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 随 筆 蝋 燭
                                                                          島根日日新聞 平成17年1月27日付け掲載

 父方の祖父は総一郎といった。背丈も肩幅もゆったりしていて子供ごころに大きいという印象が残っている。従姉弟達と遊ぶだけ遊び、なんとなく手持ち無沙汰な夕暮れになると、
「おじいさん、はなし、はなし」
 と、みんなで野良着の袖を引っ張って、縁側へ集まる。
 みんなをじらすように、ゆっくり煙草を一服吸い終わり、おじいさんの(はなし)が始まるのであった。

 毎年、農閑期の寒い間に綯いためた幾巻きもの縄を、舟に積んで船川から宍道湖に出、北岸に沿って松江に向かう。そして佐陀川に入り恵曇まで行くのが春先の行事のようになっていた。
 漁師の作造さんの家へとどけるのである。作造さんは同い年で、徴兵検査のとき、松江で知り合って以来数十年の気の置けない友人であった。縄は春漁に必要なもので、おたがい心待ちにしている。囲炉裏を囲んで四方山話に花が咲き、今夜中に帰ればいいのだからと酒になることもあった。
 土産に貰った干魚などを乗せて、宍道湖まで戻ると夕景になる。行きに見た秋鹿あたりの桜は花芽がふくらんでいたし、寒さも峠を越えたようだといい気分であった。少し波立ってはいたが、ゆつくり漕いで半分ぐらいも来た頃、ふっと暗くなった。何時の間にか雲が出て、月の光をさえぎったようである。一雨来そうだと用意の蓑と笠を着ける。待っていたように大粒の雨が落ちてきた。
「一休みするか」
 独り言をいいながら、通称一本松へ舳先を向ける。長い間の雨と風にえぐられて出来たくぼみに、陸地が庇のように突き出ており、その先端に松が一本ひょろりと立っている。このあたりは草刈場であった。下は一般の舟の雨宿りに格好の空間である。
 雨はだんだん強くなり、稲妻が走り雷鳴がとどろいた。小さな舟の中では、何もすることがない。
「うん、弁当が残っていたな」
 座りなおすと、小さな柳行李に入った握り飯の残りをたべた。遠出の弁当はいつも二食分ある。あまさぎの付け焼き、切干と昆布の煮物、梅干に沢庵。
 雨が止みそうにないので、こくりこくり居眠りをしていたがやがてぐっすり寝込んでしまった。
 どれくらいたったのか、背のあたりが寒くなって眼が覚めた。雨が止んで雲間から月がのぞいている。一瞬何処にいるのかと思ったが一本松だったと気が付くと、もう一度空を仰いだ。月の具合からすると夜半すぎである。伸びをすると煙管を取り出した。思うさま煙を吐き出し、立ち上がりかけた動作が途中で止まった。さっきから気になっていたのだが、なにやら声がする。空耳かと思っていたが違うようだ。経文ともつぶやきともとれる女の声である。こんこんと何かを打つような音も聞こえる。船がゆれないように静かに身を乗り出して見上げると光りが揺らめいている。
 木枠の四隅に蝋燭をともしたものを頭に乗せ、白っぽい着物を着た女が、一本松に向かって何かを打ちつけながら一所懸命に唱えているのは、呪詛の言葉だ。
 咄嗟に煙管で船端を打ち、咳払いをした。とたんに声が止まり息を呑む気配とともに木枠が落ちてきた。女が投げたのか、下を見ようとして落ちたのかわからなかったが、蝋燭の一本は消え、水際で二本が消え、残る一本は水にとどいてジュツと音を立てた。
 波のうねりが木枠をさらい、後には深い闇が残る。小刻みに草むらを駆け下りる足音が聞こえていたがそれも止んだ。
 しーんとした夜の中で舟を出すと、櫓の音が妙に大きくひびく。傾いた月を見上げながら、葦群のなかで眠る水鳥たちを驚かせないように静かに船川へ入っていった。

 後年、仏事の席であったか、
「あのはなし、よく覚えている」
 と従姉弟が言った。
 あの頃の祖父は、今の私たちよりずっと若かったはずである。

◇作品を読んで

 出雲は神話の国であり、古い民話も数多く残っている。それらは祖父母から孫へ、あるいは親から子へと語り継がれてきた。日が暮れて家々に灯りがつく頃、山に囲まれた里、海辺の漁村、田園に点在する農家で、家族が寄り合いながら民話の世界に入り込んでいった。語られる物語を通じて、子どもは豊かな情操や人としての生き方をも学んだのである。それはまさしく、「おはなし」という文化遺産であったのではないだろうか。
 今の子ども達は、物語といえばテレビのドラマに熱中し、古老からこのようなおはなし」を聞く機会を失いつつある。
 子どもの頃に祖父から聞いた「はなし」を思い出して書かれたこの作品からは、おどろおどろしい話もさることながら、背景にあるはずの子ども達のようすも目に浮かぶようである。