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  赤神様
                                   森 マコ
                                                                          島根日日新聞 平成17年9月8日・15日付け掲載

 激しい風が吹き、土砂降りの雨になった。
 タキコは、心配になってテレビのスイッチを入れる。午後七時のニュースの時間だった。
――静岡県の御前崎では、瞬間最大風速三十メートルを記録しました。台風十一号は、近畿から東海に向けて北上中です。これからの関東地方の降水量は、二十四時間で三百五十ミリと予想されます。――
 タキコの住む出雲市に直接の影響はないが、それにしても大変だ。瞬間最大風速三十メートルというのは、時速六十キロで走る車の屋根の上で、何もつかまらずに片足で立っているのと同じだと、気象予報士が物知り顔に言っている。
「雷が近い」
 誰もいない台所で、タキコは呟いた。
 一人娘の裕子が通う高校は、今日から二学期が始まった。三年生にもなると、始業式の日にも授業があり、更に、大学受験のために補習授業をする。
「裕子は、勉強嫌いなのによくやるわ」
 雨と風は止みそうにない。補習のためだが、裕子の帰宅はいかにも遅い。電話をしてみようと、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。とたんに、着信音がした。ディスプレイを見ると、裕子からだった。
「もしもし、お母さん、私よ。雨、ザーザーよ。今、駅前のコンビニで雨宿りしとうけん。止んでから帰るけん」
 いつものように一方的だ。だが、電話があったことでほっとする。
 ドドッドッと雷が頭の上で鳴り、天井が揺れた。稲妻が目の前を飛んだ。
「ウワッ……」
 雷の音にも驚いたが、それ以上だった。目の前に裕子が立っている。
「どうした?」
 裕子は、黙ってタキコの顔を見ている。
「何で、ここにいるのよ。たった今、駅前から電話したばかりでしょう? 何で、何で」
 タキコは、こう言うのがやっとだった。
 裕子は、何も言わずに辺りを見回している。椅子に座りもせず、慌てた様子もない。
「コンビニの軒先で雨宿りしてたわ。自動販売機があったの。そこにね……」 
 裕子は言い淀んだ。
「そこで?」
「先客がいた。三歳くらいかな、女の子。別に気にも止めなかったんだけど、視線を感じちゃったの。その子の……」
「それがどうしたの……」
「うん……。お互いに何となく視線をそらすって感じなの、でも、気になる。女の子もそうみたいで、私を見てる。そんで、おかあさんは? と聞いたの。そしたら、女の子は急に泣き出したのよ」
 よくあることだと、タキコは思った。続きを促す。
「女の子は、一万円を右手に握り締めてるの。そんで、泣きながらポカリスエットが欲しいと言ったわ」
「絶対に、不自然、直感だけれど……」
「だってさ。小さな子が一万円を財布にも入れないで、はだかで握って、ポカリが欲しいって泣くのは、おかしいでしょ」
「それはそうだけど」
「変だと思ったから、お店の中に、お母さんがいるかも知れないから捜してきてあげるって言って、逃げようとしたの。それだけが精一杯で」
 気配を察したのか、女の子にスカートの裾をぎゅっと握られてしまったというのである。
「女の子が言ったの。何だったと思う?」
 早く言いなさいと、タキコは腹が立ってきた。
「聞いて、お母さん。その子はね……」
――女の子は、御前崎から風に乗って、ここにやって来たのよ。ポカリを買いたいのだけど、一万円じゃあ、自販機では使えないし、それに、早く御前崎に帰らないといけないんだって。明日は北海道を通過して、中国大陸に行くと言うのよ。私、女の子の話は、常識を超えてるって、それに夢を見ているのだろうかと思った。とりあえず、コンビニに入ろうと言ってみたんだけど、女の子は、私と一緒じゃ、店には入ろうとしないの。
「私が、ポカリを買ってあげるから」
 百五十円を販売機の穴に入れたの。ゴロンと音がして、ポカリが転がり出てきた。しゃがんで取り出し、黙って女の子に手渡したわ。お互いに何も言わないの。相変わらず雨は降り続いてるし。息苦しくなった私は、家に電話をかけるからと、気を取り直してポケットから携帯を取り出そうとしたわ。
「裕子さん、この一万円、あげるから」
 女の子が不意にそう言うと、お金を無理やり押し付けてきたの。
「どうして、私の名前を知っているの? お金は要らないよ」
 言ったとたん、ドドッドッともの凄い音がして雷が光ったのよ。慌てて目を押さえた。気がついたら家に帰っていたわ。――
 裕子は母親の私に似て、相手のことを考えずに一気に喋る。仕方がない。DNAだ。安心した。裕子は帰っている。雷に当たって事故をおこしたのではとか、裕子の魂だけが自分の前に立っているとかと考えたのだ。
「あらあ、そんなことがあったの。その子……どうしたんだろうね」
 気持ちを隠し、タキコは短く返事をした。
 裕子は、(おかしいなあ。一万円はどこ? それこそ夢でも見てるんだろうか)と繰り返しながら、スカートの裾をなでている。。
「あれ? これ何?」
 ポケットに手を突っ込んだ裕子が、ギクッとした顔になった。
「あったあ、一万円」
 だが、それは一万円札ぐらいの大きさの赤い紙だった。
「ちょっと、見せて」
 タキコは、ひったくるように取ると、電灯に透かして見た。
――この紙を、舐めてください。あなたの今日やるべきことをこの紙が、代わりにやってくれます。これは、裕子さんへのお礼です。見ず知らずの私に、親切に、ポカリを買ってくれて、ありがとう。静岡 御前崎より――
「何……これ?」
 タキコと裕子は、同時に言い、顔を見合わせた。妙な手紙である。それに、お礼を言われるほどのことを裕子は何もしていないはずだ。今日やるべきこととは、一体全体、何なのだ。
「私、疲れているのかな」
 勉強のやり過ぎで、裕子の頭はおかしくなったのに違いない。だが、タキコにも赤い紙が実際に見えるのだ。
「本日、夏休みの宿題が全部出来ていませんでした。提出できなかった宿題を、今から全速力でしなければいけません」
 裕子が、赤い紙に向かって話しかけているのをタキコは、呆れて見ていた。
「もしかしたら、今日も、寝ないで宿題をやらないと、明日までに間に合わないのです。そうです、きっと間に合いません」
「ちょっとちょっと、裕子ちゃん……」
「赤い紙の神様、どうか、どうか助けて。二学期が始まったのに、夏休みの読書感想文の宿題がまだ出来てないんです」
 裕子は赤い紙に向かって大声で言い、紙を舐めている。突然、雷が鳴って大風が吹いた。信じられない光景が目の前に広がった。
 真っ赤な顔をしたサル百匹がいる。五十匹は、奇妙な声で『吾輩は猫である』を読んでいる。残りの五十匹は、それを聞きながら猛烈な早さで、感想文を書いている。こつこつ、キイキイ、さらさら、キイキキ……。蜂の巣を突いたような騒ぎが暫く続いた。不意にサルが消え、夏休みの読書感想文が現れた。
「ああ、これが昨日だったら、よかったのに。御前崎の赤神様」
 あと一日早く、女の子に巡り会ってさえいれば……。台風十一号が一日早く御前崎に上陸していれば……。夏休みの宿題が全部出来ていたはずだった。
 タキコと裕子は顔を見合わせ、大笑いをした。あんまり笑ったので、腹の皮が痛い。涙がでるほど、笑ってしまった。
「これって、夢でしょ」
「どうだか」
 タキコが言ったのやら、裕子が言ったのやら。

◇作品を読んで

 作者は、どちからといえばファンタジックな物語を書く方である。ファンタジーに近いものにSFがあるが、このジャンルの作品は、いつか実現する可能性が内容になっている。手塚治虫のSF漫画の幾つかは実現に近づいていることが、その例である。ファンタジーは、人間の生活から完全に外れている世界が書かれ、魔法やもしくは架空の人などが扱われる。全て、作家の想像から生み出されるのだが、そういう意味では、全ての小説がファンタジーとも言える。
 作者は想像力が豊かである。台風が来た。娘が学校からまだ帰らない。夏休みが終わるが、宿題が出来ていない。本人も周りもやきもきしている。どうにかならないか。作者は、それをファンタジーの中で解決した。ユニークで楽しい物語である。