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  山 日 和
                              山根 芙美子
                                                                          島根日日新聞 平成17年7月6日付け掲載

 十二月半ば、今年最後と思われる晴天であった。
 早坂と一緒に、出雲平野の北端を東西に走る北山連山の中で、一番高い鼻高山に登った。標高五百三十六メートルである。車を麓の木陰に置くと、小さなリュックだけで、両手はなるべく空けて歩く。
 以前、このあたりまでは来たことがある。時雨にあって大きな樹の下へ駆け込んだところ、一面に秋丁字が咲いていて足の踏み場がなく、爪先で歩いたことを思い出した。
 斜面には、最近植えられたらしい松や雑木が、せまい間隔で並んでおり、道は、丸太を横たえて土を固めた階段がしばらく続く。植林地帯を抜けると、落ち葉の溜まった木の下には、真っ赤な毒々しい実を、玉萄黍状につけた一メートルたらずの棒状のものが、道しるべのように立っている。
「ああ、あれね、天南星だよ」
 早坂が言った。
 もとの蝮草からは想像もつかない色と形である。ところどころ、帰化植物の紅花襤褸菊がはびこっている。原産地はアフリカなのだそうだ。いつであったか、この山の続きの、鉱山の社宅があったあたりで見かけ、あまり沢山あるので驚いて調べたことがあった。雄山火口に似て遠慮がちにうつむいて咲くのだが、好きになれる花ではない。
 戦後入って来て、凄まじい順応性を発揮している。誰につけられたのか気の毒な名前だ。もう大方の花は過ぎて綿毛になっている。落ち葉の時期でもあるが、なんとなく山全体が荒れた感じだ。秋の麒麟草とか秋桐の花も見かけない。朝あたり通ったような鹿の蹄の痕があったりする。
 頂上は、畳なら二十枚ぐらい敷けそうな平地だ。三百六十度開けた眺望は、大山、三瓶山、中国山地の重なり、北は、染まりそうな紺碧の海を隔てて、平たく煙ったように横たわる隠岐の島までが視野に飛び込む。空は突き抜けるような明るい青である。
 雑木の枝にからんだ山帰来が珊瑚玉のような実を連ねている。石に止まった赤とんぼが数匹、きらきらと羽を光らせて、行く先を相談している。黄色い蝶が二つ、縺れるようにしてさらに高みへ舞い上がって行った。ピチュクルルリとひどくおしゃべりな鳥の声もする。
 なにやら人声がしたと思うと、不意に平地の向こう側から帽子をかむった頭が現われ、男が四人登ってきた。
 国鉄の定年仲間で、年二回いろいろな山へ登るのだという。
「香茸が取れましてな、代官町の(雀)へ頼んでおきました。今夜一杯やる予定で」
 そんなことを言いながら座り込み、カップラーメンを作ったり、自家製の漬物を取り出したりして実にまめである。
「男同士もいいもんね」
 言いながら一足先に下りることにした。
 山は登りより下りが大変だ。掴んだ潅木が大きく撓って、思わず足を踏みはずす。前を行く早坂が時折り自分の足場を確かめて差し出す杖は、凹凸があるので掴みやすい。
 思いがけず頂上が賑やかだったので、山帰来の一枝は取りそこねてしまった。
 普段使わない筋肉を使うので、時々膝が笑いそうになる。
 一息つくと水音が聞こえてきた。
 何処あたりからか覚えないが、細い道の右側はすとんと落ちて谷川になっている。まだ三時過ぎなのに、ほの暗く、石にせかれた水が白く泡立ったり静かになったりしながら下って行く。
 その水の上三十センチぐらいのところに白っぽい靄のようなものがみえる。目を凝らすと、上流から下流へ絶えることなく流れと同じ速さで動いている。円筒状の白いガーゼのようでもある。
「綿毛だ」
 唸るように呟いた早坂が、もどかしげにカメラを取り出した。
 一個では見えないほどの種をつけた綿毛の集団が、申し合わせたように、同時に整然と移動するさまは厳粛な儀式を思わせる。これだけの綿毛の主は、紅花襤褸菊に間違いない。何という生命力だろう。微細な種の一つ一つが何処かへ着地しては分布を広げて行くとすれば、風情ある在来の山野草が手痛い被害を受けることだろう。しかし、なんとも圧巻であった。
 山道の傾斜が緩やかになると、あたりを見回す余裕が出来る。
 大方下りたところで秋丁字の群落に出会った。登りには気が付かなかったが、薄紫の唇形花がこぼれるように咲いて、南へ開けた一画を一枚の心和む敷物に仕立てている。地形は忘れているが、いつか見たのもここらだったのだろう。
 傾いてはいるものの、日差しは暖かく、刈り後の田にはひこばえが伸び、出雲ドームの上を鳶が二羽、緩やかに輪を描いていた。

◇作品を読んで

 作者が作り上げた「早坂と私」は、幾つかの作品に登場する。
 定年で雑誌社を辞めたフリーカメラマンの早坂は小学校の同級生だが、年に一度か二度、東京から出雲へやって来る。早坂が、いつか一緒に暮らそうと言い出すのではないかと、私は密かに期待をしている。――『河口にて』の作品で、早坂はこう書かれた。
 その後の作品に登場する二人は、いつも出雲の風景の中でさりげなく佇んでいるだけである。いつの日か、「早坂と私」が出雲で暮らす作品を読みたいと、読者は期待してしまう。
 連作という言葉がある。同じモチーフやテーマで、複数の作者によって書かれた一連の作品のことである。作者は、「早坂と私」に長い物語を紡がせようと試みているように思える。
 全ての作品は、「私という語り手」がストーリーを織り成しているが、この
『山日和』には、「私」という言葉が一つも出てこない。日本語の特質を見極めた作者の手腕である。