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  桜雨の午後に……               三島 操子  
                                                                         平成18年5月18日付け島根日日新聞掲載

 雨雲は一層厚くなってきたようだ。朝からの雨で花冷えの日となった。
 午後四時半から母の老人会仲間の葬儀がある。ひと足先に、彼岸の国に旅立ったおばさんは、八十歳に歳を三つほどのせていた。母と同い年だ。
 母と同じように、脳梗塞にいたずらされたものの元気を引き寄せ、老人会、ゲートボール、私達がボランティアで運営している高齢者の集いにも参加して、喜ばせてくれていた。
 三日前、おばさんは老人会の集まりの場で気分が悪くなった。母とお茶当番を一緒にして、一息ついた時だったらしい。慌てる仲間に、人差し指を立てて見せたという。
『今日は自分一人で家には誰もいない』と伝えたかったのではないか! これが母達仲間の想像だ。
 亡くなったのは、その夜十時過ぎ。明くる朝一番の電話で知らされた。私にしても、二週間前、高齢者の集いで楽しく銭太鼓をして過ごした人が、もういない事がにわかには信じられない。母が受ける打撃を案じたが、使い古したような言葉しか出てこない。
 取り合えず、落ち着きのお茶を口に運びながら、コタツを挟んでお互いに黙って外を眺めていた。
 ガラス越しに見る山の木々が雨のせいか、はなだ色の枝を揺らしている。
 葬儀に遅れないように……。足元が悪いからもう出かけた方がよい。言われて時計を見れば三時半を少し回った所だ。何が気ぜわしいのか、急かされる。
 一緒に見送りに行く? と言ってみた。いや……身体に障るといけないから。コタツ布団を、肩から深くかけたまま顔も向けずに返事が返った。元気のない様子には気を遣う。
 せき立てられて玄関を出れば、桜雨が傘に重たい。右腕に力が入る。足元の跳ね返りが気になるほどの雨になって来た。
 道路脇の道すがら小指の爪半分ほどの淡紅花が、畦青む其処此処に色を添えている。ヒメオドリコ草だ。足元をからげるように伸び、群がっている。葉を傘にした花は、今日の雨にもキッパリとした姿だ。
 白い花を付けているのはコンコン草。その横にはナズナ。春の雨は、冬の寒さを凌いで春を待っていたもの達への、目覚めの合図だ。
 行く先を見れば傘を担ぐようにさした後ろ姿が、ゆっくり、ゆっくりと三々五々歩いている。後ろ姿で、おばさんの老人会仲間とすぐ分かる。雨足は少し遠慮がちになり、先を歩く人達の姿をぼんやりとした雨霞みの中に包み込んでいる。
 今よりずっと若かった頃、どんなことでも受け止められる気持ちの余裕があった。でも、この頃、事が起こった時の気持ちの整理になんと時間がかかることか。歳を重ねるという事は、辛い事柄を直視する力の衰えを自覚したときが初めの一歩ではないか!
 そう思える。
 葬儀では、家族の方から沢山の感謝の言葉が返された。別れを惜しむ仲間に、穏やかな目元と、物言いたげな口元をしたおばさんが、黒い縁どりの中から笑顔を送っている。
 春の雨は冷たい。おばさんの名残の雨か、傘の中まで入ってくる。
 一緒に居る時に気分が悪くなって良かった。家で一人だったら心ぼそかっただろうに。
 でも……怖いね。前を歩く人達は、ゆっくりと歩調に合わせて頷き合い、また、思い出したように話は続いて行く。思いを頼りに連らなって冷たい雨をかき分け、自分の家に向う。最後尾の方を歩く私も、仲間にしてもらって、ゆっくりと行く。
 満開の桜が、雨に誘われるように散ってゆく。歩道は花びらで薄桜色になって、帰り道を案内してくれる。
 並んで歩く友人が、足元に散る花びらを気にしながら話しかけてきた。
 何歳になっても、これで十分は無いかもしれないよね……。普段どおりに出かけた先で、急に来た身体の異変にハッとしたと思うよ。でもね。手を握って励ましてもらってその日に旅立つ。私、幸せだと思うな。
 彼女は、自分の母親を長年に亘って介護している。私はと言えば、心配しながら側にいるだけだが、それでも緊張の解けない暮らしだ。
 友人は、私にというより、自分に向かって話しかけているように思える。遠慮がちに、噛みしめるような口振りだ。
 私の住んでいる地区では、昨年から今年に掛けて七人が旅立たれた。その時まで元気で、突然にまわりを驚かせたまま、挨拶もそこそこに出発された方が多い。
『元気で長生き――ぴんぴんコロリ』なんて言うが、この言葉が人ごとではなく、気配を覚られないように、忍び足で私の近くまで来ているかも知れない。その瞬間、間際の時を受け入れた経験を後で生かす事は絶対ない。が、『なるほど……こういうものなのか』と、向かい合える時間が私には欲しい。
隣を歩く友人に、私の気持ちを言いたいのになぜか口が重い。若いとは言えない歳に年を重ねるごとに、口から出る言葉の重さは増して来る。そんな気がする。
 道路から家に向かう木戸道まで来ると、後ろを振り向き、まあまあ――と。 簡単な挨拶なのに、今日一日に起こったことを包み込むいたわりを感じる。一人、二人帰って行く。 まあまあ――。
 友人も木戸道に別れて行った。
 ここからは私一人だ。暮れが雨に押されて早足になってきた。雨に運ばれる桜の花びらが、水溜りに寄り集う仲間に呼び止められるように寄っていく。桜雨は意地悪であるが、優しくもあるようだ。
 花だまりに気を付けながら、私も桜雨に促されるように家に急いだ。母が縁側のガラス戸を少し開けて、私を待っている気がするから。

◇作品を読んで

近所の人が亡くなった。同じ歳の母を気遣いながら、葬儀に出掛けた。
 逝った人をめぐる友達との話、人生のありようについての思いや周囲の情景が鮮やかに描かれている。
 書かれる作品の数が増すにつれ、作者の作品は、自らが紡ぎ出した情感溢れる言葉で満たされていくようである。
 桜雨という言葉を使ったタイトルも六点リーダーを使うことによって、情趣あるものとなった。
 桜雨とは言葉通り、桜が咲く頃に降る雨のことである。桜の花時は、「花に嵐」という言葉があるように、花冷えと共に風が吹き雨が降る。舞い散る花びらも華やかだが、雨に濡れた桜と同様に風情がある。
 鹿児島には、「桜流し」という雨の名がある。長雨や梅雨をいう。桜の花を散り流す無情の雨である。