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掌編小説
    蛍 火               山 根 芙美子

                        島根日日新聞 平成14年9月11日掲載

 龍一郎は伸也と同じ大学を出た鉱山技師である。偶然に同じ会社に入って二十年ほどになるが、去年、初めて出雲の地を踏んだ。
 日本海と田園地帯を区切るように、東西に山が連なり、山あいに石膏を産出する鉱山がある。そこからの依頼であった。山の九合目辺りに試掘櫓を組み、ボーリングを始めた。目的はモリブデン採掘であったが、含有量が少なく、採算が取れないことが分かった。二人が、その鉱山に来たのは、後始末だった。午後三時過ぎにはすべてが終わった。一席設けるというのを断り、周辺を歩いてみることにした。灌木を漕ぐようにして東へ向かった。龍一郎は石ころを、伸也は植物を採集し、日付と場所を記録して雑嚢に入れ、野帳にはさむ。いつものことだった。
 谷の水音に沿って下りに入る頃、あたりは薄暗くなっていた。どちからともなく眼でうなずき、小さな平地を見つけてリュックをおろした。仕事がら、寝袋、雨具、携行食、懐中電灯、磁石など最低限だが野営の用意はしている。小さな辻堂でもあったらしく、草むらに大人の頭ほどの石が五つ六つある。伸也が笹の葉に塩を盛り、いつの間に摘んだのか、一掴みのクレソンをとり出し、ウイスキーの小瓶の蓋を開けてくれた。龍一郎は、チーズの缶を開けた。かさこそと落葉を踏む小動物の足音、囁くような木々の葉擦れ、水音も聞こえる。あまり飲んでいない筈なのに、疲れからかウイスキーがたちまち二人を酔わせた。
 どれくらい時間が経ったのか、居眠りをしていた龍一郎は、伸也に小声で呼ばれた。起き上がろうとしたが、肩を押さえられた。伸也の指さす方を見ると、沢の奥に小さな光の点が現われ、数を増しながら近付いてくる。何千、何万とも知れぬ光が明滅しながら舞い、もつれ合っている。蛍のようでもあり、そうでないようにも思えた。無数に飛び交う光の残像は、濃紺の闇に金泥の散らし書きをしているようであった。呼吸をするのさえ憚られる時間が流れた。息を凝らして見守るうちに、一つ、二つと消え、遂には全てが遠のいて行った。
 
 龍一郎は伸也と一緒に、麓に近い寺の離れに泊まっている。庫裏で、白粥、梅干、卵の朝食を摂りながら昨夜の話をした。寺の奥さんは、眼を瞠った。
「そりゃあ、いいものを見なさいました。何年に一度でしょうか、蛍が湧くと、話には聞いとりますが、見た人に会ったことがないですけん。何かよっぽどのご縁でしょうねえ」
 作務衣の住職は、思案するように黙ったままだった。
「昔は山越えの道があって、その途中に小さなお堂がありましてなあ。今は束石が転がってるだけですが、あそこで小便をすると罰が当たると、年寄りによく言われたもんです」
 しばらくして、住職は、ふいと立ち上がり、奥の部屋から虫食いのある文書を持ってきた。紙縒で綴じてある古ぼけた紙束だった。
「檀家が土蔵を解いた時に出たもんでね」
 住職が差してあった栞を外した。
「偶然だったが、昨夜、ここんところを見つけましてな」
 ……卯之吉並びに妹さわ儀辻堂にて相対死致し候 乳貳ケ所腹参ケ所脇差にて疵付果居候……
「相対死とありますんで――」
 数行ほどの文言は役人へ届ける書状の一部を写し取ったものらしい、と住職は付け加えた。
 相対死というのは男と女が合意の上で死ぬ、つまりは心中のことである。江戸幕府は、当時その言葉を使うことを禁止していた。
「卯之吉、妹のさわというのは?」
 龍一郎は、人差し指でその文字をなぞった。乳、とあるから、さわのそれであろう。卯之吉が最初に妹を脇差しで刺し、さわが息絶えるのを見届けた後、腹を切った、と龍一郎は思った。
「妹とあるから、兄妹だろう。兄妹が心中?」
 伸也が、横から口をはさんだ。
「どこの者だったかということやら、事情もよく分からんのですがの、何とのう哀れでなあ、夜半に般若心経を手向けてから寝みましたよ」
 ――享保七年、将軍吉宗は、男女相対死処分令を出した。『不義にて相対死した者の死体は取り捨て、弔いをしてはならない。但し、一方が生きていた場合、下手人として処罰する。』――
 住職は、そう説明すると手を合わせた。
 それまで明るかった朝の陽が陰り、藪の中から灯りが湧いたように見えたが、す
ぐに消えた。龍一郎は、ふと背に寒気を感じた。

※講師評
 短編小説は、原稿用紙で八十枚から百枚程度をいう。さらに短く、五枚、十枚の小説が掌編小説である。川端康成の造語らしい。極端に少ない枚数の原稿用紙に、作家は精神を傾注し、選ばれた言葉で人生の絵模様を描く。
 この作品に書かれた、「光の残像は、濃紺の闇に金泥の散らし書き……」、などの優れた表現は、文章全体の味わいを深くする。色、音、匂いなどの五感を意識的に織り込むことである。
 作者は、偶然、目にした古文書の文章、それもたった四十字にも満たない文字列から物語を考えた。「蛍火」は、原稿用紙五枚弱の掌編小説である。何気なく見過ごしてしまいそうなところに小説の素材があった。物語は凝縮されているが、想像を膨らませれば、長い小説にもなる題材である。                                       (島根日日新聞客員文芸委員 古浦義己)