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第22回 海鳴り温泉   
                内海隆一郎 
                    引用は 『湖畔亭』 集英社版 より
 
 平成16年6月8日付けから13日付けまで掲載

春岡 二週続けて内海隆一郎さんの小説ということでしたが、『湖畔亭』という本には、山陰が舞台になっている小説がもう一つありました。
江波 そうでした。『湖畔亭』という短編集にある「湖畔亭」が松江市、「蛍の宿」は木次町です。「海鳴り温泉」は、実は皆生なので、出雲ということにはなりませんが……。
春岡 出雲小説図書館ということですから、そういうことから言えば県外、それこそ圏外なのですが、隣の、それもつい近くですから、広く出雲圏域ということでいいじゃないでしょうか。
江波 ちょっと苦しい説明ですね。『湖畔亭』に載せられている小説からすればシリーズということですから、取り上げておいた方がいいかもしれません。
春岡 この地方を舞台にした小説ということですから、問題はないということにしましょう。
 ところで、この連載について、読者の皆さんの反応はどうなのでしょうか。
江波 昨年、エフエムいずもで一年間放送をしたものの再録ですけれども、読んでいただいているでしょうか?
春岡 多分……。私達としては反応が知りたいですね。ともかく、耳で聴く、そして新聞で読む、というように連載の意図としては多角的にということで、面白い試みだと思っています。更に、新聞には毎回のように写真が付いていますから、これも新しい試みではないでしょうか。
江波 毎日一枚ずつで、いわばイメージ写真ですけれども……。小説に書かれている通りの写真というのは写すことが出来ないものもありますし。
春岡 それはそうですね。
江波 小説の後の方に出てきますけども、海鳴り温泉という名前も、皆生を知っている人、あるいは泊まって、それこそ海の音を耳にした人達からすれば、なるほどなあ、うまく付けてあるな、ああ、そういう印象もあるのか、と思うのではないかと……。
春岡 語感、つまり言葉のイントネーションとか意味合い、そういうものを考えて命名するということになるのでしょうか。でも、本当の名を使わないというのは、なぜなのだろうと思ってしまいます。
江波 実際の地名を出すと具合の悪いこともあるかもしれないし、小説を読んで、舞台はどこなのだろうと読み手に想像させるということもあるかもしれませんね。
春岡 海鳴り温泉という名の場所が、実際にあってもいいように思います。
江波 そうですねえ。作家というのは命名にも力を入れているということでしょう。 ともかく、皆生という名は出て来ないですね。旅館の名前も魚鱗館という……。例によって、そこに小笠さんが勤めているよけです。
春岡 小笠さんは、湯山から来たのですね。――小笠さんが魚鱗館に雇われたのは、真夏に入る直前だった。 
 宍道湖の西岸から斐伊川に沿って山深くに入った湯山温泉で、初夏をすごした。そのあと、滞在していた元湯館の主人に紹介されて、この米子市近郊の温泉地へやってきた。 
 夏に入ると全国からの観光客が動きだす。ことに海辺の温泉旅館は海水浴客でおおわらわとなる。――
江波 こう書かれると、どうしても皆生ですよね。米子市の近く、そして温泉があるということになると。
――小笠さんに口がかかったのは、たまたま古くからの番頭が脳溢血で倒れて、魚鱗館が急ぎの後釜探しをしていたからだ。
「湯番のできる人はいないか」
 山陰の温泉業者のあいだに、そういう問い合わせが走った。業者組合の集まりで聞き込んだ元湯館の主人に、
「うちが保証人になりますが、どうです?」
 と、勧められて一も二もなく決めた。
 海鳴り温泉は、湯の湧き出る量が毎分三千八百リットル、湯の温度は八十五度という山陰でも指折りの温泉地である。――
春岡 データーは確かでしょう?
江波 間違いないですね。パンフレット類にもそう書いてあるのです。もともと、皆生温泉は、明治三十三年に、漁師が海中に湧き出す温泉を発見して、泡の湯と名付けたのが始まりで、温泉地として開発されたのは大正時代のようです。昭和になって現在のように大きな旅館街になったのです。春岡 というと、いわば新しい温泉地ということになりますね。島根の玉造温泉は、奈良時代初期に開かれて、日本で最も古い歴史がありますから、そういう点から言えば……。
江波 玉造温泉のそういう古さは、あまり知られていないですね。それに比較して、皆生は東西に一キロ、南北が約四百メートルという広さで、旅館などが四十軒、五千人の収容能力があって、山陰では最大の温泉地ですからね。
春岡 日本のトライアスロンも、皆生が最初のようですから。
江波 話を小説に戻しましょう。
――湯の温度が高ければ、それだけ湯の番は大事である。ボイラーなしに湯の調節をするから、メーターの目盛りを頼りにできない。湯と水の配合一つで、客の楽しめる湯をつくりださなければならない。――
春岡 なるほど、という感じです。
――幸いに魚鱗館の経営者が元湯館の主人と知り合いだったこともあって、話はとんとん拍子に進んで、七月初めから小笠さんは番頭として雇われた。――
江波 ところが問題が、というのか、ある出来事が起こります。
春岡 というと?
江波 小笠さんにしてみれば、気楽にやりたいわけですが、困ったことに……。
――すぐに湯温の調節にも慣れて、すこぶる快適な毎日を送りはじめたのだが、一つだけ問題点があった。支配人の長谷川が小笠さんを目の敵のようにし、見下した態度を示して、なにかと難癖をつけてくるのだ。
「湯番だけが番頭の仕事じゃないんだ。ほかの雑用もこなしてくれなきゃダメだよ」
 仲居たちのいる前で、がみがみと言いつけてくる。まるで小笠さんが遊んでいるかのような口ぶりである。
「はい、承知しました」――
春岡 長谷川が悪役で、物語の進展を助けるということに?
――「団体さんが朝食をとっているうちに、湯の温度を上げておいてくれ」
 支配人は命令する。
「長湯のできないぐらい熱くするんだ」
 小笠さんとしては納得しかねる言葉だったので、初めは反発した。
「気持ちよく湯につかってお帰りいただいたほうがいいんじゃないでしょうか」
 すると支配人は、うるさいというように眉根を寄せて言い放った。
「だから、きみは素人だというんだ。そんなのんびりしたことを考えていたら、観光バスの出発が遅れて、旅行社の添乗員からも運転手やガイドからも苦情が出るんだよ」
「しかし、お客さまにできるだけ楽しんでいただくのが、わたしどもの仕事でしょう」
「青臭いことを言ってるんじゃないよ。団体旅行のスケジュールってのは、予定より三分遅れてもダメなんだ。……そのためにバスが朝の渋滞にひっかかったら、つぎの予定がすべて狂ってしまうだろ」――
江波 実際にはこんな旅館はないけれども小説ですから、言われたように悪役が居ないと面白くないのでしょうね。
 ある日の早朝でした。旅館のプールに子どもが沈んでいたのです。小笠さんが知らせてくれた客からそれを聞いて、子どもを引き上げます。人工呼吸と心臓マッサージを救急車が来るまで続けたのです。助かった子どもは、旅館の仲居さん、幸さんというのですが、その一人息子だったのです。こういうこともあって幸さんは、小笠さんに好意を持つようになります。
春岡 なるほど、そうならないと面白くないですね。
――夏の書き入れどきが一段落したあと、
「みなさん、ご苦労でした。ささやかながら慰労と感謝とを込めまして」
 と、従業員全員に金一封が配られた。封筒の下に〔支配人〕と記してあった。中身は一万円札が一枚だった。
「なかなか酒落たことをするじゃないか」
小笠さんがささやくと、幸さんが優しい眉をきりりと上げて告げた。――
江波 そのお金は仲居さん達が貰ったチップを平等に分けるという理由ですが、実は総金額と金一封の合計が合わないのです。春岡 それも問題だし、支配人の名前で出すというのもおかしいですね。
江波 そうなんです。支配人は仲居さんらの間で、評判が良くないのです。そういうこともあって、ある夜、支配人が近くのスナックに小笠さんを呼び出して、味方になってくれ、と言うのです。小笠さんは、酔っぱらっている支配人に、つまらないことは言うな、と……。
春岡 小笠さんは、仲居さんに人気があるわけですから。
江波 小説の筋書きと前後してしまいましたが、冒頭に事件が起こったことから書き始めてあるのです。
――羽衣之間の客がフロントに電話をかけてきたのは、午前一時ごろだった。
「夜中に目が覚めたら、いつのまにか連れがいなくなってるんだ。もう一時間以上もたっている。もしかすると大浴場に行ったのかもしれないから、女湯を見てきてくれないか」
当直のフロント係は、すぐ湯番室の小笠さんへ連絡した。十時半に厨房の火を落とし、十二時には泊まりの仲居さんたちも仮眠に入っている。そうなると、深夜の女湯を覗くことができるのは浴室係の番頭しかいない。 
「湯あたりして倒れてるかもしれないから、ちょっと調べてみてくださいよ」  
 館内電話で寝入りばなを起こされたが、「はいよ、調べて電話するから」 
 と、小笠さんは気安く引き受けた。
 女湯のトラブルはよくあることだ。長湯でのぼせてしまったあと、洗い場にうずくまって二時間も眠り込んだ女客がいる。露天風呂で月に見惚れ、風情を惜しんで湯船を出たり入ったりしているうちに、ご亭主の待っていることを忘れてしまった奥さんがいる。――
春岡 長閑というのか、温泉に来て、ゆったりしすぎたということでしょうか。
江波 小笠さんは探すわけですが、なかなか見つかりません。女連れの男の方は、六十代という年配で、女は若いわけです。
春岡 なるほど……。
江波 結局、その若い女の人は、独りで泊まっていた若い男の部屋に、最初から示し合わせて入り込んでいたのです。この辺りは、実際に小説を読んでみると面白いのですが、ともかく、小笠さんは、その若い男の部屋に電話をして女を連れの男の部屋に帰らせます。そして、翌朝、どちらも、つまり若い男も、六十代の二人連れも何事もなかったように、宿を後にしたのです。
春岡 粋な小笠さんですねえ。まるく収めるという……。こういう人が居ると、旅館もいろいろあるけど、楽でしょう。
江波 そうですね。しかし、旅館というのは面白いことが実際にあるのでしょうね。
 話は代わりますが、皆生の海岸の様子が書かれています。
――二十メートルほど先に巨大なテトラポッドが山積みされ、白い山のように見える。その向こうは日本海である。テトラポッドに打ちつける波音が聞こえている。昼間はそれほど耳につかない波音だが、夜になると腹に響くような音になる。
 冬が来ると、海の荒れる前触れに沖のほうから重い轟きが聞こえてくることがある。海鳴り温泉という名がついたのは、このためだ。
春岡 上手い命名じゃないでしょうか。海鳴り温泉……。
――かつては沖合約三百メートルまでつづいていた砂浜が、昭和の初めごろから少しずつ波に削られて、消えてしまった。そこで海中にテトラポッドで離岸堤をつくったところ、また砂浜がよみがえったのだそうだ。――
江波 ですから、今は、点線状に列なった離岸堤を頂点にして波型の砂浜になっています。海岸から右手に大山が見えるのがいいですね。
春岡 伯耆富士と言われるくらいですし。江波 最初に泡の湯と言われたのは、泡になった魂が海岸に流れ着いて、新しい体と心が黄泉(よみ)返ったという言い伝えから皆生という地名になったらしいです。
春岡 そうなんですか。
――海鳴り温泉は、秋の観光シーズンを迎えて日に日に賑わいを増してきた。
 魚鱗館にもつぎつぎに予約客が訪れ、団体も観光バスを列ねてやってきて、館内は連日のように満室である。
 これから秋の深まるにつれて温泉気分が高まってくる。日本海の強風にさらされる砂浜の寒々とした光景も、山陰独特の情緒をかもしてくれるようになる。――
江波 こんな感じで山陰を作家の方に書いてもらうといいですね。
 さて、小説ですが、そんな夜、お客が芸者に文句を言ってます。お客が注文した曲を弾けない芸者なんか駄目だというわけです。そこで、小笠さんの登場です。
――「へい、お待たせいたしました、新内流しがただいま馳せ参じましてございます」
 きりりとした口上だった。騒々しかった座敷のなかが、しんと静まった。――
春岡 小笠さんは、芸達者なんですね。
――そっと襖を開けると、大きな座卓を真ん中に据えて、浴衣がけの男たちが坐っていた。四人とも赤い顔をして、険しい目つきで小笠さんを見つめている。
 襖のすぐ内側に、二人の芸者がかしこまっていた。彼女たちも驚いた目を向けてきた。――
江波 小笠さんは芸者の三味線を借りて、客が芸者に弾けと言った新内の蘭蝶を見事に聞かせます。
春岡 小説だということを忘れてしまうほど面白い筋立てですね。
江波 お客は小笹さんの見事な新内に声もなく感心して、その場が収まるわけです。
――秋が深まって、日本海の色が少しずつ黒ずんできた。海鳴り温泉の砂浜には、離岸堤のテトラポッドの上をかすめてくる海風が吹き渡っていく。波音が日一日と大きく聞こえるようになった。――
春岡 いい風景ですね。
江波 仲居の幸さんが、その風景の中に小笠さんを誘います。
――「ねえ、小笠さん。……わたしって嫌な女に見えるんでしょうか?」
 幸さんが、すがるような目をして聞いた。しかし、小笠さんは答えなかった。
「もし嫌な女に見えるんだったら、仕方がないから諦めます」
 風に逆らうように幸さんは言いつのった。
「でも、……もしそうでなかったら」
 そう言ったきり、しばらく砂地に目を落としていた。やがて決心したように、小笠さんの背中へ向かって言った。
「もし嫌でなかったら、小笠さん、わたしと一緒に暮らしてくださいませんか」
 幸さんの白い顔が、緊張のあまり青白くなっていた。優しい眉の下で、少女のような目が真剣に小笠さんの後ろ姿を見つめていた。その視線は、小笠さんの白髪頭や老いた背中を、いとおしむように撫でていた。
「年なんか離れてたっていいんです。わたしは、そんなこと問題にしてませんから」
 幸さんは、いたわるように言った。――春岡 いい情景ですね。
――しかし、小笠さんは微動もしなかった。テトラポッドに惹かれでもしたように、じつと目を当てているばかりだった。
 離岸堤のはるか向こうで、ひときわ大きな轟きが聞こえた。足もとに響いてくるような底ごもりのする音だった。
「ははあ、……なるほど」
 後ろを向いたまま、小笠さんが叫んだ。
「初めて聞いたよ、いまのが海鳴りというものなんだね。……なるほど、あれがそうか。やっと海鳴りを聞くことができたよ」
 幸さんは、また砂地に目を落とした。砂の上を風が渡っていくのが見えた。
「なあ、幸さん。これから海が荒れてくると、何度も海鳴りを聞くことになるんだろうね」 
 小笠さんが、ふり返って言った。
「さあ、そろそろ帰ろうか。……年寄りにゃ海風はやっばり堪えるよ」 
 幸さんが顔を上げた。いつもの明るい表情になって、優しく微笑んでいた。――
江波 何も言えません。では、来週。