島根日日新聞 連載小説 『風の狩人』
第025回 束風一
| 津山市は、岡山県の北東部にある人口十一万ばかりの城下町だ。 津山市の北側には、中国山地が鳥取県との境目だという顔をして立ちはだかっている。南は中部吉備高原が近く、津山盆地とも言われていた。 優司が進学先に津山大学を選んだのは、早稲田大学文学部の受験に失敗したからだ。どうしても行きたかったというわけではない。単なる滑り止めだった。 「なんで津山を受けるんだ」 県内一の進学校、県立青山高校の同級生の何人かは、優司が津山大学を受験すると聞いて、驚いたような顔をした。 「静かで、松江や出雲と似たような町だから……」 高校の図書館で、大学案内の冊子を見て優司は本当にそう思ったのだ。 聞かれれば、そう答えようという口実でもあった。早稲田を落ちることは、まずないだろうという自信を持っていた。一応、受けておくなら、松江から近い私立大学であれば、どこでもよかったのである。 受験科目が、二科目だけということもあった。数学が苦手な優司は、国語と日本史で受けて難なく合格した。 「津山大学なら、お前の実力で言えばトップクラスじゃなかったか?」 同級生は冗談めかして言ったが、自分で口には出さないものの、確かにそうだと思うくらい易しい試験問題だった。 早稲田を落ちるなどと、優司自身はもちろん、周りの誰もが考えてもいなかった。 早稲田からの不合格通知を手にした時、封筒を持つ手が震えた。二、三日は外に出ることが出来なかった。同級生の誰にも会いたくなかった。 浪人をしたくはない。更に一年間、受験勉強ばかりして過ごすなどという生活は耐えられなかったのだ。もう一度、早稲田を受けたら合格するかもしれなかったが、それも恥ずかしかった。 「お前なら、一浪すれば確実だよ」 二年の浪人をして、早稲田に入った先輩は言ったが、同級生より一年遅れというのは、優司の矜恃が許さなかったのだ。 「つまらないことに拘るな」 「今どき、浪人は普通のことだ」 殆どの者が、慰めてくれた。 だが、四月になると、優司は逃げるように、津山へ発った。三十八年前の春だった。 |
第026回 束風 二
| 津山へ来て一週間経つと、優司は独り暮らしの快適さを感じるようになっていた。 大学事務局の紹介で借りた部屋は、津山駅から北に二キロばかりにある弥生(やよい)町の山田という民家の離れだった。 何のために建てたものか分からなかったが、六畳の一間、平屋建てである。 母屋から離れた庭にあり、道路に面していたから直接入ることが出来た。小さなトイレと洗面所が付いている。 近くに幾つかの大衆食堂があり、夕食はそこで済ませる。朝は食べず、昼は大学の食堂を使った。風呂は、これも近所の銭湯に行く。 洗濯はどうしようかと思っていたが、借りる時に、山田の奥さんが、あなたさえよければ、自分の所のものと一緒にしてあげる≠ニ言ってくれた。 当然だが、初めての経験である。そんなものかと思って頼んだ。 大学は、津山陸上競技場の東、山手にあった。志戸部(しとべ)という町である。歩いて三十分もかからない。 優司の出た県立青山高等学校から津山大学に入学した者は、五年ばかりの間に誰もいなかった。不安だったが、その分、早稲田大学文学部を落ちて津山に来たという、いわば負い目を持っている優司には気が楽でもある。 文学部には国文学科と英文学科の二つがあり、優司は国文である。学生は一学年が二十人だった。 入学式が終わった日の午後だった。中庭の木蔭にある石に座っていた優司は、背中から声をかけられた。 「西本さんでしたよね」 学科別にオリエンテーションがあり、自己紹介をしたのだ。振り向くと、笑いかけた眼鏡の顔に記憶があった。 「ええ、西本優司です。よろしく」 「僕は、石村直人って言います。倉吉なんです。西本さんは松江からでしたね」 配られていた名簿には、鳥取県から来ている学生が数名ばかり載っていた。その内のひとりだ。隣り合う県だから、さすがに一人ということはない。 「都落ちです……」 石村は眉を寄せた。 「松江は都会ですから……」 優司はまずかったと思ったが、石村は直ぐ笑顔に戻った。 |
第027回 束風 三
| 都落ちと言ったのは、津山市や大学がランク落ちだという意味ではない。早稲田の入試に失敗したからなのだが、さすがにそれは言えなかった。 「実はですね」 石村は、(じゃ、ちょっと)というように右手を拝むように上げながら、優司の隣に座った。 「地元の者から、国文で懇親会をしようという話が出てるんで」 「懇親会……酒を飲む?」 「そうですよ」 石村は、当然だという表情になった。浪人した学生ならともかく、殆どが未成年ではないかと優司は言った。 「今どき……そんな。いいじゃないですか。誰もやってるから」 高校一年の正月だった。中学校から一緒だったk{翔子の家で、ほんの少しだが飲んだことがある。あれ以来、時々だったが親には内緒で、自販機から手に入れたウイスキーやビールを自分の部屋に持ち込んで飲むようになった。だから、酒の味は知っている。 「しかし、おおっぴらには……」 「それがですね。津山の連中が言うには、よく知ってる店があって、そこならどうということはないって」 「よく知っている?」 「ええ、高校の時には、そこでよく飲んでた所だから大丈夫だと」 石村は、こともなげに言った。 「僕なんかも先輩と一緒でしたが、三朝の旅館に泊まり込みで飲んだこともあるですよ。大学二年生、つまり二十は過ぎてるって言いましてね」 優司は石村の顔を見ながら、(ここは津山なのだ。宿に赤い顔をして帰ってもいいのだ。遠慮する誰もいない)と思った。 「西本さんは島根から一人なんで、隣の県のよしみで、僕が声を掛けてあげることになったんです」 「そりゃあ、どうも――」 見上げた空は、透き通っていた。 「それで――いつなんです?」 「明後日の夜です」 「場所は?」 「プリントして、明日の講義の時に配るそうです」 優司は、やっと大学生になったような気がする。 |
第028回 束風四
| 石村直人が話題を変えた。 「津山市は、いい町ですねえ。西の小京都と言われてるし、私の生まれた倉吉もそうなんです。松江市もでしょう」 倉吉は城下町で、玉川という川沿いに白壁の土蔵や商家が並んでいる。言われてみれば、松江も同じような街だ 「松江を小京都? 聞いたことはないです。島根県では津和野をそう言うけど……」 「そうですね、津和野は確かに」 「松江は国際文化観光都市というのが、売り物です」 優司の頭の中で、松江と京都は結びつかない。ましてや、松江が小京都と言われているとは聞いたことがない。 「結局、室町時代から後に、大名が京都を真似て町作りをしたところがそうなっているんですよね」 石村は自分で言いながら、頷いている。 「日本中に、いわゆる小京都というのがあるならば、その都市のネットワークのようなものが、いつか出来たらいいじゃないでしょうか」 何か言わないと、侮られそうである。優司はやっと、そう口に出した。 「そうかもしれませんね」 石村が賛成してくれた。 「ところで、西本さんは何をやるつもりですか?」 「何って?」 「研究のテーマですよ」 思いもよらない問い掛けだった。入学式があっただけで、講義も何も始まっていない。石村は、もうそんなことを考えている。暑くもないのに、背中に汗が流れた。 「まだ、特に……」 大学に入ったら何を研究するかなどと、そんなことをまだ考えてもいない。優司は、自分のいい加減さを思い知らされた。 「そうですか。僕は、近代文学における地方の役割をと思ってるんですよ」 言っていることが、まるで分からない。 「具体的に考えてるわけじゃないんですが、米子市と生田春月など……」 「感傷詩人の?」 「たとえば、松江市がラフカディオ・ハーンに与えた影響とかです」 「伯耆大山と志賀直哉っていうわけですか」 うかうかしては、おられない。 卒業論文のテーマにするかもしれないと、石村は追い討ちをかけた。 |
第029回 束風五
| 津山市の南に、旧出雲街道と呼ばれる道がある。街道は鍵の手のように曲がりながら、東西に走っている。城の防備のためだ。 姫路から津山、勝山、米子、松江を経て出雲大社へと続く。江戸時代には、大名の参勤交代の往来で賑わった。 街道に沿って、かつての造り酒屋や豪商の屋敷、鍛冶屋などの建物が並び、江戸の古い町割りが、そのまま残っている。 吉井川には幾つかの橋が架かり、今津屋橋や城見橋の北詰には、船頭町、桶屋町、鍛冶町などの昔ながらの町の名が今も使われている。港の名残りの名だろうか、堺町には旅館や遊郭があったらしい。 街道沿いばかりではない。津山城跡の西には、細工町や城代町などがあり、武家屋敷町として長い土塀や門が残されている。 優司は、同じ城下町の松江と比べてみる。松江にもかつては、材木町、紙屋町、漁師町、御船屋などの名があった。それらは東本町などという、まるで地域性のない平凡な名前に変えられてしまっている。 そういう意味から、津山は文化的な見識の高い町ではないかと思った。 石村に誘われた懇親会の場所は、元魚町の交差点を西に入った下紺屋町の路地にある酒処楽我来≠ニいう店だった。 同じような店が数軒並んでいる。夕暮れには早いせいか、人通りもあまりない。 「いらっしゃいませ」 格子戸を開けて入ると、カウンターにいた女将らしい女性が声を掛けてきた。奥に向かって細長い店で、右手はちょっとした小上がりになっている。 「津山大学の……」 優司の言いかけた言葉を途中で遮り、奥の方へどうぞと言いながら、女将は頷いた。 カウンターに背を向けて、女性の従業員がグラスの整理をしていた。その裏は厨房のようだった。 奥の部屋は幾つかに仕切って使うようになっているらしかったが、二十畳ばかりの畳敷きだった。長机を二つずつ、全部で六つの机に鉢盛りの料理が並んでいる。 「西本さん、どうぞどうぞ」 部屋の隅で車座になっていた七人ほどの中から、石村が右手を上げて呼んだ。 「国文科担当の先生も来られるんです。二人ほど欠席ですから、まあ二十人ほどでやります」 石村は幹事のようだった。 |
第030回 束風六
| 国文科の懇親会参加者は、男と女が半々だった。 予定の時刻が来て、石村が立ち上がった。 石村は、幹事だからと自己紹介をし、型どおりの挨拶をした後で、付け加えた。 「実は、国文科担当の先生もお呼びしたのですが、一度は出ると言われてましたけれど、都合がつかなくなったという連絡が入り――ご欠席です 「ええっ? どうして……」 「何で?」 ちょっとしたざわめきが起こった。 当たり前だと、優司は思った。どうやら浪人をして入学した学生もいるようだったが、大半が高校を卒業したばかりだから、未成年ということである。そういう会に、大学の教員が来るわけはない。 「今日は、ほかに欠席の方もあるので、次の会のプレということにします。よろしくお願いします」 「何度やってもいいよ」 男の学生が、大声を上げた。 「なお、念のためにジュースも出しておきますので、飲めない、じゃなくて――飲んじゃいけない方はどうぞ」 「念のためって、そりゃあ何だ?」 どっと笑い声が上がり、座が和んだ。 石村の挨拶、乾杯と続いて、自己紹介になった。殆どが、岡山県内の高校から来ていた。鳥取県出身が数人いる。 津山大学に行くと決めた時から、知り合いがいないということは分かっていたことだった。 だが、何かのつながりで話題が盛り上がっているのを聞いていると、いささか侘びしい気がしないではない。 「いやあ……どうも」 気配を察したのか、石村がビール瓶を手に横へ座った。 「どうですか? 一杯……」 「いや、石村さんに」 優司は飲んでいたグラスを空け、石村の手に持たせた。既に目の縁を染めている。 「結構、盛り上がっていますね」 石村は一気に飲み、グラスを返して見回しながら言った。 居酒屋で飲むのは、初めてである。そう思われたくはない。 「だいたいに、こんなものでしょう」 「そうですね。時々、どうですか?」 石村が、右手で飲む真似をしてみせた。 |
第031回 束風七
| 酒の席だから、そういう話が出るのは当然かもしれないが、石村から誘われようとは思ってもいなかった。というより、数日前までは、高校生である。しかも未成年だ。いくら親元を離れているとはいえ、これからそんな暮らしが始まるとは思ってもいなかった。 それにしても、アルコールが回り始めたせいかもしれないが、大人の仲間入りをしたようでいい気分だ。しかし、酒を初めて飲んだわけではない。飲食店での経験はないが、多少なりとも味は知っている。 「この店を行き付けにしてもいいんでしょうけど」 思わぬことを石村が言った。 かなり飲めるのだろうか。それにしても、学生の小遣いなど知れている。度々、飲めるはずもない。 「行き付けと言っても……」 一回飲むと、どれくらいの費用になるのか見当が付かない。 「まあ、おおいにやりましょう」 石村は、そう言って立ち上がった。 「皆さん。酒やビールはありますか?」 喧噪を押さえつけるように、石村は大声を出した。 「酒――」 「ビール!」 「私は、ジュース」 あちこちから手が上がり、声が飛んだ。 応えるかのように、数本のビール瓶が入った小さな木製手桶を抱えた、若い女が入口に立っていた。 やや短めのスカートから健康そうな脚が伸びていた。目を上げると、薄い緑の地に白い花柄の長袖シャツを着ている。色は白いけれども血色のよい、丸顔の女だった。 「……」 中学校の同級生、苗字をもじった渾名がオードリーの、大鳥浩子に似ていた。 「お待たせしましたあ」 一瞬、ざわめきが途絶えたが、直ぐに騒々しさが戻る。 不意に現れた若い女に、誰も関心がないようだった。 黙って見詰めている優司の目に気付いた女は、ビール瓶を配り終わると、(飲みなさいよ……)と言いながら、横に座った。 「はい、どうぞ」 女は言いながら、手近にあった徳利を取って優司の盃に注ぐ。 |
第032回 束風八
| 女は髪が短いせいもあって、少年のような感じだった。オードリー、浩子もどちからかと言えば、いつもおかっぱに近い頭をしていた。店に来た時、カウンターの中でグラスを並べていた女だ。盃を手にしたまま見とれていると、女が言った。 「せわあ、ない?」 「……」 優司の顔を見て、また女が言った。津山弁、つまり、作州弁だろうが、何となく分かるものの、(ああ、ここはやっぱり松江じゃないのだ)と優司は思う。 「大丈夫? って言ったの」 「何が……」 「だって、ぼっとしてる」 それは――と言いかけて優司は噤んだ。「そっ、飲みんちゃい」 盃を干した。どうぞ、飲みなさいよと、言い直して女がまた注いだ。 話の糸口が見付からない。初めての経験である。 周りに仲間がいるはずなのに、騒いでいるはずの声は聞こえなかった。広い部屋に、二人だけで座っているようだった。 「ここの人だろ?」 「そうよ」 何でそんなことを聞くの? という顔だった。馬鹿なことを聞いたと優司は俯く。 「どっから、こけぇー?」 「松江……」 「とぉーえから、よおきんさったなあ」 「分からない」 「遠くから、よく来られましたねって言ったの」 「津山に長いこと住んでたら分かるようになるかもしれないけど、普通に言ってくれないかなあ」 「そうですね。よそから来た人には無理ね」 女はそう言い、ふっと笑った。 「なんて名前?」 「スズコ」 「どんな字を書く?」 また、ふふと笑った。 「やだなあ。古くさい名前なんですよ」 女はスズコと呟きながら、机の上に指で鈴子と書いた。 「いい名前じゃないか」 「私はあまり好きじゃないんです」 「鈴って、可愛くていい」 鈴ちゃん――襖の外から女将の声がした。じゃ、また後でと言って鈴子は立った。 |
第033回 束風九
| 津山に来てから既に一週間を超えた。毎日の暮らしが、松江にいた時とは比べものにならないくらいの変わりようだ。鈴子の口から出た方言もそうだが、見るもの聞くもの全て珍しい。 石村も同じ鳥取県から来た仲間がいるということもあるのだろうが、生き生きとしている。重苦しい受験勉強から解き放され、灰色の地上から青空に舞い上がった鳥のようである。 優司は鈴子が厨房に戻ったのを潮に、近くの車座に仲間入りした。 「松江からだったかな?」 少しばかり背の高い男が、ぞんざいな口をきいた。 「ええ、そうです。君は?」 出身地を聞くしか、取り付く島がない 「鳥取県の西伯郡――」 「というと、大山の近くですか?」 ひと口に西伯と言っても、海岸線から中国山地の近くまである広大な地域だ。 「そうだよ。大山の南にある奥大山という町だ」 「奥大山……」 優司は、またオードリーを思い出す。中学校一年の時、担任と数人の仲間で大山に登った。 同級生の大島浩子も一緒だった。優司は、浩子が誰よりも好きであった。 登山から帰った宿で、干してあった浩子のシャツに顔を埋めたことがある。 汗にまみれて下山し、誰もが着替えた。脱いだ衣服は、軒下に張られたロープに引っ掛けてあった。仲間の目を盗み、優司は浩子の匂いを思い切り吸い込んだ。 そのことは、誰にも言っていない。言えるはずもなかった。もう六年も前のことだ。だが、あの時の浩子の汗の匂いは忘れていない。 中学校を卒業すると、浩子は別の高校に進学し、そのうち会わないようになってしまったのだ。浩子が同じ高校であったら、どうなっていたのだろう。こうして津山に来ていたのか、そうではなく別の大学に行ったのかもしれない。 「近くだから、大山にはよく登ったよ。行ったことある?」 「中学校一年の時に――」 「そりゃまた古い話だ」 呆れたような顔をしたが、優司には強烈な思い出のある山なのだ。 |
第034回 束風十
| 賀屋野というその男は、大山がいかに魅力のある山かということを聞きたくもないのに、得々として話し続ける。 優司は時々相づちを打つふりをしながら、浩子のことを考えていた。 「俺……なあ。お前の匂い」 優司は、見えない浩子に語りかける。 「何よ、それ。私の匂いだなんて。気味の悪い話……」 「中学一年の秋に、大山に行った時のことを覚えているかい」 浩子が首を傾げて答える。 「もちろんよ。それが私の匂いと何の関係があるのよ」 優司は、わざと唇を歪めた。浩子をいたぶっているような気になる。 「――あるんだよな」 「じらさないで言いなさいよ」 言えば、浩子に嫌われる。止めた方がいいと、もう一人の自分が囁く。 いや、違う。 「えっ、そうなんだ。でも、私は、そんな優司さん……好きよ」 小さな声で言うかもしれないぞと、またもう一人の自分が唆す。 「山から降りて、軒下に汗の付いたシャツを干しただろう」 「そんなこと忘れたわ」 「汗に濡れたシャツの匂いをさ、思い切り吸い込んだんだ」 「そんなことしちゃ、駄目じゃないの」 浩子が大声を上げた。 声は、浩子ではなかった。 優司は、馬鹿騒ぎの場に引き戻された。 いつの間に戻って来たのか、男ばかりの輪の中に鈴子がいた。 「そねーなことしちゃー、おえんがな!」 鈴子だった。ひとりが座っている鈴子の両腕を背中から掴んで、動けないようにしている。前にいる男がビールのコップを口に押し付けようとしていた。 「何しぃー、わしに、せらうばぁーするんじゃ」 どうやら、逆らうなと言っているようだ。 「鈴ちゃん。ママが呼んでるよ」 優司は思わず大声を上げた。 「はあーい」 鈴子は、回されていた手を振りほどいて立ち上がった。コップが飛んだ。 「手に合わんやっちゃ」 賀屋野が、顔をしかめて言った。 |
第035回 束風十一
| どういう意味で言ったのかと、優司は賀屋野の顔をうかがった。 手に負えないのは、鈴子か、バカ騒ぎをしている奴なのか、それとも、ママは鈴子を呼んではいないのに、嘘を言って上手く鈴子を逃がした優司のことなのか。 「あの娘を掴まえていたのは、二浪して入学した奴だって聞いた。二つばかり歳が上だってことだが」 鼻白んで言ったのは、どうやら悪ふざけをしていた男のことらしい。 「酒を飲む店だから、しょうがないけどな」 ぶすっとした表情で、賀屋野が言う。 優司は、鈴子の顔に浩子のそれを重ねた。酒場に勤める女は、酔客の狼藉にも耐えなければいけないのかと、思わず肩に力が入る。もし、それが浩子であったら、自分はどうしたのだろう。 駈け寄り、男を引きはがす。場合によっては、殴りかかったかもしれない。 浩子が、見知らぬ男に抱きかかえられ、無理矢理に酒をのまされているとしたら――そう思うだけで、顔が強張る。 「こういう店では、当たり前のことかもしれないよな。なあ、西本」 「どうだか分からないが、毎晩、酔っ払いの相手じゃ、可哀相だ」 賀屋野が、おや……という顔をした。 「お前、鈴子が好きかよ」 「初めてあったばかりで、そんなことがあるもんか」 「そうか。俺は、いい娘だと思うな。可愛い顔してるし」 言いながら、賀屋野はビールをあおった。どうやら気がありそうだ。 「好みってことかい」 「ああ、好きなタイプだね」 優司は、まだそれほど親しくなっていない相手に、臆面もなく(鈴子が好きだ)という賀屋野が羨ましい。先に(俺は好きだ)と言えばよかったと優司は悔やむ。 「鈴子って娘は、何歳に見える?」 賀屋野に聞かれても、答えようがない。こういう店へ初めて来た優司には、女の年齢は見当が付かない。昼間ならともかく、薄暗い中で、しかも化粧の具合によっては、いよいよ分からない。 「二十は超えてるだろう――」 同年齢とは、とても思えない。 「そりゃ、そうだろ」 目の前のおでんの鍋が煮詰まってきた。 |
第036回 束風12
| 津山城は津山藩の初代藩主である森忠政が、十三年もの歳月をかけて完成させた城である。往時には、五層の天守閣、櫓は六十棟を数えたという。 明治維新後、全国のどこの城もそうであったように、津山も例外ではなく明治七年に解体された。だが、豪壮で堅固な石垣は、幸いにも残っている。 本丸、二の丸、三の丸の石垣は高さが四十五メートルもあり、昔日の雄大な面影を偲ばせる。その城跡は鶴山公園になっていて、数千本の桜がある。 四月も既に半ばを過ぎた、土曜日の昼前だった。 津山に来てから、まだ市内を歩き回ってはいない。どこに何があるのか、知っておきたいと優司は思った。 「鶴山公園にでも行ってみるか」 誰もいない部屋で、壁に掛けた黄色のジャンパーに向かって言う。狭い部屋の中に閉じ籠もっていても、どうしようもない。 大学というのは、ことさら何もしなければ暇である。高校の時と違う。まるで自由だった。 だが、石村が言ったことを思い出すと、これでいいのだろうかと、いささか不安でもある。 「四月は、ゆっくりして……五月から」 優司は理屈にならない独り言を言い、座布団を枕にして寝そべりながら読んでいた谷崎の刺青≠放り出す。 鶴山公園までは、一キロちょっとである。ゆっくり歩いても十五分とはかからない。 ジャンパーを肩にして、宿を出た。母屋とは関係なく、庭から道路に直接出ることが出来るから気兼ねはいらない。 出入り口の戸締まりをきちんとして欲しいということだけは、大家にしっかりと言われていた。開け放してあると、不用心だという。 カメラをポケットに入れた。オリンパスペンというハーフサイズのものだ。半分の画面で使うから、フィルムは倍の長さになり、三十六枚撮りが七十二枚にもなる。 桜の季節が終わった鶴山公園は、土曜日にしては人が少なかった。若い女が、近くにある桜の木を見上げているだけだった。 葉桜の下にあるベンチに座った途端に、背中から声を掛けられた。 「あのー、大学の……」 優司は振り向いた。 |
第037回 束風 十三
| 白いワンピースから覗く、すらりとした脚が目に入った。 「この間、来ていただいた津山大学の学生さんでしょ」 楽我来≠フ鈴子だった。化粧はしていなかったが、色白の顔が眩しかった。 「鈴子……さん」 名前しか聞いていなかった。苗字は分からない。 「何してるんですか?」 「どうってことはないんだけど、ちょっと散歩に来たんだ」 「そう……」 隣に腰掛けた鈴子の体から、ふわりと匂いがした。懐かしいようなそれだった。 「鈴子さんは?」 名前を言いながら、優司は思い出した。桜の葉の匂いだ。桜餅に使う桜の葉、桜茶に入れる花の匂い。甘くて爽やかな香りだった。甘酸っぱい匂いだった。 「遅いと分かってたけど、桜がどうなってるのかなと思って」 優司は桜の木を見上げた。既に花見の季節は十日も前に終わっている。 「今頃、来ても遅いよ」 「さっきまで、櫻守≠チて本を読んでたんです。その終わりのところが気に入って」 丹波の山奥に生まれた弥吉という庭師の、桜にかける情熱を書いた水上勉の小説で、微かな記憶があった。 「庭師が、桜の下に埋められるという話じゃなかったか?」 「よく知ってるんですね」 これでも文学部の学生だと優司は言いたかったが、高校の時に読んだだけである。大学の文学部とは何の関係もない。 「鈴子さんは、水上の小説が好きかい」 「そうではないんですけど、桜の木の下で死ねたらいいかなとか思って」 「死ぬなんて――大袈裟な」 「……」 「どうして、そんな」 「この間、助かりました。あの時、ごうが湧いて。あ、腹が立って……」 鈴子が言うのは、国文科の懇親会のことだ。優司は、嬉しかった。 「あんなこと――よくあるの?」 黙ったまま鈴子は頷く。言いたくはないのだろう。 「あ、そうだ。俺――西本優司」 一瞬、強い春風が吹き、桜の枝が揺れる。 |
第038回 束風 十四
| 花が散り、葉が残るだけの桜の枝が揺れて、薄緑色の傘を差しかけたように陽が陰った。 「西本優司さん」 名前を繰り返して言った鈴子は、首を傾げている。どういう字で書くのだと聞いていることに気が付いた。 「方角の西に、書籍の本。名前は――」 説明した優司の顔を覗き込むようにして、(いい名前ですね。優しそうで……)と鈴子は言う。半分はお世辞だろうが、そう言われて悪い気はしない。 年齢は少し上だと思うのだが、それはともかく、気怠い土曜日の午後に若い女とベンチに座って話をするのは悪くはない。 受験勉強に専念するまでは、中学校から同級だった南田翔子、今は名前がk{に変わったが、その翔子とあちこちと歩きまわった。随分、古いことのような気がするが、たかだか一年ほど前である。 やはり大学生になったのだ、と優司は改めて思う。 「鈴子さんは、何て苗字?」 「あ、ごめんなさい。私も言わなくちゃ」 そう言って、鈴子はちらりと舌を出して引っ込める。唇が光った。口紅は付けられていない。 「井杉です。井戸の井に……木の杉」 井杉鈴子――と優司は言ってみる。 「古くさい名前でしょ?」 「そんなことはない。いい名前だ」 「二人とも?」 声を合わせて笑った。 「ここに来てよかった」 鶴山公園に来なければ、鈴子に会い、こうして話をすることもなかったのだ。 「どうして?」 「鈴子さんに会えたから……」 思わず出た言葉に、優司は頬が熱くなったことに気付く。 「私も、お礼が言えてよかったわ」 「これから、鈴子さんは、どうするの?」 「ううん、なんも……。それより、私のこと、鈴子って呼んでください」 「だったら僕も優司……と」 「駄目よ。優司さんって呼びます」 三人連れの若い男が、鈴子をちらりと見て通り過ぎた。どこかで見たような顔だった。多分、大学の学生だろう。 優司は、鈴子と一緒にいることで、少しばかり誇らしげな気持ちになる。 |
第039回 束風十五
| 三人連れの話は、わざと声高であったように思えた。それが、ちょっとした優越感につながった。 桜が咲き誇る時分なら、二人で花見をしていると、おそらく男達はそう見たのだろう。優司は葉桜を見上げ、もう少し早い時期ならと思い、少しばかり残念である。 学生らしい男達は、石垣の蔭に消えた。それを確かめるようにして鈴子が言った。 「優司さんは、松江からこっちに来られたんですね?」 「そうだけど、どうして知ってる?」 「懇親会があった翌日だったけど、賀屋野さんて学生さんが店に来られて……。聞いたんです。優司さんのことを」 津山大学文学部国文科の懇親会は、十日ほど前のことだった。ビールを飲みながら、鈴子を見て、好きなタイプだと言った賀屋野の顔を思い出した。 「賀屋野が来た?」 「ええ、一人で」 春の陽が、不意に陰った。 「……」 「随分、遅くまで飲んで……。看板までだったわ」 「看板?」 何とはなしに意味は分かるが、初めて聞く言葉だった。 「ええ、もう店を閉めるから、終わりにしたらって、ママが賀屋野さんに言ったわ」 店が終わることをそう言うのだと、優司は初めて知った。 「……」 「何か食べに行こうって賀屋野さんに誘われたけど……」 「それで?」 早く言え、というような口調になった。 「行かなかったわよ。でも、どのお客さんも飲んでいて遅くなると、そう言うわ」 「誘われるのか?」 「そうよ。時々は行くけど……」 「……」 「ママが、付き合ってあげなさいよって言うから……」 何もかもが、知らない世界のことだった。「ママは、私の叔母なの。だから仕方がないの」 言われてみれば、鈴子と顔立ちが似ていなくもない。 「仕方がない?」 鈴子は、どんな生活をしているのだろう。 |
第040回 束風十六
| 三月までは高校生だった。女の子で付き合っていたのは、翔子もそうだが高校の仲間だけである。 年齢はどれくらいなのか聞いてはいないが、優司にとって鈴子は目の前に現れた初めての女性≠ニいうことになる。 仕方がないとはどういうことだ、と聞いた顔に鈴子は言った。 「私……家は上斎原村なんです」 桜の枝が揺れて陽が動き、鈴子の顔が少し暗くなった。 上斎原村は津山から四十キロばかり北に行ったところにある。鳥取県三朝町へ抜ける人形峠で、その名前が知られていた。 優司は高校の時に、社会科でウランのことを調べ、人形峠と上斎原村の名を知った。 「村の中学校を出たんですけど、家の都合で就職しなきゃいけなくて……」 鈴子は暫く黙っていた。 「奥津の温泉旅館にで勤めようと思ってたんですけど、津山の叔母――楽我来≠フママですけど、お金を出してあげるから高校に行きなさいって」 「津山の高校?」 「ええ、駅の近くにあるんですけど、南陵高校です」 南陵学園は高校と大学があり、スポーツが盛んな学園である。大学は津山にあったのだが、数年前に福山市へ移転した。 「それで津山に出て来たのか。それはいつのこと?」 高校に入った年から計算すれば、鈴子の年齢が分かると思った。 「もう随分……前です」 だからいつ――とまた聞こうとしたが、鈴子は話をそらせる。 「叔母さんにはお世話になったんで、私、高校を出てすぐに店を手伝うことに決めたんです」 鈴子が仕方がないと言うのは、そのことかと優司は納得する。それにしても中学校を卒業して就職しようというのは、どちらかといえば珍しい。何かの事情があるのだろうが、初めて会ったのだから、分からないことが多いのは当たり前だ。 「鈴子さんは……」 「鈴ちゃんでいいの」 白い歯を見せた。釣られて優司も(そうしよう)と言って笑う。 鈴子のことが、もっと知りたい。 |
第041回 束風 十七
| 優司は隣に座った鈴子の胸に目を遣った。二つの隆起が、ワンピースを押し出すようにしている。体の芯を突き動かされる感覚に、慌てて空を見上げた。 「ねね、ママって面白いんですよ」 「……」 「ママはね、お酒が入ると、都々逸を唄うんです」 鈴子の言葉に、優司は力が抜けてほっとする。 都々逸を知らないわけではない。高校の古典の教師が、時々だったが都々逸を聞かせてくれた。授業の中身は、あまり記憶にない。 「都々逸か……」 「お客さんに、無理矢理に聞かせるんです」 「面白いじゃない。たとえば?」 「そうねえ――」 鈴子は、少し首を傾げた。 「三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい――とか。これって高杉晋作が作った都々逸ですよね」 不意に背中を突かれたような気がした。鈴子の口から、幕末に活躍した長州藩士の名前が出るとは思いもしなかった。 「自分で作ったものなんかも唄うんです」 「どんな?」 ええっとね、と言いながら鈴子は考えている。 「あ、そうだ。来るか来ないかやきもきさせて どこへ行ったか春の雨――なんて」 「上手いね」 「まだ可笑しいことがあるんです」 聞きたいでしょう? という顔を鈴子がした。 「何だよ」 「唄った後にね、来んちゃい、来んちゃいって、津山弁で言うの」 「来て、来て――という意味だな」 「そうなの。何か変ですね」 くっくっと低い声を出した。なぜ鈴子が含み笑いをしたのか、優司は理解できなかった。 鈴子と話していると、春の日がいつまでも続くように思えた。早稲田大学の入学試験に落ち、滑り止めとはいえ津山に来てよかったという気持ちが強くなる。 「鈴ちゃんの店に、また行くよ」 「ママさんが、変な都々逸を聞かせますよ」 店へ行くこともだが、優司は鈴子と一緒に津山の街を歩いてみたいと思う。 |
第042回 束風 十八
| 鈴子と一緒にいるところを賀屋野が見たら、どう思うだろう。楽我来≠ナ遅くまで飲んで、その後、鈴子を食事に誘ったが、やんわりとだろうが断られた。 だが、半月も経たないうちに、自分以外の男と一緒に鈴子が、鶴山公園でひとときを過ごしている。それを知ったら、賀屋野でなくても、いい気持ちはしないだろう。しかも、食事に誘うくらいだから、賀屋野は鈴子が気に入っているはずだ。 そう思うと、賀屋野が気の毒なようでもあり、また、反面、優司はいささか得意でもある。 「店へ行くのに、どう言って行けばいいのかなあ」 「どうって?」 鈴子が妙な顔をした。 「……」 大学の懇親会は、それなりの理由があったし、大勢だった。独りで酒を出す店に行くのには、どうすればいいのだろうか。まるで分からない。 まず店に入ったら、どこに座るのか、何をどう注文するのか。そんなことを鈴子に聞くわけにはいかない。 しかも未成年だ。もっとも学生服を着て行くのではないから、それなりの格好をすれば外見上は、十八歳には見えないはずだ。 それはそれとして、どう言って店に行けばいいかなどと、つまらないことを鈴子に聞いたと思った。 「来られる前に、電話してください。そしたら、私、カウンターのところにいるようにします」 鈴子が(それだったらいいでしょ?)という顔で言った。 「うん……」 優司は、ほっとする。高校生から抜け出したような気分になった。 それにしても、鈴子は相手の考えていることによく気が付くようだ。 「鈴ちゃん、写真――撮ってやろう」 カメラを持っていることを思い出した。 「でも……。撮られるような顔じゃないですよ」 「いいから――。そこに座っててくれ」 陽が当たっているわけでもないのに、鈴子は眩しそうに目を細めた。 ファインダーから覗いた鈴子は、少女のように見える。何歳なのだろう――優司はまたそれが気になった。 |
第 043回 束風十九
| 優司が楽我来≠ノ行ったのは、鶴山公園で鈴子に出会ってから三日後だった。 入口の格子戸に手を掛け、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。力を入れて右に引いた。戸車が軽い音を立てて滑った。 「――らっしゃい」 踏みこんだ途端に声がした。 声を掛けたのは、数人の客がいるカウンターに両手を突き、白い上衣を着て濁ったような目をした若い男だった。 その左隣に鈴子が立っていた。思わず優司は(やあ……)と言って右手を上げる。 「あ、西本さん……いらっしゃい」 入口に近い椅子に座っていた男が、振り向いた。が、すぐに顔を返して、隣の男と話し始めた。 「あの席へ――どうぞ」 鈴子が、カウンターと反対側にある小上がりを右手で差した。衝立で仕切られたそこには、予約席≠ニ書かれた小さな札が立てられている。電話をした時、鈴子が場所を取っとくね、と言ったのだ。 優司は、わざと大きく頷いた。(常連のように見えるだろう)というつもりだったが、どの客も素知らぬ顔をしていた。 机の上には、箸とコップがそれぞれ一つずつ置かれていた。 「いつも、ありがとうございます」 鈴子がビールを持って来た。優司には、ことさら大きな声に聞こえた。 「久し振りだね」 ほかの客に聞こえないように、優司は囁いた。 「ええ……。はい、どうぞ」 手首を返してビールを注ぐ鈴子の仕草は、いかにも手慣れていた。コップを少し傾けて受けた。そうすれば、味が旨いのだと何かに書いてあったからだ。鈴子が、ふふっと笑った。 化粧をしたその顔は、公園で出会った時より大人びて見える。 「鈴ちゃん、これ持って来た」 「嬉しい……」 公園で撮した鈴子の写真である。 「優司さん、上手なんですね」 「そんなことはないさ。鈴ちゃんというモデルがいいんだよ」 「これ、お母さんに見せるわ」 カウンターにいた若い男が、寿司を持ってきた。量は少ないが、その分だけ高級そうに見えた。 |
第044回 束風 二十
| 寿司を注文した覚えはない。 「……どうしたの?」 優司は、鈴子の顔を覗き込む。 「ええ、私からのプレゼントだから」 鈴子は気のせいか、少し顔を寄せて小さい声で言った。 「なんで、そんなことを」 「だって、この間の大学の懇親会の時に助けてくれたでしょう。だからよ」 ひとりの学生に、鈴子は後ろから両腕を押さえられ、前にいた男にビールを飲ませられようとしていた。 鈴子は、そんなことしないでと叫んでいたが、周りの誰もが面白がって見ているだけだった。どこの店でもそうだというのではないだろうが、優司は耐えられなかった。ましてや、鈴子は中学生の時に好きだった大鳥浩子に似ている。 一緒にいた賀屋野に言わせれば、二人の男は、二浪して津山大学に入った学生達らしいが、二年上なら、飲むことや酒場の女の扱いにも慣れているのだろう。 そんなことを思い出して、黙った。鈴子の顔が浩子のそれに重なった。 「どうしたの?」 「いや、何でもない。でも、鈴ちゃんにこなことしてもらうことはない」 「時々、あんなことあるの。飲まされるわ」 鈴子は、寂しげな顔をした。 「でも、あの時は飲みたくなかったの。だから、優司さんが呼んでくれて嬉しかった」 賀屋野は、酒を飲ませる店だから仕方がないと言っていた。 「……」 「だから、お礼。――あのね。いいこと教えましょうか。優司さんは私のお父さんの若い時に、ちょっと似てるのよ」 お礼と言われると困るが、鈴子が無理に飲まされようとしているのが嫌だった。 「もう、随分前に……病気で亡くなったわ」 「お母さんと……二人?」 「ううん。弟が二人いる」 どこに? と聞こうとした時、ママが徳利と小皿を持って来た。 「いらっしゃい。この間の学生さんね」 学生さん――客に聞こえたのではないかと、優司はカウンターに目を遣ったが、誰も振り向きもしなかった。 「ご贔屓に。どうぞ」 ママが徳利を手に、左目をちらりと閉じてみせた。 |
第045回 束風 二十一
| ご贔屓にと言われても、どう答えていいのか分からない。 「時々、来させてもらいます」 やっと、そう言った。 鈴子はママの代わりに、カウンターに戻る。その背中を目で追いながら、ぐい呑みを手にした。 「松江から来てるんですってね」 ママが酒を注ぎながら言う。鈴子に聞いたのだと付け加えた。 「どうして、津山へ……」 何気なしに言ったのだろうが、触れてもらいたくないと思っていたことをママが聞いてきた。 カウンターにいる鈴子が、胸の前で手を小さく振っているのが見えた。 「早稲田を落ちたんで」 答えながら、優司はなぜか大学などどこでもいいと思った。 澱のようなものが、不意に消えたように思えた。 「そうなの……。でも、学校なんて、どこも一緒よ。卒業してからが大事だわ」 「……」 「今日は、飲みんちゃい」 私にも注いでと言って、ママが盃を手にした。 「鈴子に鶴山公園で出会ったんですって?」 「知ってたんですか……」 「そう。鈴子がそう言ったのよ」 「……」 「いつだったかな? 西本さんに会ったって、随分、喜んでた」 「……偶然に」 「あの子はね、それでも苦労してんの。上斎原っていうとこのね……」 奥の部屋から、(おーい。ママ、こけぇー、来いやあ)と呼ぶ声がした。 「じゃ、また後でね」 「ああ……」 鈴子のことが聞けそうだったのに――と優司はママを呼んだ客に腹を立てる。 鈴子に会ったのは、今日で三度目だ。そんなに何もかも知ろうと思うのは無理な話だと、優司は諦める。 店の時計が、午後八時を指していた。 いつの間にか、客は多くなっていた。ほとんどの席は埋まっている。鈴子を目で探したが、どこにもいなかった。 勘定を払う。思いのほか安かった。 外に出ると、生暖かい風が頬を撫でた。 |
第046 束風 二十二
| 津山大学の学校案内を見た限りでは、津山は人口が十万ばかりで中国山地の中ほどにあり、何もない小さな街だと思っていた。 津山に来て、あちこち歩き回るうちに優司は思い違いをしていることに気付いた。 津山市は、昭和四年に市になっているから、さほど古い市というのではない。 だが、津山盆地の中心都市で、かつての美作の経済や文化の核を作っていたことを知ったのだ。 鈴子に出会ったからというわけではないが、津山が好きになりそうである。 同じクラスの石村直人に国文の懇親会にどうだと誘われた時、津山の感想を話したことがある。石村は、津山を西の小京都だと言ったが、確かにそうだと優司も思う。 「津山は、いい町ですねえ」 そう言った石村も、津山は初めてだったようだ。 四月の大学は、一年間の科目の選択計画をどうするかということや、講義に慣れることなどで慌ただしく過ぎて行った。 幾つかのサークルからも誘われた。写真部にも興味があったが、持っている安物のカメラではどうしようもないので断った。 卒業した青山高校と同じように文芸部があった。何年生か分からなかったが、髪が長く、目の細い、俗に言う瓜実顔の女の学生に声を掛けられて入ったのは、四月の下旬になってからだった。 優司は文芸部の説明を聞いて、松江の高校文芸部で小説を書いていたことを思い出した。三年になってからは、受験勉強に明け暮れていたのだから、一年振りである。 優司は、(じゃ、文芸部に入らせてもらいます)と言った時、また小説を書いてみようかという思いがちらりと顔を出したが、どうしてもという気持ちはなかった。 文芸部に――と言った学生は、美人とは言えなかった。だが、それこそ狭衣物語や蜻蛉日記などの古典文学に出てくるような、少しばかり妖しげな雰囲気を持った女だった。それに惹かれたのだなと優司は、ひとり笑う。鈴子とは正反対の感じだった。 「美作文芸っていう雑誌を出しているんですよ」 狐顔の学生は、にこりともせずに言った。 何人かの新しい入部者名が書かれた名簿に名前を書きながら、多分、あまり熱心な部員にはなれないだろうと思った。 その時、鈴子の顔が浮かんだからだ。 |
第047回 束風 二十三
| 津山に来てまだ一か月にならないが、気が付くと四月の終わり、二十八日の金曜になっていた。 五月第一週の月曜と火曜は、講義予定を見ると休講が多い。教官も連休を意識しているのだろう。水曜からは、祝日が三日もある。大学を休んで週末を入れると、十日近くも休みが続くことになる。 松江に帰ってみよう――優司は、そう決めた。 金曜日、最後の講義日本文学史 が終わった。一年生、二十人ばかりの科目である。誰も彼もが、明日からの連休を話題にしていた。 「西本――。連休はどうする?」 賀屋野に話しかけられた。 「ああ、松江に帰ってみようかと思ってるんだが」 「そうだよな。休みの間、津山にいても何もすることがないもんな」 優司は、同じクラスの石村が、(津山は、いい町ですねえ。小京都って呼ばれてるようだけど)と言ったことを思い出した。 「僕は……好きだけどな」 鈴子の顔が浮かんだ。 「石村も、そんなこと話してた」 賀屋野は、頷きながら言った。 「かなり前だが、石村君は研究のテーマのことを聞かせてくれたけど」 「あいつは真面目だよ。俺は、どっちかというと不真面目だな。いや、非真面目だ」 それはどう違うのだと聞く前に、賀屋野が言う。 「例の楽我来≠ノ、また行ったけど、なかなかいい店だよな」 思わず優司は、賀屋野を見詰めた。 「あれから、二回――行った」 「……」 懇親会も含めれば、四月に三度ということになる。酒も飲んだのだろうが、鈴子と話をしたはずだ。 「鈴子って娘、俺が行ったら、まんざらでもなさそうだった」 そんなはずはない――と、危うく大声を上げそうになる。 「そりゃあ、お客だからだろう」 自分に言い聞かせるように、優司は呟いてみる。賀屋野は答えず、目を細めた。 優司は賀屋野のように、二度も三度も行く金は持っていない。 松江に帰って、何とかしようと思った。 |
第048回 束風 二十四
| 五月になると、汗ばむような陽気になる日が時たま訪れるようになった。かと思うと、厚着をしなければ寒いほどらに冷え込むこともある。 連休が終わり、二週目になっていた。 夜になって、優司は鈴子の店に行ってみようと決めた。松江に帰り、五月分の生活費を貰ってきたので、少しは使ってもいいだろうと思ったのだ。生活費とは言うが、学費でもある。財布に金を入れる時、後ろめたい気がふっと起こったが、頭を二、三度振り、その思いを追い出した。 午後九時を過ぎた下紺屋町の飲食店街は、色とりどりの灯りが酔客を誘っていた。 優司は肩をいからせ、元魚町の交差点を西に入った。大通りから路地に入る。酒処楽我来≠ニ書かれた看板が見えた。 店の前で立ち止まり、歩いて来た道を振り返った。むろん、優司を見ている者など誰もいない。 「――らっしゃい」 中に入ると、この前のように若い男の声が迎えた。だが、何となく力のない響きである。満員だった。この前、座った小上がりは板で作られた小さい衝立で仕切られ、どの席にも客がいた。カウンターも座る場所がない。 帰ろうか――迷っていると、奥の部屋に居たらしい鈴子が、仕切の暖簾を両手で分けて顔を出した。 旅館の女性従業員がよく着ているような、紺色の着物だった。 「あ、西本さん……」 困ったわ、と言っているような顔で駈け寄って来た。 「いっぱいだね」 「多いのよ。土曜日だから」 小上がりの奥で、客に酒を注がれて飲んでいるママの背中が見えた。 「鈴ちゃん」 「はい?」 手招きし、鈴子の耳を両手で覆うようにして何か囁いた。鈴子が頷いた。 鈴子が(どうぞ)と目で合図をする。 奥の部屋と小上がりの間に狭い階段があった。鈴子が先に上がった。 階段を上がりきった左右に板戸があった。鈴子は左側の部屋に(どうぞ)と言う。 「ママさんが、都々逸を唄うとこなの」 入ると四畳くらいの細長い板敷きの部屋だった。真ん中に座机が一つある。 |
第049回 束風 二十五
| 鈴子が手を伸ばして、天井から下がっている電灯のスイッチをひねる。 明るくなった部屋の隅に、三味線の立箱が見えた。黒ずんではいるが、桐の木で造られているようだ。 「酔った夜なんか、店が終わるとこの部屋で都々逸やるんです。それも独りで」 鈴子が笑いながら、肩をすくめてみせた。 板張りで調度など何もない部屋だが、三味線のせいか、妙に艶めかしい雰囲気があった。 「ママさんの部屋?」 「――のようでもあるし、そうでもないような」 「どういうこと?」 「下の店がいっぱいの時に、どうしてもって言われると、ここを使うことがあるんですよ」 「いつもじゃないんだ」 「ええ、普通のお客さんは、二階に部屋があるなんてこと知りません」 「……」 「だから、ここに入るのは、特別な人だけってことです」 「じゃあ、さっき、ママが鈴ちゃんに耳打ちしたのは、そのこと?」 「そうなんです。だから、優司さんは特別な人……」 店では、西本さん≠セったが、優司さん≠ニ言った。それに――特別な人だとも言う。ママにとって特別なのか、それとも鈴子にとってそうなのか? 優司は不思議なものでも見るように、部屋を見回した。 裸電球が二つ下がっている。左手には格子状になった窓がある。 子どもの頃、似たような部屋を見たことがあるような気がした。それとも、何かの写真だったのだろうか。何となく懐かしいような感じがする部屋だ。 「窓の外は、どこ?」 「窓じゃないんです。ただの飾り……」 窓のない部屋――まるで密室ではないか。不意に顔が熱くなった。体の奥を何かが走ったような気がした。 「鈴ちゃん……」 「座って待っててください。準備してきますから……」 気が付くと、立ったままだ。 鈴子が部屋から出た。 ふっと、空気が緩んだように思えた。 |
第050回 束風 二十六
| 鈴ちゃん――と呼んだ。 優司は賀屋野の言葉を思い出した。 (鈴子って娘、俺が店に行ったら、まんざらでもなさそうだった) 賀屋野は、そう言った。 「座って待ってて……」 鈴子は直ぐに言い、下に降りて行った。もし、鈴子が何も言わなかったとしたら、どうしたのだろう。 鈴子は賀屋野が好きなのだろうか。そう思いたくはない。だが、鈴子に問い質すわけにもいかない。 階段を伝って、下から歌声が上がってきた。有線放送に合わせて歌っている客の声だった。 「遅くなっちゃって……ごめんなさい」 食堂の出前に使うような箱を手にしていた。ビールと小皿を取り出し、鈴子が机の上へ手際よく並べた。 「喧しいでしょ?」 「そんなことはない。面白いよ」 有線放送は八年ばかり前、昭和三十五年頃から都市の飲食店を中心にして普及した。津山も例外ではなかった。 有線放送は、好きな曲を電話で注文する。リクエストが混んでいると、曲を聴くまでに暫く時間がかかった。 聞こえてくるのは、帰ってきたヨッパライ≠セった。 ザ・フォーク・クルセダーズが一年前から歌い始めた曲だ。 オラは死んじまっただ……と、階下の声は、それを繰り返す。 「死んだなんて……やあねえ」 鈴子が顔をしかめた。不意に優司は、鈴子に鶴山公園で出会った時、桜の木の下で死ねたらいいと言ったことを思い出した。 あの時のように、寂しげな顔だった。 「この部屋には、有線はないんです。ごめんなさい」 言いながら、鈴子が酒を注ぐ。 独りで来たのは二度目だが、鈴子と二人きりというのは初めてである。煩い有線放送は、耳に入らない。鈴子が目の前にいるだけでいい。 「鈴ちゃんは、どこに住んでる?」 聞きたいことのひとつだ。 「私……。ここに」 「……」 「さっき階段を上がったでしょ。あの右。ほら、向かいの部屋」 鈴子は、住み込みなのだ。 |
第051回 束風 二十七
| 鶴山公園で鈴子と話をしたことがある。その時、高校へ進学することが出来たのは、叔母のお陰だと言っていた。叔母というのは楽我来≠フママである。 世話になっているというのは、住み込みで働いているということもだったのかと、優司は、あの時の鈴子の言葉を思い出す。 「隣の部屋で寝起きしてる?」 「そうです。この部屋と同じ造りになってて、変な形の四畳なんです。」 「じゃあ、ずっとこの店で仕事?」 「前にも言ったでしょ。高校を出てからなんです」 優司が聞きたいのは、いつからこの二階で生活しているのかということだ。 「高校の時も、ここに居た?」 「まさか。こんなとこで勉強なんか出来ません。学校の時は、寄宿舎に居たんです。卒業して、ここを手伝うようになってからは、ママが――叔母がここなら部屋代も要らないしって言うから」 「ああ、そうなんだ。ここで暮らしてるのは、かなり長い?」 ええ、まあ――と鈴子は口を濁した。 「上斎原村の、自分の家に帰るってこともあるだろ?」 「あります。店がお休みの時とかには、時々、母の顔を見に……」 「こういう店は、休むわけにはいかないだろうなあ」 店の灯りが消えていると、予約で確認するなら別として、飲もうと思って来た客は印象を悪くするだろう。 「上斎原には、最近、帰ったのか?」 「ええ、この間の日曜に。優司さんに撮ってもらった写真を母に見せたわ。上手に写してあるって言ってました」 「でも、いいカメラじゃないから」 「そんなことはないと思います。腕よ」 お世辞だということは分かっているが、そう言われると嬉しい。 「また撮ってやるよ」 机を挟んで反対側に座った鈴子が、頷きながら酒を注いでくれた。 「鈴ちゃんも飲まないか?」 「ありがとう。じゃ、ちょっとだけ」 優司は徳利を手にした。 鈴子が盃を持ち上げようとした時、ママが入って来た。 「ごめんちゃい。遅くなって……」 鈴子は出しかけた手を下ろす。 |
第052回 束風 二十八
| 鈴子に注ごうと思っていたのに――と優司は舌打ちをする。 ママの目の縁と頬が紅い。優司の隣に座って、ふうっと大きく息をした。鈴子と同じような紺色の着物だ。 「来てくれて、ありがとう」 さあ、どうぞと、徳利を持った右手首を返して注ぐ。 「じゃ、私は下へ」 鈴子が、空いた徳利を手に部屋を出た。 「忙しいんですね」 「そうなのよ。土曜日だからね。でも、お客さんあっての商売なんだから」 前に来た時から、もう二週間ばかり経っている。 「時々、来るようにします」 「学生さんでしょ――こんなところに来ちゃいけんよ」 横座りになったママに睨まれた。本気で言っているとは思えない。笑窪が出来て、唇が笑っている。 「でも……」 「そう言えば、賀屋野って人は、よく来るわね」 賀屋野の相手も、鈴子がしたのだろう。そう思った途端に、体の中で酒が走り出したような気がした。 「この部屋で?」 「下よ。ここは滅多に使わんの」 「じゃ、今日は?」 「店がいっぱいだったから。だけんど、西本君は特別」 「どうして?」 「鈴子が、西本君を気に入ってるみたいだから」 「そう言ったんですか?」 「そんなこと言わなくても、分かるの」 優司は、少し安心する。 「鈴子は、可哀相なんよね。上斎原村から来てるんだけど。それも山奥に家があって」 上斎原ということは、鈴子に聞いている。 「母親がね、独りで鈴子と弟二人を育てなきゃいけなかったから。それに……」 「それに?」 「――何でもない」 「弟は……」 いいわよ、そんなことはとママは言い、自分の盃に酒を注いで一気に飲んだ。 「そうだ。都々逸――唄おう」 酔うと都々逸を聞かせると、いつか鈴子が言っていた。 |
第053回 束風 二十九
| ママが唄いそうな都々逸を二つばかり、鈴子が教えてくれた。それを思い出し、優司は目を細める。 「西本君は、都々逸を知ってるでしょう」 「どういうものかってくらいは……。というか、唄ったりは出来ないです」 「そりゃそうでしょう。あなたの歳で都々逸なんか唄ったら――えっ、これどういう人ってことになる」 ママが大笑いをしながら、立箱から三味線を取り出し、弦をはじきながら音の調子を合わせる。 三味線を立てて構え、ママは唄った。 惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里 声が少し嗄れている。酒場の商売をしていると、酒と唄い過ぎで、そんな声になるのかもしれない。 「西本君が、この店に来るっていうから、惚れて通えば……って唄ったの。でも、これは昔からある都々逸よ。誰が作ったか分からないんだって」 鈴子のことを言われているような気がして、思わずママを見た。何でもないという顔でまた唄う。 暗い灯りに男が独り 女を待ってる夏の夜 「どう? 即興よ」 まるで自分のことではないか。気持ちをいたぶられているようだ。 ママは、三味線を持ち替えて唄う。 化粧落として昔を捨てて 私あなたに駆けて行く 「これも場当たり……」 夏の薄着は透けてるものの 心の内は七重八重 思い付きだとママは言うが、そう簡単に出るものではないだろう。それにしても、経験と長い暮らしの中から滲み出たものが、ママの都々逸かも知れない。 「馬鹿な歌を唄ってる。偉い人はいっぱいいるけど、私なんか、バカね」 「そんなことはない。上手いです」 「そう思ってくれる? 鈴子なんかは、あまり褒めてくれないけど」 「文学――だと思う」 「へえー。文学……。西本さんは文学部なんだ。そんなこと言った人、初めてよ」 階下がまた賑やかになった。 「忙しくないですか?」 そうね――と言って、ママは下へ行く。 |
第054回 束風 三十
| 三十分が経った。 階下からは、相も変わらず歌声やざわめきが上がって来る。ママの代わりに鈴子が来るかと思ったが、無視されているらしい。 もっとも、土曜日でお客が多いと言っていたから、何組かの客の席に付かねばならないだろう。たった一人のためにというのは無駄だと思っているかもしれない。 ましてや、学生だから金を落とす客でもなく、常連でもない。 得意客になりたい――優司はそう思った。だが、そのためには飲み代が要る。 「ごめんなさい……」 鈴子だった。左手に徳利を持っている。手にしているというより、二本の指でつまみ、ぶら下げていた。 「今日は多いんよ。お客さんが……」 顔が赤い。脚を横に投げ出し、隣に座った。着物の裾から、鈴子の白い足袋と足首が見えた。 「はい……どうぞ」 徳利を差し出す手が揺れ、盃から酒が溢れた。 「酔ってんのか」 ラスターで鈴子が拭く。 「ええ――そうよ。仕方がないんだ。いけない?」 居丈高な口調になった。いつもの、今までの鈴子とは違っていた。 「……」 「だって、飲まされるんだから。飲めば売り上げが増えるからって、ママは言うし」 酒を注ぎ直した手の爪が、紅に染められていた。誘い込まれるような濃い色だった。 「いつも、そうなんか」 優司は、ひと息に酒を呷る。つまみは粗方食べ尽くしていた。 「殆ど毎晩だわ……仕事よ」 体がふらりと揺れた。 「鈴子――」 思わず抱き寄せようとした手を鈴子が押し返した。 「あたし――今から出るんです」 「出る?」 「お客さんと……。ご飯食べに」 足蹴にされた気がした。だが、止めろとは言えない。 「また、来んちゃい」 鈴子は立ち上がると、よろりと一つ揺らいで部屋を出た。馬鹿野郎――優司は、その背に向かって呟いた。 |
第055回 束風 三十一
| 五月二十八日、火曜日付けの新聞は、日本大学全学共闘会議、いわゆる日大全共闘結成の記事を載せた。 四か月前の昭和四十三年一月、東京の日本大学で、裏口入学の斡旋にからむ不正所得や脱税事件などが発覚した。 学生による抗議集会が開かれ、五月二十七日に、全学部の合同集会で日大全共闘が結成されたのである。その後、日大全共闘は、全理事退陣や経理の公開などをスローガンにして、デモや集会を繰り返す。 六十年安保から八年も経っていた。しかし、安保条約反対を叫ぶ全学連主流派が国会に突人し、警官隊と衝突して東大文学部の学生、樺美智子が亡くなったわだかまりは、学生運動の中核として未だ残っていたのである。 大学の図書館で新聞を見た優司は、そのことを知った。だが、優司は学生運動には関心がない。進学する気もなかった東京の私大のことなど関係はないのだと、そう思って記事を読んだだけだった。 それはともかく、朝から、なぜか落ち着かなかった。 酒処 楽我来≠ノ行ったのは、もう二週間以上も前だった。 午後七時前になると、津山盆地は暮れ始める。優司は腕時計の針が、七時になったのを見て、行こうと決めた。 鈴子に会いたかった。 濃く塗られた赤い爪、(また、来んちゃい)と言って背中を向けた鈴子が目の奥にある。 直ぐにでも、もう一度行こうと思ったのだが、財布の中が不安で行けなかった。 誰にも言えないことだが、三度の食事を二度にして生活費を抑えていた。 夜になっているとはいえ、急ぎ足で歩くと汗ばんだ。 かなり酔っていたはずの鈴子が、お客とどこへ行ったかを確かめてもみたい。いつか鈴子は、誘われて外に出るのはよくあることだと言っていた。だが、出掛ける前の鈴子を見たから、余計に気になる。 路地の奥にある酒処 楽我来≠フ灯りを見上げて、額の汗を拭いた。 店の前に立つと同時に、入り口の戸が開いた。中年の男が出て来た。その後ろから(ありがとうございました。お気を付けて)と、女の声が追っている。 鈴子だった。 |
第056回 束風 三十二
| 入口の灯りに反射した唇が赤く光った。 「ちょうど、よかった」 帰って行く客の背中を見ながら、鈴子が小さく言った。時間が早いせいか、白い顔だった。 ちょうどいい――というのは、何のことだろう。客が帰ったことなのか、それとも入り口で出合ったことなのだろうか。 その思いと共に、顔を見たせいか、聞きたいと思っていたことは頭の中から消えていた。 「口開けだから、お客さんは少ないわ。カウンターでいいでしょ?」 午後七時半だから、こういう店では宵の口というものかと思った。 一階の奥の部屋には何人かの客がいるらしかった。二階がいいのだがとは言えなかった。 「見繕うわね……」 お絞りを持って来た鈴子が言った。 「うん――」 常連になったような気がした。ゆっくりとお絞りを広げて両手を拭く。 酢物の小鉢、徳利と冷酒の小瓶をすぐに持って来た。カウンターの奥に居た若い男――多分、板前だろうが、ちらりと目を走らせた。この前と同じように、濁った目をしていた。 「どうぞ……」 鈴子が左手の椅子に座って酒を注いだ。 「大学は、どうですか?」 講義は面白いという程でなかった。どうしても入りたいという大学ではなかったから、身を入れてという気持ちにはなれないでいる。同級生の石村と話をした時には、五月からは……と考えてはいたのだが、もう月末だ。 「大学はともかく、小説を書こうと思っている」 そんなことを言うつもりではなかった。「へぇー、小説……凄いですね」 「何――たいしたことはないさ」 わざと背筋を伸ばしてみる。 「どんな?」 聞かれても答えようがない。たった今の思い付きだからだ。 「学生サークルの文芸部に入ってる」 辻褄を合わせたつもりだった。文芸部は学生自治会と同じ部屋で、移動の出来る壁で仕切られている。二度ばかり顔を出したが、まだ何をどうするとも決めていない。 |
第057回 束風 三十三
| いずれ小説を書いてみようとは思っていた。はっきりした目的や思いがあるわけではない。だが、高校の時と違って、大学では時間に余裕があるはずだ。書こうと思えば出来るだろう。 石村は、研究テーマを近代文学と地方の役割にするというようなことを言っていた。創作は、それとはほど遠いようだが、書いてるのだと言えば石村にも自慢が出来そうである。あるいは、卒業論文にも関係することにもなるかもしれない。 「学生サークル……」 鈴子が繰り返した。 「ああ、大学の学生組織にそういうのがあって、文芸部もその一つさ」 「鈴ちゃん、ちょっと」 白い板前の服を着た男が、受話器を耳に当てる仕草をした。 「あら、電話みたい。ちょっと待っててください」 冷酒の瓶には、津山乃酒吟醸生≠ニいうラベルが貼ってある。冷えた二合瓶の外側を水滴が流れて落ちた。 「西本さん、アルバイトしない?」 戻って来た鈴子が、思いもかけないことを言った。 「アルバイト?」 「ここに来る学生さんなんか、たいてい何かやってるみたい」 「飲み代かせぎか」 「さあ、どうなんかな。それよりも、アルバイトする気あるんですか?」 当然だが、何がしかの報酬があるだろう。そうすれば楽我来≠ノ来る費用にもなるはずだ。 「いいよ。でも……何をしていいか分からないしな」 周りを見回した後、鈴子が耳を囲うようにして、小声で言った。 「内緒ですよ……」 鈴子の熱い息が耳にかかった。ぴくりと肩が震えた。 「あのね……」 ――月に一度くらいだが、岡山から店に来る男の客がいる。津山大学の学生達がどんな活動をしているか知りたいが、伝手がないかと言った。活動の内容について教えてもらえれば、その人にお礼はする。―― 「活動って何?」 言いながら、優司は図書館で偶然に見た日大全共闘結成の新聞記事を思い出した。 |
第058回 束風 三十四
| 新聞には全共闘の記事と一緒に、学生運動についての解説コラムがあった。 文化的なサークルのそれではなく、政治的な色合いをもつ社会運動をいう。大学が拠点ということから、当事者の学生は学生闘争、大学闘争などと言い、傍観的な目からは学生運動や大学紛争と呼ばれる、などと書かれていた。 松江の県立青山高校にも、そういう関係の活動に興味のある者がいた。新聞部の生徒に多かったように思う。だが、優司は関心が全くなかった。 「店に来る学生さんの中にも、お酒を飲んで、大学の専制支配と対決して闘争の先頭に立とう――なんて大声を上げる人もいるわよ」 「そうなのか」 徳利が空になっていた。 「お酒……持って来ましょうか?」 「……」 優司は、冷酒の瓶と徳利にちらりと目をやる。帰る時に払う金額は、幾らなのだろうという思いが、頭をよぎった。 「置いといてもいいわよ」 「置く?」 「お金……心配なんでしょ? この次に一緒にすればってこと」 いつものことだが、見透かされているようだ。先取りする鈴子が、少し怖いという気もする。 鈴子はそうは言うが、それにしても、いずれは払わなければいけない。 「じゃあ……」 何とかなるだろう――優司は頭を一度振って頷いた。 「コウちゃん、お酒」 カウンターの中に居た若い男に、鈴子が言った。 「あれ――どういう人?」 いつか聞いてみたいと思っていた。 「ママの息子。鶴田浩二の名前と一緒で浩二なの。去年だったか東映の博奕打ち≠チて映画があったでしょ。あの俳優の鶴田」 店を親子でやっているとは知らなかった。言われてみれば似た顔である。 「映画じゃないけど、そういう世界の人と付き合ってるのよ。四月にあった鶴山公園の桜祭には、雇われて露店を出したり……」 ママの息子のこともそうだが、鈴子の話から、まるで知らなかった世間を少しずつ見せられている。 |
第059回 束風 三十五
| 津山に来てから僅か二か月だが、高校の時とは比べものにならない程の変わりようだ。大学に入ったことはもちろんだが、初めての独り暮らしも、鈴子との出会いも大きな変化だ。 「さっきの話だが」 鈴子の話は、何なのだろう。 「浩ちゃんのことに話がそれちゃった。ごめんなさい」 鈴子がちろりと舌を出す。 息子なのか……。言われて優司は、いつも投げ掛けられる眠ったような目を思い浮かべた。 「岡山から来る人っていうのは?」 「えっとね、アーカイブスという会社の人」 アーカイブスというのは英語で、記録保管所、とか公文書館という意味だ。それくらいなら優司は知っている。 「何する会社?」 「いろんなことを調べることが仕事だっていうから、興信所みたいなものじゃないですか」 「興信所……か」 俗に言えば、探偵社だというくらいは知っているが、所詮は少年少女小説の範疇でしかない。 「岡山に会社があって、津山には何の用事か知らないけれど、月に一度か二度ほど」 「それで、ここの店に?」 「夕食を兼ねてね。もう、二年くらいになるかな? 常連さんに近い感じ」 「興信所のアルバイトって……どういうことするんだろう」 「大学の学生さんのことが知りたいらしいけど、詳しいことは聞いてないの」 分からないことばかりだ。 「さっき、その人から電話があったわ」 「なんて?」 「早田さんていう人だけど、この間、頼んだ人が居たかって。今、話したアルバイトのこと」 「それで、どう言ったの?」 「未だです――と返事したわ」 仕事の内容はよく分からないが、鈴子が言う話だからやってもいい。 「それとね。信用できる人以外には言わないようにして欲しいって」 優司は目で頷いてみせた。 来た時に出会った客のように、鈴子に送られて店を出た。飲み屋街を抜けると、深い闇が広がっていた。 |
第060回 束風 三十六
| 梅雨の季節になっていた。 曇りや雨の日が多くなり、何となく気が滅入るようになった。独り暮らしが二か月続き、気が緩んだせいもあるかもしれない。 早田と会うことになったのは、雨が途切れた日の午後だった。 鈴子を通じて早田が指定したのは、鶴山公園だった。喫茶店や居酒屋では目立つという理由である。 早田は、紺色のごく普通の背広を着てベンチに座っていた。どこにでも居るような、目立たないサラリーマン風の男だった。 「西本優司さんですね。井杉さんから紹介を受けました。早田です」 早田から先に声を掛けられた。 差し出された名刺には、アーカイブス調査研究所、調査課長という肩書きがある。 「ご協力いただけるそうで、ありがとうございます」 「いえ……どうも。西本です」 ご協力という言葉が、何やら秘密めいて聞こえた。 「まあ、どうぞ……」 狭くもないベンチだが、早田は腰を横にずらした。 「こういう会社の仕事は、どういうことをするのか……ご存じですか」 名刺を見ていると、早田が聞いてきた。 「何となく、分かりますが……」 「そうですよね。例えば」 興信所というのは、大きく分けると三つになる。一つはオーソドックスだが、いろいろな企業から依頼を受けて、他の会社などの信用調査をする。 二つ目は得意先の企業があって、採用する社員の身元調べを代行する採用調査専門の興信所である。 もう一つは業界用語で一本釣りと言うが、フリー客の事件を主体にする。事件と言っても、殆どが男と女に絡んだトラブルで、結婚調査などもこなす。 「こういう形だけではないですが、探偵社などと名乗る所には、まともでないことをするものもあるんです。私の会社は、しっかりしていますから安心してください」 「……」 「津山には親戚とか、知り合いの人はおられませんね? 友達は別として」 「ありません。それが何か……」 「だったらいいんです」 早田は、大仰に頷いてみせた。 |
第061回 束風 三十七
| 実はですね――早田が少し声を潜めたように思えた。 「私どもとしては、学生さんがどんな活動をされているかが知りたいのでして……」 「活動と言いますと?」 「大学に、学生自治会というのがありませんか?」 優司は所属している文芸部の隣に、そういう表示があるのを知っている。 「ええ、ありますよ。でも、僕は関わってはいないのです」 「いいんですよ、その方が――」 「自治会の活動ってことですか?」 「とりあえずは、そうです。つまりですね、自治会さんが、大学でどういう活動とか、うーん、動きですね、どんなことをしておられるかが知りたいわけです」 「要するに、学生運動ってことでしょう」 早田が、おや? という顔をした。 「早く言えば――ですね」 興信所が、そういうことを知って何になるのだろうと優司は考える。 「さきほど言いましたように、私のところの会社は信用度が高いですから、いわば企業の調査とか研究、そういうことが主な仕事なんです」 「……」 「ですから、企業で言えば、会社の業績を調査して、そうですねえ――まあ、活用とか研究ということですかね」 「活用……研究?」 「そういうことですけどね。私どもの会社が、大学のことで分かったことをどうこうするというんじゃないのです」 「……」 「ある所――そうですねえ、名前は申し上げることが出来ませんが、ある機関から依頼されましてね。西本さんは、そこまでお知りになる必要はないのです」 早田は口癖なのか、やたらにそうですねえ≠ニ、言葉を濁す。詳しく言いたくないのだ。それならそれでいい。 「……」 「我が社と西本さんの関係ということで、ご理解ください」 アルバイトだ。どこから経費が出ようと、それはどうでもいいことではないか。 「とりあえず、自治会さんが出されている会報のようなものでも、何でもいいですから出されているものが頂けませんか?」 その程度なら出来そうである。 |
第062回 束風三十八
| 学生自治会が出している会報やチラシなどは、当然だが優司も手にする権利がある。 大学構内で、何枚か手渡されたことがあった。興味のないことでもあり、ちらりと見ただけで捨ててしまっていた。それが役に立つとは思いもしなかったからである。 「ところで、西本さん。お世話になるお礼なんですが……」 家庭教師などのアルバイトなら見当が付く。だが、早田の話については、まるで手掛かりがない。 自分から切り出すのは、何となく気後れがしていた。早田が言ってくれれば、安心する。 「頂けるものの内容にもよるんですが、一回ごとに二千円が最高ということで、お願いします」 「二千円……」 「ええ、妙なたとえですが、普通の大工さんでは、一日の手間賃が約三千円ですから、そこまでにはなりませんけどね」 数日前、市内の書店で岩波文庫の『万葉集上巻』を買った。星印が四個付いていた。星は一つが五十円だから二百円の値段である。高いなと思ったが、二千円あれば十冊も買えるのだ。 「そんなに……」 「ええ、まあ、その時によりますが、悪くはないお礼かと」 「ありがとうございます」 思わず優司は、頭を下げた。 「受け渡しですが、楽我来≠フ鈴子さんに渡しておいてくれますか。時々、私が行って、あれば貰うことにしますから」 飲みに行かなくても鈴子に会える。優司は直ぐにそう思った。 よく分からない仕事で、多少の戸惑いもあるのだが、優司はそれよりも鈴子に会う口実が出来たことの方が嬉しかった。 「あ、僕も時々行きますから……」 「そのようですね。機会があれば、一緒に飲んでもいいですから」 早田は、薄い笑いを頬に浮かべて言った。 「じゃあ、そういうことで――」 早田の背中を見送りながら、自治会の会報などを集めないといけないなと思った。所属しているサークルの文芸部と、自治会は隣り合わせである。資料集めは難しくはないはずだ。 初夏にしては、冷たい北西の風が吹き始めた。夕暮れが近い。 |
第063回 束風 三十九
| 早田が欲しいと言った学生自治会の情報を手に入れることは、難しくはなかった。 自治会が定期的に出す会報は、いつでも手に入ったし、時として配られるチラシの類も気を付けていれば、何枚か集まった。 学生だから当然だが、早田のような外部の人間には、確かに出来ないことだ。 文芸部の隣が、学生自治会の事務局というのも幸いだった。隣室ということもあるかもしれないが、余分な枚数まで文芸部の机の上に置いてくれていたからである。 案ずる程ではなかった。 「西本君、近頃、熱心に来るのね」 文芸部に誘った、あの狐顔の女の学生が言った。後で分かったことだが、三年生で、文芸部の部長だった。 月に二度ばかり、定期の文芸部会が開かれる。会議という程ではない。殆どが雑談である。優司は、それが目的で出るのではなかった。 文芸部に顔を出すことで、隣の学生自治会のメンバーと出来るだけ顔見知りになりたかったからだ。 それぞれに部屋の入り口は別だったが、間にある仕切りは簡単な衝立のようなもので、両方の部室は自由に行き来が出来た。 自治会の学生達は、文書を作る時、文芸部を頼りにしていた。誤字や脱字の点検を頼んできた。文芸部の学生が、ガリ版を切って謄写印刷をすることもあった。 優司が持ち出せる資料は、幾らでも手に入るのだ。 アーカイブス調査研究所の早田は、優司が楽我来≠ヨ届けるものに、予想以上の金額を払ってくれた。 内容が欲しいものかどうかは知らないが、定期的に発行される資料が手に入るからだろう。 早田に指定された通り、資料は角封筒に入れた。 「早田さん、喜んでたわ」 そう言いながら、引き替えに、謝礼の入った封筒を鈴子が渡してくれる。鈴子は、中に入っているものを知っているようだ。 大学内部の資料を渡すのだから、後ろめたい気もしないではない。 だが、たいていの学生が持っているから、隠しておかねばならないものではないはずだと、自分に言い聞かせる。 それよりも、鈴子の店に行く回数の増えるのが嬉しかった。 |
第064回 束風 四十
| 何度か早田に資料を渡していると、何に使うのだろうという疑問が時々、顔を出す。 早田は、名前は言えないが、ある機関から頼まれてと言った。そして、知らなくてもいいことなのだとも念を押した。 我が社と西本さんとのビジネスだから、詮索するなという意味のことをやんわりと言ったのだと思う。 内容は学生運動に関わる資料だから、どこかの企業の人事担当か、あるいは、公安関係ではないかということくらいは察しがつく。 自分が集めた資料が、どこへ行き、どう使われるのかは関係のないことだった。不真面目だと言えばそうであった。節操がないと非難されるかもしれない。 学生の政治的な活動には興味も関心もなかったが、数年前には、慶応、中央や東京大学で学費闘争があったことくらいは知っていた。 早田と関わるようになり、自治会の学生と、挨拶程度の言葉を交わすようになってから、学生運動がぼんやりとだが分かるようになり、新聞にそういう文字が出ていると、目が行くようになった。 最近、早田に渡した津山大学自治会会報には、大学解体などという文字が躍っていたのを記憶している。 東京大学の医学部では、登録医やインターンの制度などの改革問題について紛争が起こっていたことも知っている。 夏休みだったか、東京大学では学部によって、無期限ストライキがあったと新聞に書いてあった。 津山大学ではチラシが配られたり、会報に中央の組織、全国大学自治会総連合、いわゆる全学連からの情報が載る程度のことで、学生が闘争を起こすなどということはなかった。なぜ、早田は学生運動が低調な津山大学の資料が欲しいと思うのだろうか。いつも不思議な気がする。 秋が深まり冬が近くなると、北よりの風を感じるようになった。盆地だからそうなのだろう。だが、もともと北や西から吹く風は北日本の日本海側で吹き、そのため豪雪になったり、海は時化たりする。 鈴子に聞いてみた。 「津山で? そんな風が吹くかなあ」 「束風って言うらしいけど」 鈴子は、そんなことどうでもいいじゃないという顔をした。 |
第065回 束風 四十一
| 新入生が行き交う四月のキャンパスは、いつもの春と同じで、何もかもが新鮮に見えた。三年前もそうだったのだと、優司は自分の姿を重ねてみる。 鈴子の店へ十日に一回は行くようになったのは、一年生の初夏の頃からだった。 早田に頼まれ、手に入れたものを届ける用事があったからだ。 アルバイトのつもりで引き受けたのだが、こんなことをしていていいのだろうかと思う時もある。 チラシや会報など、学生なら誰でも手に入るものならいい。時として、外部に出せないのではないかと思う資料も渡した。 会議記録が紐で括られ、捨てるものとして積まれていたことがある。東京の大学で開かれた自治会関係者の会議資料と記録で、関係資料なども付けられていた。分厚いそれは、半年ほど前のものだったが、早田は、微かに手を震わせた。 その夜、優司は早田に連れられ、今津屋橋の近くにある堺町の料理旅館に行った。船頭町もそうだが、その辺りは古くからの遊郭や旅館街である。 早田は、受け取った資料について一言も触れなかった。だが、久し振りだからというのが誘われた理由だった。 優司は、おおよその見当が付いていた。会議資料は、誰が見ても秘匿扱いになるようなものだったからだ。 「いい資料ですか?」 優司は、わざと聞いてみた。 「まあ、いろいろありますから」 豪華な料理が並び、酒が進むと優司は資料のことを忘れた。 「ともかく……、西本さんの協力には感謝してます。私の顔も立ちます」 早田は、何度も酒を注いだ。 「今夜は、ここで泊まったらいいですよ。明日は日曜だから大学も休みでしょう。それに、飲んで歩くのはよくない……」 かなり飲んでいた優司は頷いた。 早田が帰り、ふらつく体で布団が敷いてある隣の部屋に入ると、女が待っていた。 優司は初めてだった。 「知らなかったのね」 三十を過ぎていると思える女は、ふっと笑った。鈴子の顔が、何度も、その度に、目の奥で行き来した。 新入生を見ながら、優司は、あの夜のことを思い出す。 |
第066回 束風 四十二
| 行きずりの女と旅館で泊まった日から、鈴子が今までとは違った顔に見えるようになった。 初めて二階の部屋で飲んだ時、酔った鈴子を思わず抱き寄せようとしたことがあった。気配を察したらしい鈴子に、やんわりと拒まれた。それ以来、優司はその思いを捨てている。 もう一度、そういうことがあったとしたら、自分が惨めだと思ったからだ。 だが、堺町の旅館での出来事以来は、その気持ちは少しずつ消え始めている。 楽我来≠フカウンターで飲んでいると、ママが徳利を片手に優司の隣に座った。足がふらついていた。 「不景気ね……」 言われて、店の中を見回した。小上がりでは、土木作業員の服装をした中年の男が二人、顔を寄せて飲んでいるだけだった。奥の座敷も灯りが点いていない。 「ちょっとだけど、店を改装したのに、お客が少ないなんて勘定が合わないわ」 通路の横に、洒落た飾りが付いていた。 「はい、どうぞ」 注いだ酒が盃から溢れて、カウンターを濡らした。 「ここんとこ、目がかすむのよ。糖尿病かなあ」 「飲み過ぎじゃないですか?」 「そうかもね。ま、いいわ。これ、私の奢りだから」 「何で?」 「西本さんだけだわ、来てくれるのは。だからよ」 「僕だけって、大学の連中は?」 「賀屋野君や石村君なんかも、ずっと顔を見せないんだな。いつ頃からかな?」 最後の学年が始まると、確かに大学は忙しくなった。卒業論文もだが、就職のこともあるのだ。酒を飲んでいる暇はないのかもしれない。 「誰も忙しいのかもしれないし」 優司は、早田とのことがあるから、どうしても楽我来≠ノ来なければいけない。 「来てくれるようになってから、三年も経ったのね」 鈴子の姿が見えないことに気が付いた。 「鈴ちゃんは?」 「用事があるって……上斎原に帰ってるわ」 休むとは聞いていなかった。居ない日に来たのは、初めてだった。 |
第067回 束風 四十三
| 店が何となく淋しい気がするのも、鈴子の居ないせいかもしれない。酒を出す飲食店は若い女の姿があると華やぐ。 「いつから?」 ママは指を折った。 「二日、うーん、三日前からだったわ」 店で鈴子に会った翌日だと、優司も頭の中で計算をする。 「何の用事なのかな?」 呟くように言ってはみたが、鈴子のことをあまり知らないことに気付く。 「暫く帰っていなかったら、いろいろあるんじゃない。十日ばかり休みたいなんて言ってたから」 鈴子は不思議な女だ。どうでもいいとは思いながらも、年齢も知らない。 楽我来≠ナ酒を飲みながら、たわいない話をする。時にはママの都々逸を鈴子と一緒に聴き、声を上げて笑う。早田と一緒だと、鈴子は黙って聞くともなく二人の話を聞いている。 鶴山公園には、鈴子と一緒によく行った。ほかにも行くところがないではないが、初めて二人で話をしたところということもあって、いつも足が向かうのだ。 鈴子との関わりは、それだけだった。 自分のことに関わる話題になると、鈴子はそれをいつも避けようとする素振りをした。仕事が仕事だから、そうなのだろうと優司は思っている。 「鈴ちゃんが居ないと、店が忙しいでしょう。誰か代わりは?」 「アルバイトの人に来てもらったりしてるから、それはいいのよ。でも、ここんとこ、お客が少ないからね。そんな人、必要ない時が多い」 少し淋しげだった。ママの息子の浩二も手持ちぶさたなのか、カウンターの中でラジオの野球中継を聴いている。 私も――とママは言い、グラスに自分で酒を注いで一気にあおった。 「そんなにして飲んじゃ、体に悪い。糖尿病がどうとか言ってたんじゃない」 「大丈夫よ……」 「そうかな」 「店……止めようかな」 背中が硬くなった。 「冗談でしょう」 「お客も少なくなったし、借金もねえ」 珍しく弱気だと思いながら、優司はママの顔を見た。蒼い翳りがあった。 |
第068 束風 四十四
| 小上がりで飲んでいた二人連れが帰ると、客は誰も居なくなった。 「やっぱり不景気だわ。ここんとずっとよ」 そう言われてみると、この一か月ばかり大勢の客が入っていたことがない。 「たまたま、そうなんじゃないかな」 慰めるように言ってみたが、ママは首を横に振った。 「潮時かもしれない。鈴子のこともあるし」 「鈴ちゃんが、どうかしたんですか?」 言おうか言うまいかと、迷っているように見えた。 「浩二と一緒になってくれればって、思ってるんだけどね」 頭を刃物で切られたような気がした。 「……」 「鈴子は、浩二のことをよく思ってないようだけど」 「そんな……」 ママが薄い笑いを頬に浮かべた。 「好きなんでしょう」 「別に」 「分かるわよ。でも、あの子は駄目」 「……」 「齢だからね。それに子どもだって居るんだから、西本君なんかには似合わないわ」 聞き間違えではないか。だが、確かにママは子どもが居ると言った。まさか、そんなことがあるはずはない。 「子ども……が居る?」 「あれ? 知らなかったの……」 ママは唇を歪めて笑った。冗談を言っているのだ。 「まさか……」 鈴子から、そんなことは聞いてもいない。 「上斎原に居るわよ」 「弟が二人……」 「鈴子が、そう言ったのね」 「ああ、そう聞いてたけど」 「弟は一人。下は鈴子の子どもよ」 体が冷たくなった。鈴子が母親などと、そんなことがあっていいものか。 「高校出て、二年目だったかな。店に来ていた客とそうなっちゃって」 「……」 「だから、中学生のはず。今年……三年生になったんだと思う」 鈴子は三十を過ぎていることになる。 齢よ――というはそのことなのだ。自分のことになると、口を噤んだ訳がやっと分かった。 |
第069回 束風 四十五
| 騙されていたということになるのか。いや、そうではない。言わなかっただけだ。だが、隠していたと言えばそうである。 「生まれる前に何とかしなきゃって怒ったんだけど、どうしても産むんだって」 頭の奥で、鈴子が笑いながら深く暗い穴の底に落ちて行く。両手を上げて、フィギュアスケートのスピンのように、回りながら落ちる。白い衣装を着けているかと思ったが、鈴子は素裸だった。 「四十ばかりの……、どっちかって言うと優しい男だったわよ」 耳を両手で塞ぎたい思いに駆られた。 「奥さんが居たけど、別れるから、いつか結婚しようと言ったの。鈴子はその気になってしまってね。こういう所へ来る客なんて、そういうもんよ」 盃を持つ手が震えた。 「鈴子は、小さい時に父親が亡くなってるの。だから、そのお客に親を重ねたんよ」 三年前、鈴子が言ったことを思い出す。 ――あのね。いいこと教えましょうか。優司さんは私のお父さんの若い時に、ちょっと似てるのよ―― もう少し早く、鈴子に出会っていればよかったと優司は思うが、それは出来ない相談だった。 「岡山の病院で産んだわ」 「それで……、その男、いや、その人とはどうなったんです」 やっとの思いで、優司は聞いた。 「交通事故で……。子どもが一歳になった時の四月だったわよ」 「亡くなった?」 「そう……。それで、鈴子は子どもと一緒に死にたいって、あの頃、いつも呟いてた」 優司は、また思い出す。春の鶴山公園で出会った時、(桜の木の下で死ねたら)と言い、二階の部屋で飲んだ時には、一階から上がってくる帰ってきたヨッパライ≠フ歌声を聞いて、(死んだなんて……やあねえ)と言って顔をしかめたのだ。 鈴子の何もかもが、名も知らぬ男の所に行き着く。 あの鈴子が、少女のような鈴子が、そんなことがある訳はない――そう思いたかった。ママは作り事を話しているのではないかと思いたかった。 もう店を閉めるから、というママの声を聞いて外に出た。四月に吹く筈もない北風が、頬を嬲って通った。 |
第070回 束風 四十六
| 夏が近づいていた。 それまで眠っていたような太陽の光が、鞘から抜かれた短剣のように光る季節になっていた。 大学も四年になると、講義の時間は極端に少なくなった。一週間の内、二日だけ大学に行く。 例年のように四月の終わりから五月の中旬にかけては休講が多かった。それをやりくりして帰省した。 松江に帰っても遊んでいた訳ではない。 卒業論文を書くために、島根県立図書館で、当時の古い新聞が収められたマイクロフィルムを見る必要があった。 卒論の題目は『志賀直哉私論―小説と山陰を考える―』にしている。 志賀は一時期、松江に住んだことがある。大正三年の夏だった。濠端の住まひ≠竅A伯耆大山を舞台の一つにした暗夜行路≠ネどの作品を書いた。 かなりな文献を手にして、優司が津山に戻ったのは、五月の終わりだった。数えてみると、一か月ばかり津山を留守にしたことになる。 大学に行くと、文芸部の部屋に学生自治会の会報などが幾つか届いていた。 アーカイブス調査研究所の早田に渡せば、いつものように喜ぶだろう。 情報を提供するようになってから、もう三年になる。 夜になって、雨が降り出した。 優司は、届けるついでに、鈴子に会おうと思った。 元魚町の交差点を西に曲がった。下紺屋町の路地に入る。 酒処楽我来≠フ灯りが見える――はずだった。 店の灯りは、どこにもなかった。 優司は、立ち止まった。その通りには、人影もなかった。 「今夜は、休みなのか……」 手を掛けた格子戸は、いつになく冷たい。しかも、うっすらと埃を被っていた。 ――都合により、酒処楽我来≠閉店いたします。長い間のご愛顧、感謝申し上げます。店主―― 「そんな……馬鹿な」 乱雑な墨字で、そう書かれた段ボール箱の切れ端が、格子戸に貼られている。 雨の雫で墨字が滲んでいた。 嘘だろう、と優司は呟く。 |
第071回 束風 四十七
| 閉店――と書かれた厚紙が、揺れてばたばたと音を立てた。ふひゅーと、細い風の音が聞こえたような気がした。北西の風、束風かと思った。日本海沿岸でもない津山で、そんな風が吹くはずがないと、いつか鈴子が言ったことがある。 優司は振り向いた。鈴子が立っているような気がしたが、闇があるだけだった。 もう一度、格子戸に手をかけてみた。二度と開くことはなかった。 優司は、暗がりの中へ向かって歩き出し、頭の中で鈴子と会話をする。 「店は、どうしたんだ?」 鈴子と一緒に歩いていたら、優司は、まずこう聞くだろうと思った。 「ええ、ママはもう疲れたって」 「だからと言って、止めなくてもいいだろ」 「そうなんだけど、ママって糖尿病なのよ。最近、目がよく見えないらしくって仕事は無理みたいだったし、それに店の改装で、お金……かかったって」 「せっかく、綺麗にしたのにな……」 「その割りには、お客が少ないしね。だから、借金が返せないなって愚痴言ってた」 「繁盛していたんじゃないのか?」 「優司さんが、最初に来た頃はね」 鈴子は優司の右手を握って言う。ポケットに入れていた手を出して見た。鈴子が左手を絡めているはずはなかった。 「鈴ちゃんは、これからどうする?」 「上斎原に帰るわ……」 「子どもが――居るんだってな」 鈴子が、びくりと肩を震わせて立ち止まった。顔をそらした。白いうなじが濡れたように光っている。 「隠しているつもりは……なかった。子どもなんか持ってる女って……好きになんかなれないでしょ?」 「そんなことは……」 ない――と言いたいが、言葉が出ない。 「あなたが好きだった。私のお父さんに似てたから」 「もっと早く出会っていたら、鈴ちゃんは、幸せになってたかもしれない」 俺と一緒に――言おうとした途端に鈴子が叫んだ。 「さよなら……」 鈴子が駆け出す。 「待ってくれ」 闇に包まれ、消えて行く。ふひゅーと風が鳴った。吹くはずのない束風だった。 |