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長短編   そのひと
                         『青藍』掲載  平成21年3月

 そのひとに気づいたのは、出雲大社前駅から出た松江温泉行の一畑電車が、雲州平田駅に入ったときだった。

 窓から差し込む午後の日射しのなかで、うつらうつらとしていた飛鳥次郎は、ガタンという音といっしょに停車した電車のシートに背中を押し付けられて目が覚めた。携帯を取り出し、デジタル表示の時計を見ると、午後二時二十分だった。目を上げると、通路を隔てた斜め向かいの席に、そのひとは座っていた。

 昨夜は仕事のあと、出雲市にある西北学院大学の教授と代官町で飲んだ。好みのママがいる居酒屋だったこともあり、思わず飲み過ごしたのだ。宿酔に近いせいで、電車に乗ると直ぐに眠ってしまったから、そのひとがいつから座っていたのか分からない。

 きれいなひとだった。というより、美しいひとだった。

 きついのではないかと思われるほど、体を締め付けている錆びた色の帯に白い大島がよく似合っている。おそらくかなり長い髪なのだろう。アップにして、ふっくらと巻きあげている。そのせいか、細い面が際だっていた。

 隙がないといえば、そうであった。だからこそよけいに、艶めいている。心持ち体が窓の方を向き、首筋が誘うように大きく開いていた。さほど暑い日ではないのだが、その人の首筋は薄紅をはいているように見える。うっすらと汗が出ているのかもしれない。

 そのひとは、ひとつ溜息をつき、エアコンから流れる出る風で乱れた髪に右手を当てた。着物の袖がずれ、細く白い手が肘のあたりまで見えた。どこかで一度会ったことがあるように思えてきた。

 次郎は背を伸ばし、陽炎のように揺れる車内を見わたした。ほかには誰も乗っていない。不思議な気がした。

 いつのことか、どこでだったのか……。そのひとに会ったのは。

 次郎は電車の振動に身を任せ、目を閉じた。
「園駅、園駅」というアナウンスの声で、目が覚めた。そのひとは消えていた。誰も居ない座席に、午後の日射しが差し込んでいるだけだった。