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 随 筆 「まっ、いいか」
                                                                          島根日日新聞 平成17年1月13日付け掲載

 星霜三十余年、水虫と共生した歳月である。
 束の間の仮寓を許すくらい「まっ、いいか」と。
 この妥協がいけなかった。いつの間にか子孫を増やし、足裏が手狭になると、爪の中にまで住処を拡げてしまった。そして、大切なカルシウムの宝庫を食い尽くし、残滓をうず高く積もらせた。
 私の右足裏は土踏まずの部分が少なく、幅が広い。靴は四Eを常用している。
 この広く平らな地肌に、水玉模様の薄皮が不規則に浮き、ひび割れた隙間に白い線が複雑に入り組み、まるで東京の地下鉄路線のようだ。
 そして、艶がなく変形した五指の爪は分厚く、切り口が石膏を固めたような脆さを露出している。
 いつか風呂上がりに、先端断面の厚さを測ってみたら、親指で七ミリメートルあった。
 そのため爪切りは、電線を切断するニッパーのお世話になる。
この工具でパチパチ摘み取ると、原形の崩れた欠片が飛散する。
 家族は、新聞紙の上に転がる残骸を怖そうな表情で眺めているが、何十年来、菌が誰かに根付いた形跡はない。
 先年、大病をした。
 快気祝いに、妻が足裏を軽石で削ってくれた。
 脂肪の抜けた分厚いかかとはスリムになり、白い水玉は弾け、銀座線も浅草線も薄くなった。この出来映えに自信を得た妻は、爪も削ろうと試みてくれたが、頭の芯に伝わる不快感が辛抱できずに辞退した。
 先日、近くの皮膚科を訪ねた。
 目的は、老化現象で顔に吹き出すいぼ退治である。前回も簡単に除去できた経緯があり、診断結果を待つ特有の不安感はない。
 退屈な待ち時間中に、壁の貼り紙が目に止まった。
【水虫でお困りの方は気軽に相談下さい】
 これは、あとひと押しで完治できるチャンスだと思った。
 いぼ治療が終わった後で尋ねてみた。
 医師はカルテから目を離さずに告げた。
 保険が効かないこと、飲み薬が少し血圧を上げること。
 この血圧なる言葉を耳にした途端、はっと思い当たることがあった。半年前、同じいぼ治療で足を運んだ時、待合室でこの貼り紙を見て水虫のことを質問した。
 その時、血圧を刺激すると言われ、尻込みをした記憶がある。
 医師は、その時のやりとりを読んでいたのだ。やおら、カルテから目を離すと正視し、「どうしますか」と返答を求めた。
 その目は、『あなたは、やる勇気がないでしょう。この前も尻尾を巻いて逃げたじゃないか』と言っていた。
 これは、引き下がるわけにはいかない。そう思った瞬間、「やります」と言っていた。
 薬を持ち帰って考えた。決めたはずの散歩を怠け、塩の吹いた鮭を好んで食べ、血圧はいつも高く安定している。
 棚に置いた薬の包みが、もう十日も眠っている。

◇作品を読んで

 書き手の体験や見たり聞いたりしたことを題材にして、感想を交えて書いた文章が随筆であり、その題材は、日常の些細なことが多い。
 他人を傷つけるようなことを素材にしない限り、心の中にしまっておく素晴らしい文章が、実際に書かれた作品を超えることはない。
 書き手だけしか知らなかったこと、心の在り処(ありか)とでもいえるようなことを読み手が感じるから感動するのである。この作者の文章を読むといつもそう感じる。
 自分の人生を立ち止まって振り返ってみる、そして行く末を見ようとする。その目の深さや広さがあるから、書かれた文章に味わいが出てくるのである。
 医院での医者とのやりとりからの決断、そして、最後の一行が逡巡する作者の気持ちをよく伝えている。
 ところどころに見られる切れ味よい言葉も、それを支えている。