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 随 筆 仕事始め
                                                                          島根日日新聞 平成17年1月19日付け掲載

母のお茶仲間を見送り、やっと正月行事が終わった。
 テレビに仕事始めの様子を映していたのは一昨日だ。無防備に、日々の雑事に関わると時間はあっと言う間に過ぎていく。この恐ろしさは昨年一年間の経験で良く分かった。
 今日が私の仕事始めと、自分によくよく言い聞かせてパソコンに向かってみた。
 昨年、縁があって文学教室に通い始めた。教室に通えば通うほど、わかりやすく、言いたいことをきちんと伝えられている文を書いていたか? といろいろなことを思い出し、胸の奥がチクチクした。
 自分の思いを文章に変えることは、自分の考えを整理整頓しなければ出来ない気がする。
 文章に向き合う作業の中で、頭で考えていたことと裏腹に、違った感情を心の奥に潜ませていた嫌な自分を見付けて落ち込んでしまった。しかし、何回か経験を重ねることで、正直な自分を直視できる余裕が出来てきた。これは今までと違った場所に一歩踏み出す力になったと思っている。
 しかし、私には胸の中にあるものを拾い集め、形作る大切な要素が、何かもう一つ不足しているようだ。書きたいことは、たくさんある気がするのに、どうしても最初の言葉が出なくて悶々とする時間が長い。
 教室で学んだ昨年のレジュメを捲ってみた。五月は「書き出し」について勉強している。急いではいけない、と書いてある。まず、深呼吸して、窓から外の景色を眺め、落ち着いたところで、第一行目を書いて欲しいとも。
食卓テーブルの椅子に深く腰掛ける。気持を落ち着かせるようにと、濃いめのコーヒーを飲みながら中庭に眼をやる。
 庭の植え込み、裏の畑を囲む雑木山の木々を眼の端に少し引っかけ、空へと流れる風景は私の一番お気に入りだ。
 窓の外は午後の二時だというのに、夕方のようにどんよりとしている。天気予報では、午後は雨となっていたので雨雲か。
 色ならば、はなだ色に、盛りを過ぎたわすれな草の色を散らしたような空の色、と言えばわかってもらえるだろうか。
 北の方角に目をやる。ところどころ雲が少し薄くなっている。太陽の光が届いているのか、雲のまにまに柔らかな、とても柔らかなあけぼの色が刷毛でなでたように少しばかり添えられている。
 文学教室では、今まで手に取ることのなかった本を教えてもらえることも楽しみだ。「色の名前」、「宙の名前」「風の名前」など、風景が今まで知らなかった言葉で表現してある。日本語の素晴らしさに時間を忘れて見入った。
 そんなこともあって、見付けた言葉を文章の中なり、あるいは会話の中で、さり気なく使う器量を身につけられるものならと思いつつ、本を手にする時間は長くなった。
 庭には南天、アオキ、千両、万両、柿の木、梅の木、桃の木等、種々雑多に植えている。
 南天の木が揺れている。ヒヨドリだ。南天を啄んでいる。忙しそうにしながらも、よく見ると枝を揺らし遊んでいるようにも見える。山が近いせいか鳥達がよく遊びに来る。椋鳥はいつも仲良くペアである。違う種類の鳥が一緒になることは無いようだ。
 子ども達が自分の道を歩いていった後は、私たち夫婦に高齢の母を加え、話題の持ち合わせが限られた者ばかりの三人暮らしだ。
「今日は二羽きた」、「今日は一羽」、「姿を見せないね……」と、時には遊びに来る鳥達の姿が、重たくなっている口を開くきっかけを作ってくれる。
 鳥達が残す糞のお陰か、南天、千両、万両のおのればえが庭のあちらこちらにある。こんなことに気が付くようになったのは近頃のことだ。仕事に夢中になっていた頃と、心根のところが変わってきたらしい。
 外を眺めていっときが過ぎた。何か書きたいと言う思いは、厚い大きな手で胸を押さえられているような重さでまだ胸に張り付いている。
 これをはね除ける一行目の言葉が出てこないが、ふっとうかんだ言葉を何でもないことから書いてみた。
 今年の仕事始めに、今日はとにかく何か書いて見よう。そして、自分にした約束をクリアー出来たことにしよう。

◇作品を読んで

 作者は、月にひとつの作品を必ず書こうと決めている。そして、年の初めになった。書くことは難しいが、始めてみようと思った。素晴らしいことではないだろうか。
 文章は、紙と鉛筆さえあれば書くことができる。ワープロなら、さらに便利である。だが、実は作者も述べているように、なまやさしいことではない。文章による自分の世界を構築するためには、五枚、十枚、いや、それ以上の原稿用紙に文字を埋めていかねばならない。確かな根気と、費やす時間も必要である。
 書き手が表現したいことを確実に読み手に伝えるためには、文章技術とその修練も欠かせない。日本語の素晴らしさ、そして、書くことは表現することであると気付いた作者は、ひたすら書き続けることで、それを得ようとしている。