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  随想二題
                                   山根 芙美子
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◆雀の宿

 夕方になると、どこからともなく雀の鳴き声が聞こえてくる。五羽や十羽の声ではない。
 近くにある小学校の校庭の木か、道を隔てた空き地の草むらかなどと漠然と思っていた。買い物のついでに覗いてみたが、違うようだ。
 もっと離れたところから聞こえる。空き地は、深閑として、テツドウグサ、ヨモギなどが茂り、ヒメマツヨイの黄色い花が可憐だ。淡いピンクのヒルガオはしぼんでいる。
 逃げ水のような鳴き声は、どうも九号線をへだてた向こう側のようだが、それらしい木は見当たらない。そうなるとよけいに気にかかる。
 日が落ちてまだ明るい頃、縁側にいると、二、三羽、また五、六羽と同じ方向へ雀が飛んでゆく。眼で追ううちに、はっと気がついた。
 直線距離にして二百メートル程の所に、NTTのチョコレート色の建物がある。屋上には赤と白に塗られた鉄骨の塔が聳え、幾つものパラボラアンテナを載せた皿状の台を支えている。そこを目指していた。周囲を半分ほど飛んでさっと消える。
 日暮れとともに鳴き声は膨れ上がり、短い声が、前後左右、上下、斜めと飛び交いながら大きな塊となって届くのである。
 ちゅんちゆんとか、ちいちいとか聞こえるはずの声が、集団になるとじゅっじゅっとも聞こえ、まるで、声のごった煮だ。
 朝、一番の早起きは烏だが、とぼけた声で鳴きながら示威運動をするように、鉄塔に沿って飛んだりする。つられたように雀の声が高まり、皆出かけてしまうらしく、後には無機物の鉄塔がぼそりと突っ立っているだけだ。
 子供の頃、鳥刺しという商売があって、友達のお父さんが、鳥もちのついた長い竿をかついで、歩くのをよく見かけたものである。
 舌切り雀のお宿は竹薮だった。鉄塔では、届く竿はないし、猫だってどうしようもないだろう。
 ある日、駅からの帰り道に、鉄塔の真下を通った。
 黄昏時であったが、頭上の声は凄まじく、物になってばらばらと落下しそうで、思わず足早に通り過ぎたものである。

◆小さな話


 御茶屋橋の手前で保育園児達に出会った。白い襟の園児服に帽子を被っている。
 三歳ぐらいであろうか。二列に並んで十人ばかりが、保母さんを先頭に橋を渡り、土手に沿って左へ折れようとしていた。町川は水量が豊かで、夏の終わりの太陽がぎらりぎらりと、不規則な反射を繰り返している。
「川は危ないから覗かないで」
 保母さんの大きな声。少し遅れてリヤカーを押す保父さん。新しい板で囲われたリヤカーには、可愛い水鳥の絵が書かれている。帰りには、園児達が乗せてもらうのかも知れない。
 傍らに、ひどく小さな男の子が一人、袖の短いシャツを着て、細い足でつんのめりそうな格好で歩いている。歩けるようになって間もない一歳半ぐらいのようだ。手をつないでやりたいような危なっかしさに眼が離せないでいると、案の定、橋の中ほどでステンと転んだ。思わず声をあげたようで、保父さんが男の子を見たが手は貸さない。四つん這いになった男の子は泣きもしないで一人で立ち上がった。
 目が合った。すると、細い腕を伸ばして欄干の間から見える流れを指しながら、、あーとか、うーとか話し掛けるように何か言っている。ひどく生真面目な顔なので、うんうんと二つばかり頷くと、さっと向きを変えて、車を止めて待っている保父さんの方へ、お尻ををひょこひょこ振りながら走っていった。
 以前、孫の面倒をみていた大きいおばあさんに聞いたことがある。
「こっちは見ているつもりでも、孫の方は、反対に遊んでやっている、と思っているようで。小さいおばあさんかお母さんが帰って来ると途端に『大きいばあちゃんは、あっち行ってねんね』なんですから」
 そんな話を聞いたのは、その孫が出会った子どもぐらいの年齢のときであった。きっと、自分と同等に考えて、
「川は危ないから、覗いたらいけんよ」
 とでも言ったのだろう。それとも、  
「転んだって平気だよ。強いんだから」
 と胸を張って見せたのか。あの男の子の表情は、笑えない可笑しさだった。 

◇作品を読んで

 二つの作品は、それぞれ原稿用紙で約二枚半である。自宅の近くで飛び交う雀の数に驚き、どこに住んでいるのだろうと不思議に思ったことが書かれた「雀の宿」、「小さな話」は、保育園の子どもに出会った時のようすが描かれている。
 いずれも、日常のちょっとした風景が切り取られ、それが的確な表現で書かれている。千字に満たない短い話の内容が、素直に伝わってくるのは、言葉が選ばれた結果かと思う。
 雀や幼い子どもの情景が伝わるのは、それを支えている言葉であり、出来上がった文章そのものがよい表現ということになる。
 いい文章とは、たとえば人間や動植物などの生きているありさまが、読む者の心に染み込んでくるようなものを言うのであろう。