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 随 筆 川柳の旅
    
               園山 多華
                                                                        島根日日新聞 平成16年10月21日付け掲載

 十月十日は、大阪市で開催される「川柳塔創刊八十周年記念川柳大会」と「第十回川柳塔まつり」という長いタイトルの付いた佳き日である。
 出雲勢は、「やくも」で日帰りということだが、私にはとてもそんな強行軍は出来るはずがない。松江勢は、前日からの上阪だから、それに合流することにし、切符を用意してもらった。心配なのは、台風二十二号の襲来予報である。
 九日の朝、習性で四時頃に目覚め、ラジオの天気予報を聞くと、台風は近畿地方に上陸する可能性があると言っている。大阪近辺も圏内に入る。困ったことだ。ラジオに耳を傾けると、どうやら静岡から東京辺りの雨が激しいようだ。風向きが東に傾き、北上するらしい。静岡には娘が住んでいるので気懸かりだが、大阪行きは決行出来そうだ。
 九日、九時五十二分の「やくも」で出発。雨は降っていないが、傘だけは鞄に入れた。出雲から女性二人、松江から男二人と女性四人。皆、元気いっぱいで、楽しい旅になりそうな予感がする。グリーン車の指定席は、和気あいあいである。
 岡山で新幹線に乗り換え、新大阪で降りて地下鉄という順路だ。聞けば、台風のために、乗って来た東京行きは新大阪でストップである。危ういところだった。 まずは幸運に恵まれて、会場の「ホテル・アウィーナ大阪」に到着し、九階のシングルの部屋に納まって、ほっと一息つく。
 川柳塔まつりは、もともと一月十五日である。「おめでとう会」として催されていたのが秋に入れ替わり、既に十回にもなるのだ。その一月は寒くもあり、途中で雪のためにバスが動かなくなり、電話をして投句したこともある。
 夕食は、さい先良しと乾杯で、前祝いにくつろぐ。女性優位の会で、とにかく姦しいことだ。本音を吐けば、私は川柳を始めてからビールの味を覚えたものである。友達から、飲めるようになって嬉しいなどと唆され、調子に乗ったものだった。
 ともかく、私の人生を明るく変えてくれたのも、趣味のお陰である。だから、卒寿まで生き延びることが出来たのだ。
 窓から見る大阪の夜景は毎年の眺望だが、ネオンの灯りは艶めかしいと、年甲斐もなく思う。憶い起こすと、北海道函館の夜景は、凄かった。亡夫との旅を想い、幻想に耽る。
 大阪の朝が来た。カーテンを繰ると、東の空から太陽が昇る。白い雲が静かに流れ、台風一過の空は明るい。当然だが、太陽の昇る方は東である。子どもの頃、遠出をした時には方位が分からないので、太陽に向かって両手を伸ばすと、右手の方が南、左手は北、後は西と教えられた。
 高層ビルの谷間は、太陽の光が届くのが遅く、人影もない。騒音もなかった。
 いよいよ、会が始まる時刻だ。四階の大広間「金剛の間」を出席者三百十四名が埋め尽くす。
 川柳塔社名誉主幹橘高薫風、川柳塔社主幹河内天笑氏の挨拶、祝辞は全日本川柳協会会長吉岡龍城氏により始まった。続いての表彰式は、路朗賞、川柳塔賞、愛染帖賞、茴香の花賞、一路賞、各地柳壇賞などがあった。路郎賞をいただいた私のあの頃は若かったことを思い出す。
 講演は地域語を大切にという「大阪弁と大阪文化」で、立命館大学教授木津川計氏のユーモアを交えたお話を興味深く聞いた。それが終わると、いよいよ披講である。兼題は、「八」、「教える」、「神」、「ドレス」、「やさしい」、「手品」、「散歩」と、盛り沢山である。しかも、普通は二句くらいだが、今年は投句各題一句という厳しさである。自選に苦労した。自信句のつもりでも、選者の好みもある。最初にぱっと捨てられれば、浮かぶことは殆どなく没になる。選者との瞬間の対決とでも言えるかもしれない。同想句が入選すれば、後からは駄目であり、最初に目に映った句が優先である。
 待てど、呼名の機会が来ない。諦めの中、「やさしさに狎れて低温火傷する」と、遂に最初で最後の呼名だった。全没を免れた。まさに汗顔の至りと言うべきだ。発想に新鮮味がない、平凡すぎる、説明句である。大会に出合うと、つらつら自己嫌悪を感じる。だが、また新しいチャレンジの気持ちが湧いてくる。生涯が勉強の場でもある。
 終わった後の懇親宴が、まつりの大団円だった。乾杯から始まり、食べて飲んで、握手して意思の疎通を図る。歌う人、踊る人あり、喧噪の場のごとしだ。二時間程も続いたか、やがて再会を誓い、別れを惜しみ、散って行く。
 私達は、もう一晩の宿泊で、のんびり型を決める。
 翌十一日は、なんばグランド花月の吉本観劇と洒落ることになった。主催者側の計らいによるもので、私達は笑いの中に溺れた。桂文珍の落語、漫才のオール阪神巨人など、テレビとは違う迫力に気分も若返り、またまた長生きが出来そうである。だが、笑い皺が、また深くなりそうだ。
 終わってから、川柳塔幹部の皆さんと会食。感謝に胸を膨らませ、再会を誓っての固い握手をする。
 大阪に名残を惜しみ、四時をまわって新大阪を出発した。逆コースの岡山で再び「やくも」に乗り、帰途につく。彼岸を過ぎると日も短くなり、出雲に着いた午後八時はすっかり闇の中だった。松江の方達にも、随分お世話になった。三日間の川柳の旅も恙なく終わった。謝々……。
「脱ぎ捨てて家がいちばん良いと言う」――先人の句を想い起こすことしきり。会場に飾られていた真っ赤なバラ一輪。大事に持ち帰り、居間に飾った。

◇作品を読んで

 作者の文芸趣味は幅広く、そのひとつが川柳である。自作の多いこともだが、多くの文芸関係の会合にも参加する。
 この十月、恒例になっている大阪での川柳塔大会に出席した時の印象記である。県内ならいざ知らず、あちこちに、しかも遠く大阪までの会合参加は、九十三歳という年齢からすれば驚異でしかない。それだけバイタリティーがあるのだろう。
 この作品は、その大阪のホテルで多くの部分が書かれた。聞いてみると、日記のつもりということだったようだが、日記であれ何であっても、宿でも執筆とは驚きである。
 こうして、日々の記録が残される。まさに人生の大いなる遺産であるとも言える。ますますのご健康とご健筆を期待したい。