短編小説 冬の虹
平成13年7月
冷え込みの厳しい夜は、遠くの音が冴える。 有希子は、レールを軋ませる最終電車の音を二階の寝室で聞いていた。 それは、しばらく忘れていたことを有希子に思い出させたのだ。なぜに電車の響きがそうさせるのか分からなかった。おそらく、空洞の中に放り込まれたような寂しさ、何かしら焦りのような、取り返しのつかないそれを感じたからかもしれない。 有希子は布団の中で寝巻きの前を腿のあたりで少しばかりはだけ、右手を滑り込ませた。 夫は出雲合同銀行の業務企画部長である。定年まであと五年、最後の職場だと思うのか仕事には熱心だった。その分、五十には二つ足りない歳の有希子に手を伸ばしてくることが少なくなっている。その夜もそうだった。取引先との宴会を早く切り上げて帰ってきたのだが、隣の寝床からは既に寝息が聞こえていた。有希子は風呂から上がり、夫の隣りの布団に躰を横たえたものの、寝付かれずにいたのだった。 人差し指と中指を揃え、ショーツの上から陰阜をなぞった。薄いブルーのそれは、気に入りの一つで中央に小さな紅いバラの刺繍がある。夫に見て欲しいと思い、風呂から上がってから穿き替えた。宴会の後だからアルコールが入っていれば、と思ってのことだった。 何度か往復した指に湿りを感じた。左手でショーツをずり下げ、両脚を拡げて膝を立てた。切れ込みに指を入れた。自分でどうすればいいのか分かっている。二本の指を曲げて上に強く押しつける。何度か繰り返した。そのまま、親指を敏感な所に当てる。小刻みに震わせているうちに(あっ)と、思わず高い声が出た。夫の寝返りを打つ気配があった。 昨夜のあのことのせいではないだろうが、いつもより朝が遅くなった。慌てて夫を送り出し、洗濯をすませると昼近くだった。 玄関入口にある郵便受けで音がした。配達は出雲市郊外のせいか、いつもその頃になる。 出雲市といっても、有希子の家がある西林木町は市の北東部であり、一畑電鉄川跡駅に近い稲作中心の田園地帯だ。北側はすぐ平田市である。寝室にしている二階の部屋からは、出雲大社の背後に連なる北山の中では最も高い鼻高山が見えた。冬になると、日本海からその山を越えてくる風はいつも冷たく強い。 何かのダイレクトメールだろうと思って覗いた中に白い封筒が見えた。特別のもののように、それだけだった。 西野有希子様、と筆字で書かれていた。裏を返した。仁多郡仁多町日賀史夫とある。新聞の催し欄を見て入った短歌教室で、いつも一緒になるのだ。 (短歌の……あの人。でも何?) 出雲市駅前にある文化センターで開かれるその教室に年度の途中だったが、参加するようになった。この十一月で半年である。週に一度開かれ、二十人ばかりが参加しているこじんまりとした教室で、有希子は固苦しくない雰囲気が好きであった。教室の最初の日、日賀史夫と隣り合わせになった。 「初めてです?」 「あ、はい。家にばかり居るものですから、こういう所に出れば仲よしになれる方があるかと思って……」 「じゃ、ちょうどよかった」 史夫は、悪戯を見つけられた子どものように笑った。有希子は、その笑顔に惹かれた。 「興味はあるんですけど、私、短歌を作るなんて初めてなんです。難しいものでしょうか」 「そんなことはありませんよ。僕だって、ここに来るようになってから二年しか経ってないけど、まあまあの歌が出来るようになったって思ってます」 史夫は老人福祉施設仁多寿苑の所長である。自宅と施設の本拠が鳥取市にあるため、単身で赴任しているという。有希子は、来てよかったと思った。気やすく話ができそうな人が見つかったからである。翌月から、教室が終わった後、二人で喫茶店に寄るようになった。 来年の二月、鳥取に帰り、三月には退職する。退職した後の趣味にするつもりで短歌を始めたこと、妻と会社勤めの息子、倉吉に嫁いでいる娘がいることなどを聞いた。 史夫は施設に勤めているせいか、いつも穏やかな顔を見せていた。気さくな性格で、喫茶店に誘ったのは史夫の方からである。有希子は背があまり高くもない。丸顔で、短くしている髪のせいもあって十歳は若く見えた。誘われたのはそのせいかと思ったが、それならそれでもよかった。 毎週のように顔を合わせ、何時間かを一緒に過ごしていると、若くはないとはいえ、お互いに好意を越えた雰囲気が生まれるのは自然の成り行きだった。有希子の方も家庭がある。夫との二人暮らしでそれなりに満足しているのだが、このところ抱かれることが少なくなっていた。年齢の所為で当然だとも思う。女の盛りである四十代前半が過ぎ、閉経し、夫が退職前になれば、そのことに飽きてきたというわけでもないだろうが間遠くなる。だが時折、不満に思うこともないではなかった。 そういう暮らしの中で、別の男性と持つ幾ばくかの時間は、有希子にとって心が浮き立つようなそれであった。夫との暮らしを壊す気持ちは毛頭無い。ただ、史夫の言葉の端々に、(出来るなら二人だけの場が欲しい)と言いたげな気配を感じ始めてはいたのだ。 白い封筒から取り出した手紙には、仁多町の山里に降り積もる雪のことが書かれ、最後に「牧水の恋の歌集を読みてゐる雪の窓辺に君しのびつつ」と、短歌が一首添えられていた。その歌が上手いのかそうでないのかは分からなかったが、雪を有希子にかけ、想いを告げているということだけは理解できた。 (そんな……。そう言われても……) 有希子は繰り返し読みながら、驚きにも近い悦びに手が震え、理不尽にも躰の奥が熱くなるのを感じた。躰はそうなりながらも、夫を裏切ることは出来ないと思った。結婚して以来、一度も夫以外の男性に心を寄せたことも、ましてや抱かれたこともない。かつて結婚して数年後、ふとそんな願望が芽生えたこともないではなかったが、それは絵空事として、たちまち消えてしまったのだった。 十二月の教室は休講だった。有希子が史夫に会ったのは、手紙を受け取ってから一ヶ月を超える時間が過ぎた一月十三日の土曜日だった。教室では、ざんざめく新年の挨拶が受講者の間で交わされていた。 「西野さん、あとで……」 「いえ、今日は用事がありますので、早く失礼します。ごめんなさい。これを……」 有希子は、それだけを言うと、封筒を史夫に手渡した。「戯れに窓打ちし雪も消え去りてやがての春に幸の多かれ」――その紙片を入れただけで、他には何も書かなかった。短歌を始めてから、一年も経っていない。これが短歌か、と笑われるかもしれないと懸念もしたが、思いが伝わればそれでよいと自分を納得させていた。 (二月、鳥取の妻の元に帰るという。短歌教室で何度か出会い、二人だけに通じる時間があった。私も若くはないのだから、佳い時を過ごせたことを喜びたい。多分、史夫のことを私はいつまでも忘れないだろう。できれば史夫もそうであって欲しい。) 有希子は、西林木町の家に向かう帰りの車の中で呟いた。短歌を渡したことで、気持ちの区切りをつけたつもりだった。二月の講義日に史夫と会ったとしても、挨拶をするだけで帰ろうと思った。何も知らない夫を形だけは裏切らないですむはずである。 一月の二十日だった。有希子は郵便受けに史夫の封筒が入っているのを見つけた。便箋に短歌が一首。「寂しの極まり来れば雪の里冷酒を浴ぶ独り夜更けに」とあった。 思わず有希子は、涙を流した。 ――私のような女をどうしてこの人は愛してくれるのだろうか。もう二年もすれば五十歳になる。あの人の年齢が幾つであってもそれはどうでもいいが、私は女の刻を過ぎている。いくら何でも若い女性のように抱かれることなど出来はしない。子どもを二人も産んで小さくなってしまった乳房、化粧で隠している顔の小皺、がさついている指先、白髪を隠すために染めている髪……。老醜に向かって駆け降りている女に、なぜ思いを寄せてくれるの。―― ペンを持ったものの、どう書いていいのか分からなかった。赤い花模様のある便箋に、「寒き夜の屋根よりしづる雪音も遠くに聞きしと思ふ日あらむ」と書いただけだった。 折り返し返事が来た。「柔肌に焦がるる我を許したまふ人はと問えば君のみにして」――この前と同じように短歌一首だった。 有希子は、混乱するほかなかった。だが、それが治まると同時に、ふと、そうなってもいいと思ったのである。夫を愛していないというわけではない。女として、せめて別の世界を垣間見る瞬間があってもいいのではないか。こんな自分でも好きだと言ってくれる人があるならば、一度だけ目を瞑ったとしても、許されるのではないか。論理に合わないことも分かっている。でも、ここまで気持ちを揺り動かされれば、一度だけ、たった一度だけ、足を、いや、道を踏み外しても……。 そう考えたとき、夫の顔が浮かんですぐ消えた。その有希子の思いを聴いていたかのように、再び史夫から歌が来た。「さはあれど過ぎし思ひに降る雪の命は消えむ空木のごと」――命とは、空木とは、私のことであるかもしれない。有希子は思った。 雑念を断ちきるかのように、有希子は「君が腕に近々夜を抱かれまくよしなし事のたはぶれなれど」――そう書いて送った。 有希子が会いたいと指定した場所は、史夫を驚かせた。ごく普通に考えるホテル、旅館ではなく、有希子の家だったからだ。 「有希子さんの家に?」 なぜか仁多からの電話は、遠くで聞こえた。いつしか、西野が有希子になっているのを聞き逃すますと、受話器を耳に強く当てていた。 「いいのです。――二月の初めの金曜、土曜、夫が出張で隠岐に行くんです。遠くに二人で旅行をすることなんか出来ませんし、出雲あたりのホテルでは人目につきます」 「そうは言っても……」 「誰にも気づかれないのは、ここなんです」 出雲女子短期大学の北側、つまり裏手に有希子の家はある。小さな庭が大学構内の学生用駐車場に隣接していた。そこに車を停め、庭から入れば誰にも気づかれずに済む。周囲には未だ田圃が残り、隣りの家といってもかなりな距離で離れている。家の前を流れる小さな川が道路を隔て、人通りも夕方からは殆どない場所なのだ。 そう言いながら、有希子は自分の大胆さに半ば呆れもしていた。夫の留守の間に、男を家に入れる。そして抱かれる。電話の後、(一度だけだから)と何度も呟いていた。 立春は未だ二日先だったが、夕暮れは早かった。玄関の灯は消し、施錠をした。どの部屋も分厚いカーテンを閉めた。 約束の六時きっかりに、勝手口のドアを叩く音がした。ドアを引くと、こうなると知れていながらも困惑したような史夫の顔が薄暗がりの中にあった。(早く……)と唇だけを動かして史夫を入れた有希子は、後ろ手で鍵をしめた。何も言わず、有希子は縋りついた。史夫の両腕が細い有希子の体を締め付ける。長い時間のように思えた。(きつい、後で)――言いながら、両腕で史夫を押し戻した。 「ここが有希子さんの住まいなんですね」 客間に入ったものの、史夫は間が持てないのか分かっているはずのことを言った。有希子はそれがおかしかった。年齢が上なのに、年下の男のような気がした。 「旧のお正月ってわけじゃないけど、それに初めてでしょ。頑張って作りました」 「僕のために?」 有希子は(当たり前じゃないですか)と言おうとしたが、笑いがそれを止めていた。史夫も、自分の妙な言い方に気がついたのか笑った。ふいと、気持ちがほぐれた。 客間の炬燵板の上に並べたものは、午前中買い物に出掛け、午後から準備したものだった。お通しは、海鼠腸にした。磯の香がする。山里の独り暮らしだから、海のものがいいのではないかと考えたからだ。 三葉や椎茸を少し入れた蟹の甲羅詰め、もずくのレモン酢、揚げ蕎麦などだった。酒は鳥取市立川にある中川酒造の福寿海を取り寄せておいた。鳥取の酒なら馴染んでいるのではないかと思ったからである。酒の燗をしながら、史夫の妻を思った。理に合わないと思いながら、肌を針の先で突かれるような嫉妬が胸の奥から頭をもたげるのを感じていた。 注がれるままに有希子も酔った。今夜は現世ではない。もしかすると、前世なのかもしれない。或いは後世なのか。ならば余計に嬉しい。―― 有希子は酔いが回っていく中でそうも思った。 「まだあります。鰤の塩焼きとか数の子も」 「いや、もういい。それより……」 史夫は差し向かいになっている有希子の横に廻り、肩を抱いた。 「駄目です。ここでは……。二階の……寝室」 そこまで言って唇をふさがれた有希子は、暗い闇の底に引きずり込まれるような気がした。(堕ちて行く)――そう思った。 二階の寝室に寝床が一つ敷かれ、それぞれに青とピンクのカバーが掛けられた枕が二つ並んでいる。古風な形をした行燈の淡い光が、水差しや畳まれたバスタオル、脱いでいく有希子の裸形を浮かび上がらせていた。 有希子は、史夫に掛けられている布団の片方を捲ると仰向けになり躰を曝した。史夫は半身を起こし、右手を有希子の左胸に当てた。小さいが濡れたような乳房だった。閉じた脚の付け根の薄い恥毛が亀裂を隠し、それは腹部に向かうと、靄るように拡がっていた。 「一度だけですよ。今夜だけ」 「ああ。でも、ここはご主人との……」 「言わないで……。これ、私の布団です。あなたが来てくれたことを……あの人に抱かれても、思い出すことができるでしょう。悪い女かもしれないけど、嬉しいのです」 史夫は、黙ったまま唇を重ねた。有希子の口から、歯磨きの匂いがした。小さな舌を絡め取り、深く引き込んだ。一瞬、躊躇したらしく見えた有希子の腕が史夫の背中に廻り、締め付けた。有希子は息を弾ませ、(して……)と言いながら白い脚を開いた。 (夫に抱かれるこの部屋で史夫にこうされることは、背徳のほか何ものでもない。そうであるならば、もっと烈しいその中に自分を置いてみたい。たった一度だけだから) 幾度も上げさせられる叫びの中で、有希子は繰り返していた。 有希子もだったが、殆ど寝なかった史夫が熱い珈琲を飲んだ後、帰って行ったのは、東の空に冬の陽がちらと姿を出し始めた頃だった。遠ざかる車の音を聞きながら、有希子は温かみの残る布団に入ると青い枕を抱き、初めて眠った。 昼近くなって起きた有希子は、寝巻きのまま障子を開けた。ガラス戸越しに乳白色の北の空が見える。南の低い空から太陽の光が射し、目を凝らすと北山の連山にうっすらと虹が見えた。夏の虹もそうだが、冬の虹は空木のように、いっそう儚く寂しい。 冬空に架かる虹の命は短いはずだった。 |