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 随 筆 また会う日まで
    
               佐藤 文香
                                                                        島根日日新聞 平成16年12月16日付け掲載

 小春日和の十一月二十日だった。昭和二十一年、大東高女に入学し、出雲、簸川に嫁いだ七名が出雲の料亭に集まった。
 私達が二年生の時に学制改革があり、六・三・三制となったために、女学校は新制の高等学校となった。在学していた生徒はそれぞれが自由な道を選び、そのまま高校に残った人、地元の学校に帰った人など、さまざまだった。当時、高校に入学する人もまだ少なく、教室が空いていたので、中学校が併設されたりもしていた。
 集まった七名は普通なら卒業生ということになるのだろうが、それぞれが違う道を歩んだから、同窓会は二十一年に大東高女に入学した者で、ということにしたのだった。 
 古希までに開いた会では、東京、京都、大阪などから八十人ばかりが、松江の料亭に集まった。だが、年を重ねるたびにお世話をすることも、集まることも大変になり、残念だがそれぞれの地域で行うようになった。
 そういう経緯の中で、再会した七名は予定時刻より早めに集まった。「元気だった!」と手を取り、喜び合って席についた。
 幹事さんの指示で、最初に物故者のために一分間の黙祷をした。そして、誰からともなく乾杯の声が出て盃を上げ、昔の懐かしい、しかも楽しかった学生時代に戻ったのだ。
「私、出雲の駅で、加納先生にお会いしたよ」、「私も、松江にいらっしゃる岸野先生のお宅に伺ったわ」、「内田さん、どうして今日の会に出席されなかったの?」、「お姑さんの看病で大変なんだって……」などと、尽きることのない話がはずみ、近況を語り合った。
 不意に窓の外から「石焼きいもーお」という声が聞こえた。私は思わず「うちの孫は、その後においしい焼き肉ー≠ニ言うよ」と言った。たちまち、その言葉を受けて戦争中の話に移った。
「あの時、芋を三分の一ずつに分けて食べたわ。いまの私らならいいけど、成長期の私達は、一個まるごと食べたかったよね」
「そうね、配給の時代だったし……」
「一握りの米と団栗の粉、アラメ、黄ザラの砂糖、大豆……」
 その話を聞きながら、いつも腹一杯になったことはなかったことを思い出した。
 そんななかで、出征兵士の留守宅の農作業や山の開墾をしたのだ。先生が木を切り倒され、男の子が根を掘り起こす。女の子が土を耕し、豆や芋の苗を植えた。
 松の木の幹に斜めに切れ目を入れ、その下に空き缶を吊して松根油を集めた。それが飛行機の燃料になると聞かされていた。
 一日が終わり、ふらふらになって家に帰る。だが、家にも食べる物もない。お茶を飲んで、道ばたの草を取って食べたりもした。
 女学校では、ノートも半紙を二つ折りにしたもので、教科書はところどころが黒く塗りつぶされていた。平等の世の中を教えられたが、それまでの修身とはどこかが違い、皆が混乱した。大和魂などという言葉は、どこに行ったのだろうと思ったのだ。
 しだいに品物が出始め、飢餓状態から抜け出したのは、確か昭和二十三年頃ではなかったか。考えてみると、生きているのが不思議だった。
 あの頃のことを思うと、目の奥がつーんとなる。
 これからどんな時代が来るのか分からないが、自給自足というのは大事なことなのだと、誰かの声が聞こえた。確かにそうかもしれない。
 話は尽きず、気がつくと予定の三時間が過ぎていた。
 元気でまた会えることを誓い合い、校歌を歌って散会した。 
また会う日は、二年後である。

◇作品を読んで

戦争は、当時の人達の生活にさまざまな影響を与えた。銃後の女性達は労働力として職場に動員される。結婚や出産という個人的なことも、戦争によって国策としての側面を持ったのである。出征という言葉のもとに、夫婦は離れ離れの生活を余儀なくされ、またかけがえのない夫を失った妻もいた。そして、一九四五年、終戦によって日本は壊滅的な状態にあった。
 当時、多感であったであろう作者は、戦中と戦後の暮らしに焦点をあて、女学校時代と当時の生活を懐かしむ。
 作者の創作テーマは、苦しかった青春時代であり、幾つか書き続けられたエッセイ風の文章がある。古希を過ぎた作者のその頃の多くの思いは、文中にもあるように語り尽くせないかもしれない。