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  闇に水牛
                                 山根 芙美子
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 夕方六時半ごろであった。二月も半ばを過ぎるとほんの少し日が延びたなとは感じるが、もうとっぷり暮れている。外に出ると、細かな雛の羽毛のような雨が降っている。雨具の上着だけを着てフードの紐を結んだ。日ごろ、何の運動もしていないので、夕食の後片付けをしてから時々歩くことにしている。
 市役所の横から九号線の歩道へ出ると、左折して小学校の壁に沿い東へ進む。校庭が尽きると信号のある四つ角だ。勤め帰りらしいコートの女が二人立ち話をしている。信号が変わって、一人は南へ渡り、一人は西へ向かって私とすれ違った。まだ芽吹きの気配もない大銀杏が箒を逆さにした形で突っ立っているのを見ながら左へ曲がり、北へ向かう。百メートルほどのところに点滅信号があり、渡った角には教会がある。
 この時間帯、車の往来は頻繁で、街灯は点いているのだが、ライトを浴びて歩道は明るくなったり薄暗くなったりする。ぽつんぽつんと街路樹のヤマモモが立っていて複雑な影を生んでいる。車を扱う店が一軒、まだ営業していて明るい。なるべく右側を歩くので、ヤマモモの木のところでは一寸左へ寄ることになる。一歩寄った途端、目の前五十センチのところに真っ黒な水牛の角が現れた。真一文字の両端がぐいと湾曲している。
 頭のどこかで「こんなところに水牛がいるのは可笑しい、自転車のハンドルならステンレスで黒くはない筈。何、これ」と、言葉にならない意識が飛び交った。

 コンクリートの段を三つ上がって勝手口の重たいドアをあけ、後ろ手で締めると鍵を回す。マスクと反射襷を取り、上着を下駄箱の横にひっかけ、ゆっくり靴を脱ぐと居間に入ってぺたりと座った。
「さっきね、自転車だと思うけど、ぶつかってね。大丈夫だけど、そう言えば一寸頭が痛い」
 家人に言うともなく呟き、後頭部へ手をやった。茶碗ほどの瘤ができている。万歩計は千九百だ。この半分のところが現場か。でも帰りは近道したかもしれないし、腕時計は七時半をさしているが、直後でないから曖昧だ。まあいい。今日は風呂を止めてこのまま寝よう。
 うとうとしたらしく、身動きすると頭の下で水枕がごぼごぼ鳴り、瘤がごろごろ移動する。薄目を開くと枕もとに、新聞紙を敷いて洗面器がおいてある。途端に胃のあたりがおかしくなった。もどしたら救急車だ。生唾を飲み込みながら他の事を考える。
 大方の場所はわかる。水牛の角は、無灯火の自転車だ。学生が猛スピードでぶっ飛ばしているのにはよく出会うから、そうに違いない。そろそろと体を動かしてみる。深呼吸もできる。瘤は熱を持って痛いが、血腫になって残ったりするなよと、ゆっくり撫でてやる。それにしても、転んだ、ぶつかったという覚えが全くないのは不気味であった。
 翌朝、肩のあたりが水枕で冷たいなと思いながら、瘤に手をやると少しだが小さくなっている。何とかいけそうだが、夜の(歩き)は当分自粛だ。
 二日目、気がつくと左の手と足の甲が紫色になっている。脇腹も痛む。おまけに階段を上がるとき尾?骨の両側が違和感を唱える。
 多分、前輪が左足と左手を轢いたのだ。相手も驚いてブレーキを踏み自転車を止めただろう。その時、ハンドルが引かれて後頭部を打ったのか、尻餅をついたひょうしに、ヤマモモの幹か支柱にぶつかって脳震盪をおこしたのだ。何秒か何分間かわからないが、とにかく無意識ながら家まで帰り着いたのだから、大した者だと自分で思うことにした。相手も後ろからそっとつけてきていたのかもしれない。
 何日たってもあの時の記憶は空白のままだ。あのあたり、夜でも遊んでいる鶺鴒に食べられたか、あるいは雲になってヤマモモの木の天辺に引っ掛かっているのだろう。

◇作品を読んで

 人間はなぜ闇を恐れるのか。三途の闇とか、草木も眠る丑三つ時、恐いもの見たさなど、暗闇を怖れる言葉が古くから幾つもある。恐いと知りながら、なぜそれを確かめようとするのだろうか。恐怖をもたらすものは、超自然であり、それを知りたいと思うからだろう。
 闇の対極にあるのは光である。二つは表裏であり、明るい所で見たものが、闇の中ではまるで違って見える。
 作者は、暗闇の中で水牛の角に衝突し、一瞬、記憶を失った。街中を水牛が走るわけはない。一体、あれは何だったのかと、作者は思う。
 水牛の角は、自転車の変型ハンドルだった。猛スピードで来たと思われる高校生の自転車が衝突したのだ。わけの分からない出来事から意識を失った短い時間が、前後半と二つに分けられた構成と絶妙な筆致で描き出されている。最後の数行は、その重さを和らげてくれる計算された巧い段落である。