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  悪筆の功名
                                 糸原 静
                                                                          島根日日新聞 平成17年4月21日付け掲載

 かなりの悪筆である。自分自身でさえ読めないことがある。
 達筆を誉めて、
「人柄をしのばせる」
 などと聞くと、
「じゃあ、私は極悪非道の人間なの?」
 と思ってしまう。
 粗雑な人間であることは認める。だが、達筆でも、文章をきちんと書けない人がいるではないか。知り合いの書家から、宛名の間違った手紙を受け取ったことがある。字が美しければ許されるのか。まともな文章や、正しい宛名を書くことの方が大切だろう。
 字の下手なことは、小学校入学以来、指摘され続けていた。小学三年生の時、書道を習いに行った。その教室では五級から始まり、一年たつとたいていの子供は一級になる。私は四級にしかならなかった。上達のなさに嫌気がさして止めてしまった。
 受験の度に、担任から注意された。
「答えは正しくても、採点者が読めなかったら丸はもらえません」
 英語のテストで、日本文の字が変で注意されたこともある。情けなかった。
 おとなになってから、公民館などで書道やペン習字の講座があると習いに行った。初めは張りきって行くのだが、十回の講座だと、七回目くらいから嫌になる。思うように上達しないのだ。しかも、文化祭や作品展に出品しなくてはならない。
 上手になりたいだけで通っているのだから、人目にさらす気など全くない。色紙や大きな半紙に書かされる。ぼろが目立たないように行書で書けと言う。下手なものは行書でも下手だ。表装までさせられたこともある。先生にすれば宣伝になるから、できるだけ豪華に作品を展示したいのだろう。下手な作品など先生にとっても名誉にはならないと思う。
 講習の日になると頭痛や腹痛がするようになった。子供の登校拒否と同じ症状なのだろう。
 字を書くことが苦痛でなくなるよう指導してくれる先生に出会いたかった。
 いったい、悪筆で、字を書くことに苦痛を感じる人が、書家になろうと修行するだろうか。いても稀だろう。たいていは、達筆で、しかも書くことが好きだから、職業にしたのだろう。そんな人達には悪筆者の苦悩などわかるはずがない。
 私が習った講師は、「下手なやつほど早く書く」とか、「下手でもいいから丁寧に書け」と言ってくれる。なるほどと思う。
 ゆっくり丁寧に書こうと心がけても、緊張が続かない。文章の内容に気を取られ、すぐに、いつものテンポになってしまう。字に集中すると、文の中身がわからなくなる。書類などはよそ行き≠フ字で書くので、かなり疲れる。手指がこわばり、肩がこる。
 悪筆でも悪いことばかりではない。
 夫の亡父は悪筆だった。しかも、いただく手紙では、失敗した箇所をぐじゅぐじゅとペンで書き消して、続きを書いていた。私と全く同じだ。おかげで、嫁の私は気楽に手紙を書くことができた。お互いに達筆だったら、もっと良かっただろう。だが、もしそうだったら、それほど親しみを持てなかったと思う。
 ワープロが出現した時、魅力を感じたが、機械嫌いの私は敬遠していた。単純な電動ミシンでさえ、初めはうまく使えず、「一年分の頭痛がする」と喚いたことのあるのだ。わざわざ頭の痛くなるようなことはしたくなかった。
 恩師や兄など、私の悪筆を咎める人達に勧められて、やっと勉強した。キーを打って変換する程度の機能しか使わなかったが、手紙を書くのに便利だった。
 世の中はワープロからパソコンの時代になって行く。
 私愛用のワープロは壊れて画面が映らなくなり、修理には多額の費用がかかると言われた。あちこちからお古をもらうのだが、どれも不調だった。接触が悪くて、叩かないと作動しないものがあった。フロッピーを受け付けず、インクもなく、打ちこんだらすぐに感熱紙で印刷しなければ保存できないものもあった。
 自治体がIT講習会を開いてくれたので参加してみた。ワープロ消滅の危機意識もあったが、パソコンとはこういうものという知識を得たい程度だった。なくても暮らしていける。手紙など直筆でいい。新たな機械に挑戦すれば、また頭がパニックになる。
 一昨年秋、半ば強制的に、友人がパソコンをくれた。家族は喜んだが、私は欲しいと思わなかった。だから、せっかく講習を受けたのに使うこともなかった。
 昨年春、文学教室の存在を知り、受講することにした。あのパソコンが生きる。書いた文章を容易く修正できる。保存もできる。完成してから印刷すればいい。原稿を送ることさえできる。使ってみれば便利な機械である。ときには、インターネットで調べものまでする。機能を充分活用しているとは言えないが、お役立ち家電である。
 悪筆でなかったら、ワープロやパソコンなど見向きもしなかっただろう。怪我の功名≠ニいうことか。携帯電話すら持たない私が、ほんの少し時流に乗ることができた。この一年間に、十二作品をパソコンで書いた。

◇作品を読んで

 手書きかパソコンかという論は以前からあって、軍配はどちらにというような決着はついていない。しかし、ワープロというかパソコン派は、少しずつ増えているのではないか。なぜなら文章を推敲する時、パソコンの威力は絶大といってもいいからである。手書きは文字の巧拙というアナログ的要素があって、純粋にテキストとして読めないのである。パソコンで書くと、妙な文章が出来るという説もあるが、それはもう古い。
 作者はもともと手書き派だったと思うが、ある日のこと、パソコンを手に入れた。そして、その便利さに目覚めたのである。一年で十を超える作品が、パソコンの中に財産として記録された。その経過が、ユーモア的要素を交えて、よく分かるように書かれていて面白い。(