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  先生を偲ぶ
                                   穂波 美央
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 今年も年賀葉書購入申込みの時期となった。今年の正月に貰った年賀状を見ていると、亡くなられた茶道の先生のものが目に留まった。
――今年も楽しい年になりますように――
 旅立たれる三ヶ月前の筆跡である。見詰めていると愛おしくなった。文字の上をなぞりながら、三十年来の回想に耽った。
 平成十七年三月十五日、八十五歳を一期にしての信じられない急逝であった。
 正月の松の内を過ぎると初釜も終わり、続く早春茶会の準備で、お道具の点検など、何かと弟子達と相談しておられる矢先だったという。詳しい経緯は知らないが、ひどくショックを受けられたことがあったようである。寝込んでしまわれた。食事も喉を通らなくなり、弱られていく状態が一ヶ月余りも続いたらしい。入院されたのが、二月の末頃だった。
 お見舞いに行ったのは、弥生三月初めとは思われない陽気の日で、四階
の個室からは、明るい街並みが遠くまで見透せた。
「今日はいい天気だし、誰が来てくれるだろうかと思っとったわ」
 手を貸して起こしてあげた。ベッドの上で見る先生の顔は、頓に痩せられたことを除けば意外に元気そうだった。
「昔ながらの大根漬けが食べたいわ」
 翌日、食べ頃になっていた糠漬けの大根を細かく刻んで持って行った。
「これ、これ。この味と匂いの漬け物が食べたかったの。頼んでもスーパーでは手に入らんもんね」
 ひと切れを口に入れられて、そう言われた。バリバリと噛まれていた音は、今でも忘れることが出来ない。
 入院されて直ぐの検査結果は癌が進行し、治療も出来ない状態だった。当初、肝臓に幾つかの塊があるということだったが、それが絶望的なものであったとは……。
 思えば、夏頃からにわかに痩せられたが、普段と変わらずに、日を変えて何組もの生徒さんにお茶やお花を教えておられた。一病を得て我が儘の気配があったご主人のお世話もされていた。その合間には、あのお歳でありながら無駄に過ごすのでもなく、何日もかけてご自分の服を仕立てられているのを感心して見ていた。
 健康診断も高齢のご主人と共に宅診をしてもらわれ、去年のところではどこといって心配は無かった様子にも見えていた。そんなこともあって、気力が出れば元の元気を取り戻されるものと思っていたので、意外であった。
 去年の十一月下旬のことである。宮島に行ったことがないので、もう一人のお弟子さんも一緒にと先生から誘われ、ご自分で日帰りツアーの手続きなどの一切をしてくださった。その時も元気で、踵の少し高目めのヒールを履き、私達と手を繋いで歩かれた。ただ、スーツの肩が痩せて、ひどく崩れ落ちていたのが痛々しかったのを憶えている。
 宮島は干潮時で、砂の上に立つ赤い鳥居と近づいてくる鹿を喜んでみておられた。それが元気な時の最後の姿とのお別れになろうとは、その時には想像もしなかったのである。
 先生から、思いがけない一面を見せられたことがあった。亡くなった初恋の人を思い出して少女のように胸を焦がし、夢の中に現れる若かった恋人を慕っておられるという秘め事である。私に涙を流して語られたのは、七十路の時である。その頃の先生は、茶会でもいそいそと振る舞われていた。赤い小紋をあしらった着物を着て、帯も少し派手目の華やかなものを締めておられた。信じられないような華が感じられた。
 近頃では、癌の告知は以前と違い、本人に直接話される。非情とも思えるが、考え方では正当なのかもしれない。気丈な先生は、それを冷静に受け止め、死期まで確かめられてからは、何かと家の片付けや死出の装束までも指示されていたと聞く。
 葬式も終わった三日後の三月二十日。早春茶会は遺志を継ぎ、無事に済ますことが出来た。図らずも当日の十時過ぎであったか、九州で地震が起きた。先生の霊が様子を見て、一喝入れられたものと私達は気を引き締めた一幕もあった。
 満中陰の法要も終わり、お子様がなかったので、先生のご自宅には九十余歳のご主人が独り残られたが、現在は施設で暮らしておられる。
 姪御さんが養女なのだが、大阪で教職に就かれているので時々帰省をされる。だが、仏が祀られている住居は無人である。社中の皆が計らい、留守の家を開放してもらうことにした。生前にしていたお茶のお稽古をすることで、ご位牌を拝むことも出来るし、家を守ることにもなるからである。
 通い慣れた家は、主の居ない淋しさが漂い、さほど広くはない庭だが、様々な草花も植えられ、木槿が咲いている。先生は珍しい草花があれば、どこに行っても掘って持ち帰り、挿し木や移植をされ、茶室には、いつもそれらを楚楚とした雰囲気で活けておられた。
 先生は茶道はもちろん、華道にも秀でておられ、その活け方にはいつも感心していた。何でも熱心に学ばれ、残されていた書棚には関係の分厚い本がずらりと並んでいた。折々にページを捲り、学ばれていた姿が浮かぶ。
 小柄な体に積み上げられた経験や知識を教わることは、もう叶わない。ガラス越しに庭を眺めながら、虚しさを覚える。そして、自分自身を顧み、これから先の私の生き方にも思いは及ぶ。
 お茶の稽古も終わり、あちこちの戸締まりをして遺影に手を合わせ、「また来ます」と、先生の家を後にした。
つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 豊臣秀吉の辞世である。

◇作品を読んで

年賀状を書く季節である。
 作者は何枚の年賀状が必要だろうかと、今年の正月に来たそれを数え始めた。その中に、亡くなられた先生の葉書があり、今年も楽しい年になるようにと書かれていた。作者は、その懐かしい文字から、幾ばくかの時間を回想に浸る。
 作品は、多くの思い出が、教えを受けた先生の人柄を偲びながら語られている。作者の先生に対する思いが、最後のところで、「また来ます」と呟きながら、先生の家を去る描写と秀吉の辞世に集約されている。
 作者は、平成十四年秋に『円を描く僧』という短い小説を書いている。使われた題材は、この随筆に書かれた、先生の若い時の恋人が夢に現れるというエピソードによるものではなかったかと、ふと思った。