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    セピア色の写真
                                 穂波 美央
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 母の遺品の中から見付けたと、弟から七十年も昔を追憶するに余りある写真を貰い受けた。
 すっかりセピア色に変色してはいるが、味わいのある色調で、丸髷姿の母に抱かれた私の産土(うぶすな)参りの貴重な写真である。着飾って、写真館で撮ったものであろう。
 母は二十過ぎの初(うぶ)で、ぽちゃぽちゃとした顔である。地髪で結いあげた高く丸い、前髪と左右の鬢(びん)の膨らみは、形がくずれないように鬢付油で固めてあるのか、光っている。髪には見覚えのある鼈甲の笄(こうがい)をさしている。
 母の化粧をするところを興味深く傍らで眺めている、幼い私の姿が浮かんできた。
 眉は生まれつき太くて男みたいだと言って、いつも細く剃っていたし、顔には水白粉を刷毛に付け、真っ先に鼻筋を引いてから塗っていた。鼻を高く見せるためという。唇は上と下の真ん中辺りに、おちょぼ口になるようにと紅をさしていたのである。
 抱かれている私は、口を開け目は瞑っているが、白い絹らしい帽子を被り、顔より大きい、同じ白の涎掛けをしている。
 重ね着をさせられているのであろう、ふくふくと花柄の晴れ着を羽織り、大きな長い袖が前で両方から重ねられている。
 見ていると限りない慕わしさで、母の愛情が伝わってくる。その母が写真の中にいる。
 一九三二年の二月であった。
 母は、松江の実家で私を産むため、雪深い三刀屋の住まいから松江まで出た。三十センチは積もった雪道を木次の駅までの約三キロを身重な体に長靴を履き、着物の裾を端折り、足をすぽすぽと雪の中で抜き差ししながら歩いた。汽車を乗り継ぎ、すっかり冷え切った状態で実家に辿り着いたのだろうと思われる。今では考えられないことである。
 そのせいでもないだろうが、三月四日の早朝、八ヶ月での早産だった。
 八ヶ月児は育つが、九ヶ月児は育たないと言い伝えられていた。幸いにも生きる命を守り育てられた。
 神に感謝したい。
 お産を自宅でおこなっていた頃の話である。
 いかに雪が深かったかを物語る、ひとつのエピソードがある。
 父は乳呑み児の私を、雪の積もった庭へ向かってぽーんと放り出した。厚く積もった雪がクッションになり、窪みの中で泣きもせず目を丸くしていたそうな……。
 茶目っ気を出したというのか、退屈まぎれだったのか、銀世界での営みを窺い知ることが出来る。
 灰色の空から粉雪がちらちらと舞い、寡黙な冬木の庭を見ていると、来し方行く末が胸の中をよぎっては消えていく。

◇作品を読んで

 厚く深い雪の積もる地域の人からは叱られるかもしれないが、雪がよく降り、悩まされることが多かった時期は昭和四十年代までであったように思う。以後、市街地では子どもの雪遊びが冬の景色から消えた。
 この作品は、雪にまつわる二つのエピソードから構成されており、作者のことを書いたものである。
 七十年も前の写真を偶然に見ることになり、遠い昔を思い出した。
 昭和七年の冬であった。降り積もった雪の中を作者の母は歩き、列車に乗り、松江の実家まで出た。自宅での出産が普通のことであったとはいえ、書かれているように、今では想像も出来ないような話である。
 最後に書かれている庭に立つ寡黙な木々は、人の営みの全てを知っている。余韻のあるまとめである。