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  追っ掛けマン
                                  穂波 美央  
                                                                         平成18年5月4・11日付け島根日日新聞掲載

 四月に大学へ入学する孫が、東京から寝台特急出雲号≠ナ来るという連絡が入ったのは、三月に入ってすぐの頃だった。
 十八歳という夢と希望に満ちた時期であり、生涯の心の糧となる思い出を、この出雲で残させようと、あれこれ計画を練りながら待っていた。
 三月十四日、前日からの雪で思いがけなく白い朝だった。
 十一時着のはずが五十分延着するとの連絡を受け、それに合わせて出雲市駅へ迎えに出た。改札口でいくら待っても降りて来ない。常識から考えておかしいと思い、公衆電話から携帯にかけても通じない。
 何か間違いでも起きているのではと改札口に戻ってみると、そこにぬっと背の高い男が何食わぬ顔をして立っているではないか。
「何しとったかね。あんまり遅いので心配しとったがね」
 少し強い口調になった。孫は、プラットホームで出雲号が去って行くまで写真を撮っていたと、平然と言う。
 東京と山陰地方を結ぶ唯一のブルートレインとして親しまれたJR寝台特急出雲号≠ヘ、十七日の夕方、出雲市駅始発をもって最後の旅路となり、三月十八日からのダイヤ改正で五十五年の歴史に幕が下ろされることとなった。
出雲号≠ヘ、一九五一年、大阪から大社駅間を結ぶ特急としてデビューし、一九七二年に寝台特急となった。一時は二往復化されるほどの人気を誇った時代もあったが、交通網の高速化や車両の老朽化による乗客の減少で、前年の十二月に廃止が決まっていた。
 運行当初は蒸気機関車で、東海道線の優等列車のお下がり物だったとか、ある時期には食堂車両もあり、走るホテルとも言われていた。
 寝台は最初の頃は三段で、横になるだけで頭がつかえそうだったが、その後、二段となり、後輩のサンライズ出雲よりは、のびのびと旅ができた。東京行きは割引もあり、いつも利用していたのに残念で、引退が惜しまれる。
 家に落ち着くなり、孫が、
「明日の朝、出雲市駅七時十三分の通勤ライナーで、伯耆大山駅まで行き、出雲号≠フ写真を撮り、昼下がりの折り返しで帰って来る」
 と言った。
 翌日、朝早く送り出し、予定通り、午後には出雲市駅まで迎えに行った。そのまま、出雲大社へ大学合格のお礼参りに連れて行き、日御碕まで足を伸ばした。
 バスで行くようにという次男の忠告もあり、時刻表を見たが、時間的に不便である。勇気を出し、自家用車を運転して走った。カーブが多く心配したが、思ったより道幅も広くなっており、トンネルも新しく出来ていて危なげなく到着した。
 海猫は産卵時期とあって、島や突堤の上に賑やかに番を求めて鳴き騒いでいる。
 灯台では百六十段の螺旋階段を上り、荒海を見下ろした。
 周辺の岩の流紋状は珍しかった。岩間の深淵の澱んだ海の色に吸い込まれそうで思わず身震いが走る。孫はカメラを盛んに駆使し、あちこちの風景を撮影していた。
 帰途も、出雲号≠ェ頭から離れない様子で、電車基地に廻ってくれと言う。基地では、その姿が見えると、あちこちと歩き回りシャッターを切っていた。出雲号が西出雲駅を後にして、始発の出雲市駅へと走り去るのを見て家に帰った。
 次の日、早朝から起きて、大山駅へ行くのだと言う。なぜ伯耆大山駅で撮影したいのか分からないが、時刻表を見て行程を組んでいるのであろう。
 敢えて何も聞かずに、本人の好きなようにさせてやりたいと思った。
 十七日、いよいよ出雲市駅始発の際のセレモニーが催される。
 先ずは、東京から戻って来る昼前に、斐伊川の鉄橋辺りで撮ると言う。
 一緒に出掛けてみると、大勢のマニアが集まっていた。三脚を据えている人、カメラを睨み、アングルを決めるために右往左往する人があるかと思えば、タクシーで乗り付ける人もあった。私も共に待つことにした。
 こうなると、走って来る雄姿をどこから撮るかに夢中で、人が前に立ったりすると気持ちが昂ぶるらしく、思わず怒鳴ったりしてお互いにのぼせ気味にある。こんな時には気を付けないと、喧嘩腰になる。いくらマナーに欠けているからといっても、自分が正しいと思って反抗的行動に出る人がある。近頃は、相手に逆ギレされてドスでも突き付けられたら、元も子もないと言い聞かせた。こういうことには、今後、気を付けるようにと諌めておいた。
 いよいよ、出雲号≠ェ来た。勇壮でスマートな姿である。誰もが一斉にカメラを向ける。孫はシャッターを切ると素早く、くるっと向きを変え、後ろ向きでもう一度カチャッとレンズに収めている。見ていると、微笑ましく、カッコ良いと思った。
 ところが、これで済むわけにはいかなかった。次に向かって車を走らされた。今度は、出雲市駅で乗客を降ろして基地へ行く出雲″を古志町の鉄橋の所で撮るのだと言う。まるで追っ掛けだ。
 思いは同じか、何人かがメディカルの会社の所でカメラを持って待っていた。良い位置を探すために、その都度、車の移動をさせられる。私もいつしか一緒になって、真剣に協力する楽しさを味わっていた。
 夕方の出雲市駅でのセレモニーに行くはずであったが変更して、西高の踏切辺りのカーブする所で撮るのだと孫は言う。
 私達がカメラを持ち、あちこち歩き廻っているのを見た近所の人に、何をしているのだと尋ねられた。明日の昼頃に東京を発車して帰って来るのが、見納めだと説明した。
 十八日、いよいよ最後の日が来た。昼頃、出雲市駅で乗客を降ろして来るのを、前日に撮した場所で再び待ち構えた。
 近所の人も、カメラを手に出て来て待っている。
 孫は、やおら線路の下の所に録音機を忍ばせた。出雲号≠バックに私を撮るらしい。言われた場所に立っていた。
 やがて、赤い牽引車を先頭に青い車両を繋いだ出雲号≠ェ、颯爽と走り抜けた。運転手のサービスなのか、無情な叫びとも思える汽笛を鳴らして去った。
 思わずこみ上げるものを感じた。
「さようなら……。ありがとう……」
 叫びながら手を振っていた。
 連日の記録に満足げな孫は、録音した音を聞いている。
 カタコン、カタコトン、カタコトン……。
 同時に聞こえる汽笛の音が、哀愁を帯びていた。何度も繰り返す電車の走る音と汽笛のそれは、孫と私を楽しませてくれる。それはまるで、恋しい人を思う音のように思えた。
 追っ掛けマンは、まだ終わらない。
 電車基地へ飛んだ。行ってみると、車庫にすっぽり入り、先頭の赤い機関車だけが顔を出している。かつては、お召し列車を引いたこともあったというだけあって、威厳さえも感じられた。
 どんどんと多くの人が集まってくる。誰も一様に去ろうとしない。アングルを変えて撮っては、万感を込めて眺めている。
 走り続けた出雲号≠ヘ、沢山の人の喜怒哀楽と人生を乗せてきた。その使命を果たして静かに終焉を迎え、天寿を全うしたかのような安らぎの表情を見せていた。

◇作品を読んで

 東京から孫が来る。作者は久し振りに会う孫のために、いろいろ計画をしていた。ところが孫は出雲市駅に着くなり、乗って来た出雲号の撮影に余念がない。
 平成十八年三月十八日に廃止が決まった出雲号の写真を撮るだけのために、孫は出雲に来たのである。そして、作者はその日から孫と一緒に出雲号を追うことになった。題名どおり、作者も追っ掛けマンになってしまった。
 孫の写真撮影に振り回されながら、しだいに作者は消えゆく列車に引き込まれていく。
 出雲号の歴史をさりげなく折り込みながら、孫への愛情と優しさが巧みに表現されている。
 作者はどちからと言えば、高齢者に属する方である。だが、常に身近な生活の場面から題材を拾い、精力的に書き続ける作品は若々しい。