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小説 トンちゃんのだんご汁
  
               穂波 美央   
                                                                        島根日日新聞 平成16年8月5・6日付け掲載

 電話が呼んでいる。
 洗濯物を干していた手を休め、思わず「ハイハイ」と返事をしながら、庭から駈け上がった。受話器を取ると、近所に住む咲子さんからだった。
「ちょっと……。今朝の新聞の死亡欄、見た? まさかトンちゃん、あの富枝さんじゃないわね?」
「えっ、ちょっと待ってよ」
 目を疑った。住所も年齢も間違いない。
「半年(はんとし)前、自家(うち)へ呼んで一日楽しく過ごしたのに、信じられんわ。確かめてみいわ」
 震える手でメモを開き、トンちゃんの電話番号を探した。
 受話器の向こうから、ざわめいた雰囲気が伝わる。やがて、トンちゃんの兄が出た。
「はあ――、急でしてね。入院して一週間ほどで亡くなりましたわ。昨日、葬式を済ませました」
 トンちゃんとも親しくしていた同窓生の嘉子さんにも電話をした。
「私もね、四月の連休前に入院されたって聞いて、見舞いに行ったの。その時は変わりなかったけど、ただ、食が向かないと言っておらいたわ。その後、大阪の妹の所へ遊びに行って帰ってみたら、明日が葬式だと聞いてびっくりしたわ。よくなっておらいとばっかり思っていたに。どこが悪かったかは、分からずじまいだに」
 翌日、朝一番でお悔やみに行った。
 仏前の写真は、この前会った時と同じ笑顔だった。トンちゃんは、無言で迎えてくれた。
「ミヨちゃん、早や、上があだわ。あんたの好きなだんご汁、作ってあげいけん」
 いつも言っていた声もない。ミヨちゃんと呼んでくれる人は、もう誰も居なくなった。
 かつて母もそう呼んでくれていたが、何とも言えない甘い言葉の響きが全身を包み、子どもの頃の純真な心に戻ることが出来たのだ。七十路になっても、嬉しかった。
 見覚えのあるトンちゃんの兄が、応対に出て来た。
「初七日の法要も葬式の日に済ませたので、明日は取り敢えず仏をお寺に預けることにしています。今日はあなたに拝んでもらえて、故人も喜んでいるでしょう」
「跡を継ぐ方は、決まっておられなかったですか?」
「今まで何だい話をしておらんだったもんで、甥や姪も皆独立しておうし、継ぐ者はいませんわ。この家も三十年前、富枝が北海道から帰って来た時、わしが建ててやったもんですけん」
 トンちゃんのところは、父の代から大工さんであった。年齢の割に若く見える兄を見ていると、遠い六十数年前の様子が浮かんでくる。
 私より一歳下だったトンちゃんとは、幼稚園から小学校三年生くらいまでの間、近所に住んでいた頃からの幼馴染みだ。十一人の兄弟姉妹で、あと一人生まれると表彰されるところだったが、それは叶わなかったらしい。
 なぜかいつも、青洟(あおばな)をたらし、乾燥した二つの筋が鼻の下に出来ている幼顔が思い浮かぶ。その頃は、誰でもそうであったように、ポケットティッシュもなく、洟が出るとよく洋服の袖で拭っていた。やがてそれは乾き、光っていたものだ。
 今のような飽食の時代とは違い、おやつも有り余るほど貰えなかった。農閑期の頃ともなると、五ヶ寺巡りの札打ちさん達の姿があった。一番札所の大社から順番に観音寺へ向かう道筋だったので、子ども達は札打ちさんが見えると駈け寄って行く。
「札うっつあん、めめがっしゃい、めめが無ければ銭がっしゃい」
 そう言いながら、飴や煎餅などを一つずつ貰った。お菓子を貰うためだけではなく、面白半分でもあったかもしれない。最初は恥ずかしかった私が、何ともなしに言えるようになった頃は、もう札打ちさんの姿はまばらになっていた。
 ほかにもお菓子を貰えるところがあった。家の三軒先に、三十歳後半か四十歳前半くらいのきれいな女(ひと)が独りで住んでいた。時々、鬚を生やした五十歳を過ぎたかと思われる男の人が、時には和服を着込んだりして訪ねて来るのを見掛けた。いつも着物姿で上品な物腰の女の人は、幼い目からもひっそりとした暮らしぶりのように見えるのだった。その家へタイミングのよい時を狙っては、上等の菓子を貰いに行った。
 私は、もともと今市町に住んでいたのだが、なぜ三年余りもその辺りに移っていたのか。母が言うには、二番目のお産は女の子だったが、すぐに亡くなり、その後、体調が良くなかったので、医者から空気の良い所への転地を勧められたからだそうだ。
 パラオのある一帯には、昔、高瀬川から九号線の道路まで続く材木店の土地があった。道路に面して家が並んでいた裏の方は空き地で、製材をする所があり、その近くの一軒に住んでいたから、大きな音はするし、製材の埃などが飛んでくる場所であったからだ。
 移り住んだ先は、観音寺から西へ行った所で、当時は桑園の続く静かな田園に囲まれた三軒の借家のうちの道路側だった。
 小さい庭には葡萄の棚があり、裏は桑園になっていて、実のなる時期は中に入り、口の周りやポケットを紫色に染めて食べた。その甘い味と舌ざわりは、その後、二度と味わうことが出来なかった。
 玄関の前辺りは春になると、れんげ草の広がる畑で、花を摘んで首輪をこしらえていた。花畑の写真も残っている。
 学校へは父に自転車に乗せられて行った。今市小学校で降ろしてもらう。学校が終わると、同じ方角の嘉子さんと道草をしながら帰った。道ばたのそら豆の葉をちぎっては、その先端を強く押さえて口の中で吸い、水脹(みずぶくれ)のように脹らませて、次々と風船状にするつもりなのだが、大抵は失敗に終わった。
 そのうち、住居が地域の境目であったのか、学区制が厳しく言われるようになり、転校しなければならなくなった。再び今市町へ戻ったのである。
 それ以来、トンちゃんとはだんだん疎遠になり、消息も絶えていた。
 再会出来たのは、お互いに五十歳半ばを過ぎてからである。
 再び会うことになったきっかけは、ちょっとした偶然の出来事からだった。訃報を伝えてくれた咲子さんが怪我で入院していた時、隣のベッドはトンちゃんだった。お互いの在所のことなどを話すうちに、私の近所と分かり、近況と住所が分かったのである。
 そうなると、自ずと情報が集まり、トンちゃんの半生が明らかとなった。
 トンちゃんは小学校を出ると、ある製パン会社に就職した。働き者であるうえに、大勢の兄弟姉妹の中で培われた人なつこさと優しい性格が幸いして、可愛がられた。
 娘盛りを迎えた頃のある日、親子ほど年の違う社長に連れられ、大阪見物に行くことになった。直ぐに帰るつもりの荷物で出掛けたが、そのまま戻らず、あちこち観光をして歩き、行き着いた先が北海道だった。どういう理由で、社長が出雲の店を捨てて旅に出たのかは分からない。
 ともかく、北海道で食堂を始めたが、二人の人柄の良さから店も繁盛したそうだ。子どもは無かったらしい。
 十年が経った頃、社長の親が亡くなった。それを機会にトンちゃんは、溜めたお金を社長に全部渡し、一人で出雲へ帰らせたのである。
 それからもトンちゃんは必死で働き、四十歳半ばになった頃、小金を溜め、何十年振りに出雲に帰った。家も建てたが、それでも更に働き続け、目が不自由になった妹の家族を二階に住まわせたり、妻を亡くした弟の世話をしていた。私が行くようになった頃には、もう一人の妹と同居して働いていた。
 生活は質素だったが、ゆったりとした暮らし向きに見えた。
「ミヨちゃん、来うだわ」
 それが口癖だった。行くと、メリケン粉でだんご汁を作ってくれた。戦時中の名残りが未だ生きていたのだ。
「おいしい」
 褒めると、こまめに菜のひたしや、芋の煮しめなどで膳を賑わせ、昔語りは止まることがなかった。
 いつ行っても、遠慮を感じさせず、くつろげる雰囲気づくりが上手だった。私ばかりではない。誰にでもそうであった。
「ミヨちゃん、二人で話しとうだわ」
 咲子さんと一緒に行った時も、そう言いながら自分は台所に立ち、ことことと調理の音をさせていた。やがて、どんぶり一杯にだんご汁を盛り、自分は食べるでもなく、美味しそうに啜っている私達を見ていた姿は忘れられない。
 子どもが無かったから、自分の老後のことは考えていなかったようである。跡を継ぐ者が誰も居ないと聞いて、意外だった。
 今頃は、冥土で、あの家の処分のこと、自分の供養のことをどう思っているのだろう。せめて一言でも、残された誰かに頼んでおいたら良かっただろうにと思う。お寺の片隅で、淋しくひっそりとしているのだろうか。
 いや、トンちゃんのことだから、自分を連れ出して青春を奪った社長と再会し、面倒を見ているのではないだろうかとも思ったりする。
 ついこの間だった。トンちゃんの住んでいた家の前に車で行ってみた。
 入口には綱が張られ、草は伸び放題になっていた。人の出入りしている形跡はどこにもなく、寂寥とした無人の家と化していた。
「トンちゃん、もっと話したことがあったのに……」
 そう呟いて、私は通り過ぎた。

◇作品を読んで

 幼かった頃の思い出が、「私」という登場人物によって語られる。作者は自分の経験を踏まえ、どうしてもこのことを書いておきたいと思った。それがこの小説のテーマである。
 一編の小説を書くためには、この作品のように原稿用紙で僅か十枚であっても、かなりな根気が必要となる。根気の後押しをするのは、どうしても書きたいという思いである。
 若いトンちゃんは、その性格のせいか、思わぬ生き方をすることになった。そしてどう暮らして来たか、読み手としてはそのあたりをもう少し知りたい。これは小説である。ならば、作者の想像(創造)の膨らみに期待したいところである。