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  ひと刻でも
                                 原 正雄
                                                                          島根日日新聞 平成17年5月12日付け掲載

 出雲市平田町の市街から、北西の方へ一キロばかり行った所に、旧平田市内では一番高い旅伏山(たぶしさん)という山がある。標高は四五六メートルで、鼻高山(はなたかせん)の五三六メートル、弥山(みせん)の四九五メートルの山々と頭を並べ、連峰を形成している。
 地元の人々はその連峰を、北山≠フ愛称で呼び、親しんでいる。春の山ザクラにツツジ、萌えるような若葉にはじまり、秋の紅葉や冬の雪化粧は、季節の移ろいを知り、心を癒し、和ませてくれる身近な山である。
 旅伏山は頂上まで一時間もあれば登ることができる。素人登山の格好の山でもあり、連峰の西端、弥山に雪が懸かり、霞んでくると、やがて雨がやってくるので、暮らしの目安にもされている。
 旅伏山はその昔、国引きの八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)が韓国から旅をして来られ、この山で休息をとられたと伝えられている。頂上は五アールに満たないと思われる平地があり、中央に烽火台(ほうかだい)の跡とされる坑跡がある。昔、ここで狼煙(のろし)を上げ、敵が攻めてくることなどを知らせていたとも。その下、九合目には都武自神社というもと郷社がある。主祭神は速都武自別命(はやつむじわけのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、神倭盤余彦命(かむやまといわれひこのみこと)が、配祀神は八束水臣津野命が祀られている。
 烽火台や都武自神社は、七三三年の出雲国風土記に書かれており、山岳信仰に篤い古人(いにしえびと)の暮らしが窺える。
 戦時中は、近郷の人たちが出征の夫や息子の武運長久を祈り、神に頼る一心で登ったという、ご加護の山でもある。
 その登山口の直ぐ近くに、康国寺という禅寺がある。
『本尊は釈迦如来で、元孝二年(一三二二)に孤峯覚明禅師三光国師が開山し、三沢康国公を開基として建立された』
 と案内版に掲示されている古刹である。
 参道は来待石だろうか、七〇段ばかりの石段は沢山の参詣人の足で磨り減っている。その石段を上がり、臨済宗・妙心寺派、大雲山・康国禅寺と書かれている大きな山門をくぐると広々とした境内となる。庭は箒目も鮮やかな線が描かれ、右の方には般若心経の写経道場と鐘楼が、左の方には研修道場という大きな建物がある。正面の本堂は歴史を感じさせる立派な建造物であり、名刺の貫禄を漂わせている。
「コロコロ・ガチャン!」
 そっと投げ入れた積りだが、賽銭は周囲の静寂に躊躇もなく音を発した。朝の六時半を少し廻っており、すでに無我の境地の坐禅人に対し、少々、間の悪さを感じた。
 月一度の坐禅会の日であり、遅刻をしないようにと思っていたが、少し遅れてしまった。
 四月も末が近づくと夜明けは早く、カーテン越しの明かりも、五時過ぎには脳に達するが、今日はその機能が働かなかったようである。
 空いた席に着き、そこに用意されている座布団の一枚を敷き、半分に折ってあるもう一枚を尻に敷くのである。胡座の格好で、左足を右の膝の上に置き、両の手をハート型に組み、一メートルばかり前を半眼で見つめ、姿勢を正す。
 これで坐禅の姿勢となり、身を調え、呼吸を調え、心を調えるという坐禅の三大要素の実践となる。
 腹式呼吸で息を調えながら日頃の邪念を捨てようと、ただひたすらに、一つ、二つ、三つと一〇までを繰返し、無我の境地へと努める。
「日頃のつまらないことを考えず、煩悩を捨て、無我の境地になる!」
 暫らくすると、住職さまは、睡魔が近づいたり、心が乱れている者を戒めるという警策と称する、一メートル余りの板のようなものを持って、ゆっくりと歩きながらの説話を始められる。
 呼吸を数えながら、頭を「空」にしようと思えば思うほど、雑念が湧いてくる。
 坐禅席は静寂のことばそのものであり、微かな音にも神経が働く。
 外は段々と喧騒の気配が感じられるようになってきた。
 松江方面行きと思われる電車の軌道音と、ピーという汽笛が遠ざかって行くのは、出雲市駅発六時頃の通勤列車であろうか。
 裏の山では目覚めた鳥のギーギーというはしゃぎ声、庭ではピッピッと小鳥のさえずりがする。
 三〇分ほどで二、三分の休息をとり、足を組替えたり、身体を動かしたりの柔軟運動をして、また始めるのである。
「京都の高名な寺に、高齢者数人が一泊した。寝静まった頃に、何だか音がしたように感じた住職は、その昔がした方に近づいてみた。一人の八〇に近いようなおばあさんが、黙々と男トイレの便器を洗っているではないか。しかも、真冬で冷たく、汚いと思われるのに、手袋なしの素手である。住職は物陰からその行動をずっと見ていた。掃除を終えると、老婦人は何事もなかったように、満ち足りたような表情で、自分の寝床に帰った。
 終始その行為を見ていた住職は、何と素晴らしいことかと胸を打たれた。」
 また、以前の坐禅会では、「?啄同時」の話があった。
「鶏の雛が孵る時には、殻の中の雛と、母鶏が殻の外から突っつくことが合致して、はじめて殻が割れ難が孵化するもので、禅宗では師家と修行者が機を得て、気持ちの相応ずることである。」と。
 善意は人が見ていればやり、見ていなければやらない。よい事ばかりを吹聴し、理屈さえ正しければ、情(こころ)は邪魔者扱いであるかのような世相だ。
 理屈は道理として大切であり、否定するものではないが、感情を持つ動物といわれる人間は、相手の気持ちも斟酌し接することが、また大切ではなかろうか。世の中は自分ひとりで過せる訳ではなく、お互い助け合いの気持ちが肝要だと思われる。
 身を調え、心を調え、息を調えるという月一度の坐禅会に臨むが、私などは真の実行にはほど遠く、真似事であるといってもよい。だが、少しでもそれを成し遂げようと努めることが、心と体のリフレッシュにつながると、自分勝手な解釈をしている。
 住職の諭される貴重な説教に、日頃の邪念の意識を、認識できるひと刻であるといってもよい。
『人間という字は、人の間と書く。自分ひとりではなく、人々がいて、そして皆と協調性を持ちながら生きていかねばならない。
 何かによって不安な気持ちになっていないだろうか。世の中は、そうそう自分の思い通りになるものではない。
 多くの人が、社会の不安と焦燥にかられながら、心を痛めている。
 昨今、坐禅に心の安らぎと、生き方を求めてお寺に来られる人が多くなった。
 坐禅は、極度の緊張感を解きほぐし、苦悩に打ち沈んだ心身を楽にし、生きる活力を与てくれる』
 康国寺住職の坐禅会勧奨文要旨である。
 ひと刻でも「空」の気持ちに。それが出来なくても、努めようと思う心に意義を持つべきであり、「塵も積もれば山となる」の譬えのように、積み重ねが大切であると信じたい。
 坐禅会が終わると、般若心経と坐禅和讃を唱え、釈迦如来に手を合わせる。無信心者の私でも(ありがとうございました)という気持が湧くのは、仏様の見えない力であろうか。
 一連の行が終わると庫裏に案内され、朝食の粥や抹茶をいただく。
 心は快晴の清々しさにマッチし、松平不味公が造らせたという、旅伏山と池の借景が見事な自然山水と、枯れ山水庭園に堪能する。それもその筈、この庭園は昨年、米国の日本庭園専門誌が選ぶ日本庭園六三一候補中、十一位にランクされた、という名園である。
「静寂枯淡に座す」と誰かが詠んだようだが、意志の疎通を覚え、ひと刻の心の鎮まりを授かった。

◇作品を読んで

 坐禅の「坐」は、土の上に二人の人が坐っている形で、二人の人とは自分と自分の心だという意味らしい。作者は月に一度、旅伏山の麓にある康国寺の坐禅会に参加している。その修行から得た心の鎮まりに至る気持ちの推移が、周辺の風景描写や由来などを背景に、的確に書かれている。
 夏目漱石の作品に「門」という小説がある。
――宗教と関聯して宗助は坐禅という記憶を呼び起した。昔京都にいた時分彼の級友に相国寺へ行って坐禅をするものがあった。……略……昔から世俗で云う通り安心とか立命とかいう境地に、坐禅の力で達する事ができるならば、十日や二十日役所を休んでも構わないからやって見たいと思った。――
 漱石、二十七歳、明治二十七年十二月から翌年の初めにかけて、鎌倉の円覚寺に参禅した体験が、宗助という登場人物に託して書かれている。「門」が出版されたのは、十六年後の明治四十三年であった。