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掌編小説
   指                 山 根 芙美子

                        島根日日新聞 平成14年6月26日掲載

 工場の見回りを終えて、事務室に帰ってきた工場長の伏屋は、椅子に腰掛けている男と目が合った。男は、三十を少し出たくらいであろうか、はっとしたように、髪をかき上げながら立ち上がった。知らない顔だ。
 長年、食べ物を扱う商売をしていると、いろんなことがある。黴が生えている。蚊が入っていた。食べた途端に気分が悪くなった、などと対応しなければならない苦情のタネはいくらでもあるが、まずは低姿勢で臨むことにしている。代わりの品に少々色をつけて持たせたりするが、なかには現ナマをせしめようという気持ちが見え見えの者もいる。(違うようだ……)と頭の中でチラと思いながら向き合う。
「パートの田所セイの代理です」
「あ、あんたが――」

 一年ほど前から、パートで通ってくる田所セイは、若い男と一緒に住んでいる、と聞いていた。
「フリーターなんだそうですよ」
「そりゃあ、定職がないってことだよな」
 何人かいる従業員のなかで、いちばん年かさの川口タミと、そんな話をしたことがある。
 履歴書には三十五才となっているが、ほんとは四十過ぎているとか。美人ではないが、そこそこ愛嬌があり、ちょっと太目の体型にボブが似合う。動作はゆっくり目だが、その分、手抜きをせずに仕事をこなしてくれる。
 三年ほど前、妻を亡くし、子供もいない伏屋は、正直、セイに心の動いた時期もあったが、五十という自分の年を考えると、いまさら一苦労する勇気もなかった。
 メーカーの下請けの下請けの形でコンビニ用のおにぎりを専門で作り、小さいが会社組織にしている。握る、包むなど、おおかたは機械がやってくれるが、弁当を頼まれたりすると、肉、魚、野菜も仕入れる。おにぎりにしても定番のほかに、韓国料理が流行ればビビンバ風にするなど、購買層の気を引くことも大切だと考えている。
 伏屋は性分もあって、衛生面では特に厳しく、細かいところまで自分で確かめている。先月の検査でも、保健所の担当がマル優の印を押した合格証を壁に貼って行った。

 ――実は、昨日、セイのやつが指を切ったとかで青くなって帰ってきました。医者に手当をしてもらったそうですが、一晩中痛んで大変でした。なんでも配達から戻って、かじかんだ手のままカッターのスイッチを入れ、はみ出したキャベツを押し込もうとして誤ったようで。――
 ――それは大変だ。私は、昨日の午後から甥の結婚式に出ましてね、だいぶ飲んだものでね、直接家に帰ったんですよ。申し訳ない。――
 丁寧に頭を下げた。そこへ川口タミが、せかせかと入ってくるなり、大声を上げた。
 ――社長、昨日のことですが、おセイちゃんが指を切ったと言って、医者に行くからと先に帰りましてね。連絡があったでしょうか。えっ、こちらおセイちゃんの旦那さんで、気がつきませんで。それで、どんな具合なんですか?――
 最後は、声をひそめた。

 セイは、カッターで指を切ったとき、痛くはなかった。ヒヤリと氷に触れたような気がして、はっとしたが、左手の中指から見る間に血が盛り上がってくるのを見て、とっさにエプロンで押さえ、包むようにして医者へ走った。タミには一言声をかけたが、作業に忙しい他の同僚は、気が付きもしなかった。
 二つ目の通りにある医院へ駆け込む頃には、脈に合わせてドックドックと波状に痛みが襲っていた。医者は、露出した骨を削り、皮膚を引っぱって、袋の口を絞るように縫合したようであった。医者の説明も上の空で、セイの頭は、アパートへ帰ることばかり考えていた。
 男は、横になったセイの手を四つ折りにした座布団に乗せ、氷で冷やしてやった。麻酔が切れ、うなり声をあげるセイに痛み止めを飲ませ、二人共一晩中、眠らなかった。

 伏屋は、封筒に数枚の札を入れ、当座の見舞いだからと男に持たせた。すぐ保険の手続きもするからと、付け加えることも忘れなかった。
 少しくたびれたブルゾンの背を見せて男が帰ったあと、これくらいで済んでよかった、明日は書類と一緒に花でも持って見舞いに行ってやろうと思った。

 夜明け近い薄明かりの中で、電話が鳴っている。伏屋は時計を見た。午前五時過ぎだ。それを確かめながら、受話器を取った。川口タミの切羽詰まった声が飛び込んできた。
「社長、新聞見て下さい。新聞! うちの製品から人の指が出たそうですよ!」
 タミはそう言って、ためらうように黙った。
 驚天動地とはこのことだ。伏屋はゴクリと唾を飲み込んで起き上がると、ゆっくり煙草を吸った。
 ――営業停止、工場閉鎖、製品回収、親会社との交渉。今までにも、これに似た経験はある。工場と機械を始末すれば、従業員にもそれなりのことはしてやれるだろう。落ち着け。――
 新しい作業服を着た。
 二台しかない電話が鳴り続け、ファックスが受信紙を連続で切れることなく吐き出しているであろう工場の事務室へ向かって、背筋を伸ばして歩き出した。


※講師評
 ある中央紙に載せられた「コンビニのおにぎりから指の一部が出てきた」というニュースを読み、島根日日新聞文学教室の皆さんに物語を作ってもらった。十人が書けば、十通りの物語が生まれる。当たり前のことだが、同じ物語はない。
 この作品は、原稿用紙で約6枚の小説である。結末を書かないのは、読者の想像にまかせるということである。
 小説は読み手を想像の世界に遊ばせる。想像の世界は無限に広がる。