾をかこんで、家々が連なっていた。
 と思うと、断崖に出て、水は底まで澄んでいた。私は、男の車に乗せてもらったことを喜んだ。――
江波 書いてある通りですが、美保関線から山を越えると日本海に出ます。そうすると、こういう風景になるのですね。
――「僕、吉峯、いいますねん」
 と男がいうので、私も、
「比佐子、いいます」
 と名前だけいった。
「この辺は夏、子供つれて海水浴に来たら、喜ぶやろなあ」
 と男は、子煩悩らしくいう。――
春岡 加賀の潜戸に行くわけですね。
江波 漁港にいた漁師さんの船に乗せてもらうのです。
――船は南側へまわって、ゆき止りの洞門に入った。
 ここは、船を上ると、賽の河原である。
 玄武岩のかけらがごろごろしていて、それをいくつも積み上げてある。
 お地蔵さんの像があり、そばに、子供たちのオモチャや、学童の帽子などが散乱していた。幼な子を亡くした親が、ここへ供養にくるそうだ。――
春岡 この場所は、よく小説に登場しますね。小泉八雲も書いていますが。
――「しかし、こんな暗い、淋しい彼の上の洞窟で、子供が集まるいうたら、かわいそうやがな」
 と男は、シミジミいうのである。――
江波 男は泣き声になります。次男を死なせているからですね。
――また車に乗って、こんどは来たときの海岸線を通らず、半島を横切って松江に向かう。
「松江のどこで泊まるんです?」
「もう、宿はきめてます」
 私は、どこともいわずに答えた。
「もし、よかったら、三瓶で泊まられたらどうですか。知ってる宿やから、安いし、めしがうまいです。それに、三瓶はきれいですよ。今頃は」
「でも……」――
春岡 それでどうなるのでしょう。
江波 比佐子は、結局、男と一緒に三瓶に行くのです。作者は、「いま何時ですかといい歩くよりは、この男と、三瓶の山々の美しさを、心から感嘆してみたくなった」と、比佐子に言わせています。その先は書いてないのですが。
春岡 ハッピーエンドということですね。
江波 では、また来週……。

◇「いま何時?」は終了しました。