TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

  浜昼顔
                                 宮崎 真然
                                                                          島根日日新聞 平成17年7月28日付け掲載

 五十年あまり連れ添った、はなの亭主がポックリと逝った。
 二十戸にも満たない鄙びた山陰の小さな漁村は、日本海に面していた。専業の漁師ばかりのその集落は、死者が出ると葬儀が終わるまで漁に出ることはしないのである。
 小さな漁村は寄り合い所帯のようなもので、家族同然の付き合いだった。葬儀一切は、いまでもその漁村に住む者だけでする慣わしになっていた。
 はなは、律儀なおんなで、冠婚葬祭には進んで世話役をかってでもするような性格の女であった。誰からも、はなさん、はなさんと慕われて好かれる古い型の女だった。だから、祝いや見舞い、忌みごとの包み物を人一倍弾んでしても、さりげなく振る舞うのが常だ。
 都会に住む長男の哲夫婦は、孫を三人連れ、次男の亨も夫婦連れで帰って来た。
 親戚への連絡、荼毘手続きなどは亭主役の集落の長老が恒例に従い、順調に進められていた。
 荼毘は、村から遠く離れた山の中にある火葬場で行われた。終って出て来た骨灰は、濃い近親者から拾い上げる慣わしである。まず最初が、はなである。長い大きな箸を上手に操り、収骨に取り掛かった。
 三十分位もかかって、死者の骨拾い儀式は殆んど終わりかけていたが、はなはなおも箸を持って残り灰を突いている。
 長男の哲は壷の蓋をしっかりと閉め、入り口に近いところで俯いている。
 重苦しい骨拾いの儀式も終わり、がやがやと人声もするようになってその場が和んできた。
「姉さん、未だかね」
 いつまでも帰ろうとしない姉を見かねた妹の幸が、小声で促した。はなは、箸を持ったまま、未だ何かを探し求めるように残り灰の一点に視線を注ぎ、動く様子もない。
 聞こえないのか。そんな筈はない、はなは、まだ耳もしっかり聞こえると、誰かが言っている。顔は潮焼けしているが、還暦を過ぎたとも思えない張りと艶は、輝いているとまでは言えないにしても若々しい。はなの目もとは、どこかに突き刺さったように、ゆらゆらと燃えていた。
「そろそろ帰ろうか、後の葬式もあるし」
「何言ってるだ!  まだ拾ってないんだ」
 嗄れてはいるが、はっきりとよく通る声だった。
 厳しい波や風の音のなかで暮らしていると、自然に大きな声になるのかもしれない。
「骨は、みんな拾ったじゃないか」
 次男の亨が、促した。
「厭だ。厭だ。未だアルハズダ」
「……」
 一瞬、亨は怪訝な顔をした。
「確かに、あるはずだ」
 はなは頭を振って、動こうとしない。
 亨と母親のやり取りに、その場に居た親戚の者は、ぽかんとしていた。何の揉め事があるのかと、首を傾げた。
 はなは、拾うものが殆んど無い、未だ熱さの残る台を睨むように見つめていた。
 訝しげに、何かを求めるように、箸を持った手は誰かを抱えるような仕草は、異常と言うよりも奇行に近い行動だった。
 誰もが、変だと思った。
「もうこうなったら、哲ちゃんしか手に負えんで」
 近所の口喧しい弥平が、哲に促した。哲は仕方がないという素振りで母親の耳元でぼそぼそと囁いた。
 はなは、哀しそうな表情を皺の中に埋め、哲に手を支えられ、すんなりと車の後部座席に座っている紀子の横に入って来た。
 紀子にとって、はなは伯母にあたる。実家が近くでもあり、子供の頃からよく行き来し、可愛がってもらっていた。
 はなは顔を曇らせ、黙ったままだった。
 車が峠にさしかかった頃、微かに聞こえるか聞こえないかくらいの声でブツブツと呟き始めた。
 耳をはなの口元に寄せた。腹の下のほうから呻くような声を出している。(未ダダ、未ダダ)というように聞こえた。
「まんだ、何か?」
 はなにもたれ掛かるようにして聞いてみた。
「お前のような子なしに分かってたまるか」
 はなは、突然吐き捨てるように言った。紀子はいよいよ分からなくなった。
 一昨日まで一緒だった亭主が、突然に逝ってしまったのだ。朝起きてこないので、行ってみると既に寝床で冷たくなっていた。
 亭主のことで、頭がいっぱいである。無理もない。頭がおかしくなるのも分かるような気がした紀子は、そっとしておいたほうが一番いいと思った。
 車は国道九号線を走り、口田儀から海沿いの狭い道に入った。右側に海を見ながら、ゆっくりと這うようして走る。集落が前方に見えてきた。
「紀ちゃん、……お前ほんとに男を知らんか」
「それ、どんな意味?」
「男に抱かれたことがあるかというこっちゃ」
「……」
 確かに独り者だ。だが、まともに、しかも同性から聞かれたことは今までなかった。
 はなはどうかしている、親戚の者の大勢いる車の中で、いくら可愛がってもらっていたとしても許せない。私も、若い時だって、青春だってあったわよ。しかも、立派な女よ。紀子は、そう思いながら年甲斐もなく憤りを覚えた。
 大正でも末の方に生まれた女性は、昭和二十年に終わったあの由々しき戦争に身も心も完全に奪われた犠牲者である。運命の巡り合わせといえばそれまでだが、二度とない淡い青春を、軍需工場へ、また、ある者は戦争花嫁として海を渡った女性も沢山いた。帰る女は少なかった。
 紀子には、親が決めた一歳年上の許嫁がいたが戦死した。すき好んで独り暮らしをしたのではない。今の自分を大切にしようと生きてきたのだ。はなは、女の尊厳と人格を何と思っているのだろうか。
 戦後、方々から縁談の話があったが、許婚に悪いような気がした。もう少しもう少しと待っていたから、独りで暮らすことになったのだ。独り身で、健気に生きてきた紀子は、滅多にない熱い滾るものを感じた。
「私だって……私だって」
 早く車を降りて、どこかに身を隠したいような感情が胸に澱み始めた。
「早く降りて下さい。葬式の時間が大分遅れていますよ」
 急に大きな声がした。何かに背を押されるようにして、紀子は降りた。
 年老いたはなは、小さな足袋を履いている。くるぶしが喪服の裾から、ちょこちょこと重そうに交叉した。
 はなの生き様が象徴されるように、その漁村以外からも来た沢山の葬儀参列者が溢れていた。
 二十軒が連なった漁村の狭い路地は、はなの知人や親戚の会葬者で埋まっていた。誰もが擦り合うようにして、人垣を縫いながら焼香に向かっていた。
「このごろにしては珍しく立派で賑やかな葬式だ」
 会葬者の間から、囁きが洩れていた。
 菩提寺が真言宗のせいか、葬式としては早く終った。会葬者が家路につくと、台風が通り過ぎた後のように急に静かになった。
 残った者は、都会から帰った子供、孫、主な親戚の者が数人で、酒を飲みながら、はなの亭主の思い出を話していた。
 紀子は、はなの姿が見えないのに気が付いた。
 あちこち探したが、どこにも居ない。よく船着場に行って話し込んでいたなと思いながら、(行ってみようか……)と考えていると、納戸の暗がりから声がした。
 はな夫婦が、寝起きしていた部屋である。屏風の陰になっていて、薄暗い。
 はなは、納戸の押入れの前にある枕屏風の陰でうずくまっていた。
「伯母さん 何してる……ん」
 抱えているのは、さっきまで祭壇に飾ってあった骨壷だった。潤んだ両眼の辺りは、好奇心が溢れたような眼差しだった。微かに微笑が浮かんでいた。それは、むしろその場を取り繕うようなはにかみに思えた。
「伯母さん、あっちに行こう」
 動こうとしなかった。斎場で妙な素振りをしていたはなに戻ったかもしれない。擦り寄りながら背中に手を添え、押すようにして促した。はなは、骨壷を抱きかかえたまま立ち上がった。口の中で、小言のような何かを言っている。立ち上がったものの、足元はおぼつかない。ふらふらと体が揺れた。それでも骨壷だけは、赤子でも抱くように、大事そうにしっかりと両手で被せるようにして持っている。
「伯母さん。焼き場で未ダダ≠チて探していたのは何なん」
 はなは、大きなため息をひとつして、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「あげに硬くて大きいものが、全部焼けて骨も残らんなんて考えられんわ」
 はなは、骨壺を見据えている。
 お前ほんとに男を知らんか、男に抱かれたことはないかと、はなが言った言葉が骨壺に重なった。
「アッ」
 思わず声が出た。全身が真っ赤になるような恥ずかしさで体が竦んだ。
 硬くて……、軟らかで……。はなが言ったのは、男の大切なものだ。間違いない。あれは軟骨の筈で、焼いても残滓として形にはならない。
 紀子にも、出征前の許婚と、女として生きた一時期があった。何十年も前のことである。戦時も末期であった。非常時の限られた時を惜しみながら、あの逢う瀬のひと時と場所を今でもはっきり憶えている。
 鄙の小さな漁村の船小屋だった。
 被いかぶさっていた男の頭の辺りを枯れかけた浜昼顔が、二人の体の動きに合わせたように揺れていた。汗が体を這い、男の硬いものが突き通すように入ってきた。
「ほんとに……硬かった」
 ちょうど、今頃と同じ梅雨明けだった。
 紀子の麦色の丸顔は、思い出の中で恍惚となっていた。衰えはしたが、未だ膨らみのある胸を両手で持ち上げるようにして振った。思わず、ふっーと大きな息が出た。
 庭に出たはなは、一畳くらいもある石にゆっくり腰を下ろし、静かな潮の流れに身を任せるようにして長いため息をした。虚ろな目を夕凪のゆったりとした引き潮のように伏せ、石の上へ倒れるように静かに横になった。浅黒く深い皺のある額に、白毛混じりのほつれ毛が数本、風に揺れている。
 どこに置いたか、骨壷は無かった。

◇作品を読んで

 さりげない会話の中にも、小説の素材が埋まっている。
 骨の話になった。骨は硬いものと普通にはそう思う。本当にそうだろうかと考えて、想像力を膨らませる。逆の視点はないかなどと考えるうちに、はたと思い当たった。作者は、そういう過程を経て、この作品の素材を思い付いたのではないだろうか。インスピレーションからアイディアの発見があったと思える。それが手に入れば、後は、いかに場面を作り上げるかである。
 作品の結末部分で、はなを見つけた紀子は回想に浸り、思わず「ふっー」と大きな息を吐く。はなは虚ろな目を閉じる。そして、作者は「骨壺は無かった。」と書き、パソコンのキーを打つ手を止めた。
 余韻を計算したエンディングである。読者はひとり笑って作品を読み終える。(古浦義己)