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  一日の始まり
                                   三島 操子
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 薄明かりを障子越しに感じる。夜明けが近いようだ。枕元の時計を見ると四時を少し回っている。今日の気温は平年よりも少し低めと、予報が出ていた。
 足元に少し冷たさを感じたので身体を丸めた。耳元で枕がざわざわと騒ぎ立てる。頭の位置を気にしながら、もう少し寝るつもりでいた。
「ん……」
 突然目の前に、昨日の朝、友人に走り書きの言付けをした文章の中の一文字が、ぺたりと張り付いた。
――字を間違えている――
 寝返りを打ち、布団をかぶる。だが、どうにも気になって仕方がない。心臓も緊張してきたのか、みぞおちが痛いほど鼓動をたてている。
 間違えた。と、確信した恥ずかしさが、そんなはずは無いと思う気持をけ飛ばし、飛び起きてしまった。
 家人はまだ眠りの中にいる。辞書を探しに居間に出ると、薄明かりの中に普段の時間が止まったままだ。まるで展示場にセットされている部屋ようだ。
 早く確かめたい気持が、居間の真ん中をすっぱと切った。本棚の前で辞書を手にぺたりと座り込んだ。賭事をするような気持でページを探した。
 やっぱり……確信していた気持は心の準備だったらしい。
 字とは言えそうもない文字を書きなぐって頼み事をしてしまった。恥ずかしくて身の置き所がない。友人の顔が浮かんでくる。とても忙しい人だから、字の間違いに気が付かずに「わかった……了解」と受け取ってくれているかも知れない。それとも同僚に「これ何という字!」と聞いたかも知れない。そんなことを思いながら、気持はどうしようもなく、加速を付けて落ち込んでいく。
 なぜこんな事になってしまったのだろうか。
 昨日の出来事が覆い被さってきた。
 朝、お茶口づくりの段取りが悪く、気ばかり急いていた。
 原因は、前の夜、翌日の段取りを怠けてしまったこと。、九時から老人施設への奉仕作業があると思いこんでいたことだ。
 奉仕作業のときは、三十分前集合が暗黙の約束になっている。滑り込むようにして行った集合場所は、人の気配がまるでなかった。
 集合時間になっても誰も来ない。 時間を間違えた? 知っている職員ばかりの施設だ。時間を確かめに、施設の中に入るのは恥ずかしいから用事をつくった。
 車のハンドルを机代わりに、ここで働く友人への頼み事をメモにした。それを言付けるついでのような振りをして、奉仕の時間を確かめたら、午後二時からだった。
 手薄の日曜日の朝は、所長さんの奥さんが手間不足を補っているようだ。行事予定のホワイトボードを見ながら、どうして? と不思議そうな表情になっている。
 世間話でごまかし、そうそうに退所した。 帰ったら帰ったで、どうした! というような家族の表情は、強気で押しのけてしまった。
 午後の奉仕は、「させていただくという気持でやりましょう」の合図で、施設の周りの雑草は見る間に片づけられていく。
 嬉しいことに休憩の時、入所しているおばあさんが話の輪に入ってくれた。八十七歳だと言う。短く切りそろえてある髪に櫛が入れてある。さっぱりとした表情は年齢よりも若く見える。車椅子を押す職員も笑顔で気持が良い。
「三島さん、今日は二回も来ていただいたようですね! 所長さんが、そそっかしいのはまだ直らないなー と言っておられましたよ」
車椅子を押す職員の顔が、壊れそうな笑い顔になっている。
「えー……」
一斉に注目の矢が飛んできた。
「年取ると、物忘れや、勘違いが多くなるからねー」
爆笑の大波が押し寄せてきた。大先輩の方々を嬉しがらせている。
 そそかっし三島は健在ですと、所長さんに言付けを頼んで奉仕作業は楽しく気持ちよく終わった。
大笑いの渦が手段に使ったメモを巻き込み、何処かに持ち去ったのか頭の中から消えてしまった。
 ぎりぎりと責め立ててくる気持を踏ん張って考えると、時間を間違えたかもしれない! こんなことは人に知られたくないという二つのことを、何とかして誤魔化そうとしたのが始まりだ。
 嫌な自分を久しぶりに見付けてしまった。
 仕方ないなー、自分のしたことだから……と思う端から、体裁の良い言い訳はないものだろうか! もう考え始めている。
 昨日の始末はどう付ける? 知らん顔をしてしまう? 
「この字は、なんだ……」
 矯めつ眇めつ眺められている様子がやっぱり浮かぶ。恥ずかしいけど誤字のことを白状しよう。ついでにメモは捨ててくれるようにお願いしよう。やっとの事で気持の整理がついた。
 外のほうから朝の気配が、しっかりと届き始めた。母の部屋から目覚めの気配が伝わってくる。
 もう少し出来の良い娘に生んで欲しかった、と愚痴のひとつも言いたいが口達者な母に「自分のしたことを、人のせいにする気!」と、また叱られそうだ。
 仕方ない。開き直るのがやたらと早い私が、そそっかしくて、小心なもう一人の私の手を繋ぎ、励まし連れて歩かねば一日は暮れない。
 部屋から出てきた母に居間に座り込んでいる姿を見せたら、ややこしい事になりそうだ。もう一回部屋に入り寝ている振りをしよう。
 今日の始まりは、気の重いことから片づけることに決めた。

◇作品を読んで

 明け方、何かの拍子にふっと目が覚めることがある。まだ起きるのには早い。そういう時には、いろいろなことが心に浮かぶ。
 時として、いい考えを何の前触れもなく思い付くこともある。頭の中がどういうカラクリになっているか分からないが、心の中というものは面白いものである。
 障子を通し、ゆっくりと入ってくる夜明けの気配に、作者は目覚めた。しかし、時間はまだ早い。突然、昨日のことを思い出した。友人への走り書きに間違いの字があった。なぜ簡単な文字なのに間違えたか。さてどうしたものかと、作者は考え始める。
 誰にでもある経験だが、作者はその心のありようを的確な言葉で綴る。早朝、間違いに気付き、慌てて起きたようすと、その場の空気がうまく書けている。