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随筆 干された堤
  
         原 正雄   
                                                                        島根日日新聞 平成16年7月29日付け掲載

 薄汚れた青黒い水、その水面を生温かい風が、時々きらきらと、さざ波を立てながら走り去っていく。切り立った崖の樹木は枝葉をおもいっきり伸ばして、不透明な水深を一層深かめ、無気味な様相を漂わせている。
 ここ「中倉堤」は、斐川町の名峰「仏教山」に連なる山峡に稲作灌漑用としてつくられた町最大の溜池である。水面の面積は一ヘクタールには満たないだろうが、水をいっぱいに湛えた面積は計測値を遥かに超えた広さに思われる。
 下流の氷室と呼ばれている集落には無くてはならない存在であり、恐らく明治の頃に築堤されたものであろうが、確かなことは私には分らない。
 明治三十六年生まれの私の父は、十四、五歳のころ、斐伊川の右岸中流の寒村「阿宮」の郷から、片道十キロメートルはあろうかと思われる、直江の農学校に通う近道として、この堤のある山を越えたという。
 時々、そのころの様子を聞かされたものである。それは、日が暮れてこの堤の側を通ると、いつもなんだか体を引き込まれそうな気がして、足早やに通り過ぎたこと。暗闇の中、人が後から付いてくるような足音が聞こえるが、金縛りにあったようで後を振り向けない、無気味な恐怖心を覚えた、などと話していた。
 狐や狸が人を化かすといわれていた非科学時代の、迷信を真剣に論じ合っていた、僅か半世紀余り前のことである。今では懐中電灯の助けを借りることもできるが、そんなことなど縁遠く、しかも、寂しい山道を一人で通ることなど、想像することも出来ない。
 その堤では何人かが亡くなり、側に地蔵さんが祀られ、底の見えない無気味な様相を呈していて、魔物が棲んでいるなどとも聞かされた。そのイメージから、今でも気味の悪さが甦る。子どもを近づけさせないための、戒めにもしていたかも知れない。
 そんな堤ではあるが、私が小学校四年生の頃だったろうか、夏休みに入って間もない頃、上級生に連れられて鳥貝を採りに行った。
(広辞苑は、からすがいを、イシガイ科の二枚貝で、貝殻は卵円形、外面は暗黒色で、内面は青白色の弱い真珠光沢を有する。殻長は約二十センチメートルで、淡水生、池沼に潜って棲む。と書いている。)
 当時の上級生は高等科二年生が最上級であり、すでに声変わりもし、大人の風貌で、頼り甲斐があった。そんな上級生の誘いには断りきれず、十人ばかりもいただろうか。気味悪い話を聞かされていた堤ではあるが、ついて行くことにした。好奇心と恐怖心の行き交う子ども心は、いつの間にか大勢の勢いで堤の怖さは忘れていた。
 崖のような岸の草木につかまりながら、真夏の生温かい水の中に入る。浅いところでは足の指で探るのである。見付かると潜り、時には手に持ちきれず、浮き上がる途中で落としてしまうこともあった。段々慣れると足の届かない深い所までいって潜るのであるが、そんな深さになると、急に水は冷たく、耳がツーンとして、痛みを感じる。そんな体験をしながら、二時間も経ったのだろうか、かますに二杯も採った。
(かます=米が四十リットル位入る、藁で編んだ一メートル四方位の入れ物)
 持ち帰えると母に、「そんなに沢山のものをどうするのか」と愚痴られた。それでも大きな鍋で茄でてくれたが、身は硬く泥臭いようで、戦時中の食糧難時代とはいえ、食べられる代物ではなかった。それでもいくらかは食したが、かますに二杯もの大量の、そんな物はどうしようもなく、結局、採ることの面白さが殺生へとつながっただけあった。
 私はこの春、数十年振りだったが、山菜採りにその地へ向かった。
 突然、水の無い堤が現れた。なんとその堤は水が干され、その底では土木作業の重機が動いているではないか。作業をしている人に尋ねると、水留め堰が漏れ出し、修復工事をしているという。
 無気味な、水を湛えた堤を連想していた現実は一変した。赤茶けた粘土、泥土が溜まった岩盤、すり鉢の底のような所を細い筋をつけて流れる水。奥の山から滲み出たものだろうが、天気続きで僅かな流れである。そんな水の無い情景にはじめて遭遇し、不思議な気分にさせられた。
 当時、足を着けていた所は、三十畳敷きもあるかと思える台地である。築堤の時、硬い岩盤のため掘り下げることが出来ず、そのまま残したものだろう、と親切な作業員は説明してくれた。その岩盤を外れると、急に深くなっている。丁度、その辺りが子ども時代に潜った所であると思うと、いかにも無謀で、「知らぬが仏」であった。
 そんな危なっかしい行動は、子どもの怖さを覚えぬ冒険心ともいえるものである。
 僅か半世紀余り前までの子どもたちは、夏休みともなると、水浴びや魚捕り、蝉捕りが日課で、背中や腕は真っ黒に日焼けし、一度や二度は皮膚が剥がされ、時には危険と隣り合わせの、自然が相手でもあった。そんな体験は怖さを知り、危険を回避する心を無意識に養ってもいただろう。
 時代は進み、暮らしを大きく変えてきた。
 今の子どもたちはそんな溜池や、ましてや、そんな所で烏貝採りなど、知る由もない。文明社会の今日、想像するだけでも不思議な気にさらされるかも知れない。
 子ども時代の行動は、およそ大人の思考とは程遠い体験でもあり、方程式などない時代のあり方でもあろう。だが、過去の大人の体験や経験も、また貴重な存在として伝えることも必要である。
 干上がった堤は、水は無くても、あの無気味な水を湛えていた半世紀も前の遠い子どもの時代に引き戻してくれた。

◇作品を読んで

 かつて、農村には堤があちこちに作られていた。その堤で小学生の頃に遊んだ思い出を持つ作者は、何十年振りに堤へ行ってみた。驚いたことに、少年時代の記憶にある堤は全く変わった姿をしていた。作者は、時の流れを思い、暫く堤土手に佇んだ。その事実が素直に書かれている。
 自分の知っている事実、体験したことを分かり易く伝えるのが、文章の目的のひとつである。たとえば「感動した」、「驚いた」とだけ書いても読み手には伝わらない。体験を伝えるために必要なのは感想ではなく、事実そのものでなくてはならない。しかも客観的、具体的に述べることが大事である。
 だから、この作品は読み手に、なるほどそうだという共感を呼ぶのである。