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随 筆
  まさかのアンコール      福 間  宏

                        島根日日新聞 平成14年8月28日掲載

 まさに固唾を呑む思いだった。 
 もし、指揮者のタクトが再び振り下ろされることがなかったら、多分、私は、その場にいたたまれなかったに違いない。あの禁句を迸らせた途端、まわりの観客から非難の眼差しで睨まれたからだ。まるで、オペラのことが何も分かっていないという露骨な視線だった。(はしたない。よくもこんな場面で――)とでも言いたそうにである。

 舞台は二十数年前に遡る。
 大阪厚生年金会館は、オペラ好きの観客で埋まっていた。私もそのうちの一人として、座席に腰を下ろしたのだ。
 ウィーン・フォルクスオパー初来日の上演は、レハール「メリー・ウイドウ」である。幕が開くといきなり「金と銀」の序曲が奏でられ、数十組の男女が優雅なダンスを披露した。場内はいっぺんに華やいだ雰囲気に満たされ、極上のワインの口を開けたように、辺りには芳醇な香りが漂ったかとも思えた。
 聴き馴染んだ序奏に続いて、夜会服に正装した紳士淑女達の群が、次々と登場した。舞台をきらびやかに彩る光景は、社交界に無縁な私の溜息を誘った。あたかも幻想の世界に迷い込んだ気分になり、華麗なワルツを堪能した第一幕が終わった。
 感動の余韻が覚めやらぬうち、次の幕開けは、民族衣装に身を包んだ若い男女たちが、スラブ風の踊りを披露する舞踏会である。最初の円舞曲と対照的な躍動感に満ちていて、終始それに魅了され続けたのだった。その第二幕には、さらなる宴が用意されていた。東欧風な衣装に着替えたプリマドンナが歌うソプラノ「ヴィリアの歌」である。この感傷的なメロディーは、一度聴いたら誰でも口ずさみたくなるような親しみ易くて、心の中の弦をも響かせる名旋律だ。歌い終わると、場内は天井にこだまする喝采が十数分続いた。
 私は叩き続けた両手の痛みも忘れ、こみ上げてくるある種の衝動を押さえることができなかった。心臓は回転の上がったエンジンのような音を立てた。
 静寂が戻った間合いを捉え、私は『アンコール』と絶叫していた。
 異様な静けさが周囲を支配した。一瞬、私の頭は空洞になった。
 何の世界でも不文律の規則が存在するように、上演中の再演奏は禁じ手である。たとえ、どんなに感動しようともだ。
 早まったかという後悔に似た気持ちが襲った時、再び「ヴィリアの歌」が流れてきたのである。唐突な願いが、まさか実現するとは思わなかったのだ。歌姫が、一際輝いて見えた。指揮者に想いが通じた驚喜を、私は一生忘れることはないだろう。
 救われたような安堵感と指揮者に対する崇敬の思いが交錯した。「ブラボー」と、称賛の声が上がった。それはいみじくも私に言われたかのようにも感じられた。この夜を境に、私はオペレッタの虜になった。
 しばらく後のことだが、伝え聞くところによると、それは思いがけぬ演出効果をもたらし、日本公演は大成功だったと、フォルクス・オパーが喜んだという。冷や汗をかいたことは忘れ、私はにんまりとほくそ笑んだ。
 その後ウイーンに赴き、フォルクス・オパー劇場で「メリー・ウイドウ」を鑑賞する機会があった。そこで、私は愕然とさせられるシーンに出くわした。あの「ヴィリアの歌」の後、出演者がアンコールを強要したのである。出演者が、である。
 これが熱烈な手拍手にも拘わらず、何度も頭を下げるポーズに終始したなら「さすが! 本場」と、その伝統性と矜持に敬服したに違いない。
 期待すると、それ以上のものは得られず、失望する度合いが大きいことは、体験済みの筈だったのに……。 

※講師評
 自分は何に関心があり、何が好きなことなのか、ということを掘り下げてみることである。作者は、オペラを聴きにウイーンにまで出かけるというほど、音楽に趣味を持つ。この主題はそこから得られた。誰しも、何を書いたらよいかと悩むが、自分の体験や記憶から題材を引き出したこの文は、そういう意味でオリジナリティがある。ただ、身近なことを書けばよいというのではない。在り来りのことを工夫もなく書けば、読み手はうんざりするばかりである。
 冒頭、「固唾を呑む。」は、何が起こるかと思わせる。そこから回想形式で、禁句である「アンコール」が思わぬ効果を呼んだと語る。オペラではそれが禁じ手なのか、ということを初めて知る読者もあるだろう。ひとつには、読者は何かを知りたくて読むのだから、この素材は興味を引く。どういう主題を選ぶかというのも、書く能力のひとつである。
                          (島根日日新聞客員文芸委員/古浦義己)