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 随 筆 ギンヤンマ
    
               太田 静間
                                                                        島根日日新聞 平成16年11月25日付け掲載

 襟足を突き刺すような陽光、水平線の彼方からわき上がる入道雲の量と大きな瘤の連なり、頻発する台風。
 どの一つをとっても、今夏は破格であった。
 ニュースのたびに、真夏日の連続更新記録が伝えられる。もはや酷暑から逃れる術が、全く閉ざされたような錯覚に捉われた。
 それでも暦がめくられ、九月半ばになると、一向に衰えぬ残暑をよそに夕空には千切れ雲が点在するようになった。きっと上空の気流は、あの形のように流れているのであろう。
 やがて秋が降りてくるのだろうか。
 感傷に浸り、暮れゆく西空を眺めていると、いきなり私の頭に突進してきたものがあった。油蝉である。
 まばらになった頭髪を繁みと見誤ったわけでもあるまいに。何とも不器用な蝉である。第一、何の目的で飛び回るのか不可解だ。
 昆虫の思い出は、子供の頃の夏休みの記憶につながる。
 いつの時もそうであったが、長くて短い夏休みを無計画に過ごし、二学期が間近になると遊びに費やした空白を埋めるために奔走しなければならなかった。
 自主課題と称し、俄仕立ての昆虫標本作りが常であった。そのたびに、不器用な蝉を犠牲にした。
 この夏、邑智郡の山里に出かけた折、思いがけずギンヤンマを見かけた。
 すでに幻の領域に追いやられ、人里では生息していないと思っていただけに。溜め池の上で遭遇した時、驚きと懐かしさで熱いものがこみ上げた。
 茶褐色の羽根を小刻みに震わせ、中空で静止し外敵をうかがう姿に見とれていたら、少年の夏を彷彿させた。
 ギンヤンマは、俊敏な相手であった。それだけに捕獲には周到な手順が必要であった。
 まずシオカラトンボを捕らえる。それも雌でなければならなかった。胴体を糸で結び、竹竿をつけ、頭上でゆっくり振り回すと、縄張りに闖入してきた外敵を目がけて攻撃してくる。
 この時のもつれる数秒間が勝負であった。
 すかさず手で押さえにいくのだ。大抵の場合は逃がしてしまった。それだけに捕らえた時の手中で暴れる感触が何とも言えなかった。水の引かない青田に、夢中で踏みこみ、畦を壊し衣服を汚したが、凱旋兵士のように揚々と引きあげた。
 今でも鮮明な記憶の中にある。
 半世紀が過ぎた。里山に自然がもどり、蛍の飛び交う情景を目にするようになった。もう間もなく、ギンヤンマも出雲の平野部に広がる青田に帰ってくる。

◇作品を読んで

 今年の夏は破格のそれであった。そして、秋の風情が千切れ雲の中から降りてくるのを迎えた。その感傷に浸りながら暮れる空を眺めている作者の頭部に蝉が突き当たった。それに驚き、少年の夏を思い出す。
 不器用な蝉と俊敏なシオカラトンボの対比が書かれているのは、構成の妙である。また、体言止めと短い文の多用で、歯切れがよい。このような内容には、短い文の積み重ねが功を奏するという例であろう。
 更に、ユーモラスな文があり、光る言葉がある。まばらな頭髪を繁みと間違えたかもしれない蝉、秋が降りてくるのだろうかという表現が、この作品を価値あるものにしている。そして最後に作者は、ふっと今に返るのである。原稿用紙三枚に満たない作品だが、うまくまとまっている。
 随筆というのは、自分の体験を書く。こんな体験をして、こう考えたのだが、読み手の皆さん、どうでしょうかということなのである。その思いを読み手に同感してもらいたい。そういう願いで書かれた随筆は、共感を呼ぶのである。