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  駄目も目である
                        紀山 ミチル  
                                                                                     平成186月29日・7月6日付け島根日日新聞掲載

「死にたい… 死にたい」
 アァ、くそ ! 
 茂輔は、一体何を言っているのだと昌介は怪訝な顔になった。
「死んでみたい…」
「おい死にたいと、死んでみたいとは違うだ。 どっちなんだ」
「ほんとに死にたいだよ」
「それなら、死ねばいいだないか……」
「それがどうしても、死ねねーんだ」
「なんでだ」
 茂輔は畑の畦畔に腰を下ろし、がっくり肩を落とした。
 暫く黙って伸ばしきった足に囲まれた地に眼を落としていたが、やおら右の親指と人指し指で丈の低い雑草をゆっくりと一本一本持ち上げるようにして抜きながら話しはじめた。

 寒い時には炬燵の布団に潜り、何とかして息を止め、死のうと思って頑張ってみたが、どうしても苦しくなって息をしてしまう。そういう失敗したことが何回あったことか。
 あんた何してるのと かかあの奴は最初の頃は言っていたが、最近は無視されっぱなしだ。さっきも、死のうと思ってシマジンを飲んだが吐いてしまった。

 あそこで呑んだと指差す場所の畑の縁には、メリケン粉を溶かしたような汚物っぽいものがある。
「もう、駄目だがや」
 茂輔の角ばった顔に、チョコント置いたような三角鼻の下あたりが、白っぽく汚れている。それを見た時、ほんとに茂輔が農薬を飲んだのは嘘でないようだと昌介は思った。
「おい 大丈夫か。えー」
 泪が眼のなかいっぱいに盛り上がると、やがて浅黒い頬を伝って流し出した。 どうした、どうしたと声をかけるが茂輔は「 吐いた! 吐いた!」と繰り返すばかりだった。
 昌介は驚き、慌てて自宅にすっ飛んで帰った。掛かり付けの開業医に電話して、茂輔から聞いたことを話した。
「大変なことになるからすぐ救急車でつれて来い」
 怒鳴るように医者は言い、電話を切った。
 昌介は救急車を家に呼び、現場に向う車の中で、今まで見たことを係官に話した。係官は、担架を両脇に挟むと先導する昌介の後について、緩やかな上り坂になっている段々畑に通じる小徑を駆け登った。昌介は、小高くうねる砂丘に伸びきった夏草の中を、ヤブ漕ぎをしながら荒い息を弾ませながら急いだ。
 クジラの背のような砂山を背に、茂輔は吃驚した顔をして座っていた。
「早く救急車に乗って病院に行きましょう」
 若い二人の係官が何度も促すのだが、茂輔は一向に乗る気もない様子で立ちあがろうともしない。まるで尻から根を下ろしたようだ。
「病院に行ってもらわないと、僕たちが困るんです」
「119番の要請で出た救急車は、必ず患者さんを病院に連れて行くことになっていますから」
「大丈夫だからー 大丈夫だから」
 茂輔は、子どもがするようにと頭を振ってイヤイヤするばかりだ。 
「ほんとに大丈夫ですか」
 年長の係官は、茂輔の眼から口の中までしっかりと撫で回すように見分している。
「呑んだものは、全部吐いたので大丈夫だ」
 茂輔は、頭を横に振って出雲訛りの強い言葉で言う。
「どうでしょうかねえ」
 判断を求めるように昌介に言い寄った。
「本人があそこまで、やだと言うんだから駄目かもしれませんョ」 
 ぽつんと言ってみた。
 昌介は良いことと思ってやったことが、案外お節介だったかも知れないとうそ寒い厭な気持ちで、ブルブルと?が震えた。
 救急車は、サイレンも鳴らさずに春霞のなかを、だんだん小さくなって帰っていった。
「生きていても、つまらんもん」
「なんで、つまらんかや?」
「駄目だ、駄目だ……」
「世の中には立派そうに見える人間ばかりでは、それこそつまらんと思うよ」
「駄目だって言っちょうがな」
「お前やら俺みたいに居ても居なくてもいいような人間が、この世の中は大半ではないかや? それでも生きているよ」
「……」
「お前は、なんぼになる?」
「去年が厄年だった」
「まだまだこれからだろうが。日本人の平均寿命の半分だぞ。価値が無いとか駄目だとか――何を言うんだ」
 昌介は、何とか茂輔を元気づけることはないかと、先ほどからしきりに考えていた。茂輔は子供の頃から囲碁をするとき、目を輝かせながら、愉しく興じていたことを思いだした。
 昌介は隣に座って、虚ろな目を泳がせていた茂輔に言った。
「帰って、碁でも久しぶりにしてみやこい」
「なんだや……」
「碁でもしてみんかやって、言ったがな」
 昌介が誘った言葉にぽかんとしたような顔をしていた。
「ほんなら、すうか」
 茂輔はよいしょと呟き、立ち上がった。
 今まであれほど何もかも拒絶していた茂輔が、碁の話をした途端に腰を上げたことに、昌介は内心しめたとほくそ笑んだ。
 丘陵地になっているその畑から、そう遠くない昌介の家に帰るのには五分とかからなかった。
 押し入れから折りたたみ式の二つに折った碁盤を、持ち出して据えた。
「久ぶりだが……なんぼでやるだかい」
「なんぼでもええが」
 茂輔が言った(なんぼでやるだか)というのは、ハンディの置石のことである。
 最初の一番は久しく指していないので、どれくらいの腕前になっているか分からないから、握りでやろうということになった。握りとは、双方がひと掴みずつ手に石を握り、石の数が奇数か偶数かによって誰が白石をもつか黒石をもつかの決め方である。
 最初の一番は、茂輔が黒石になった。碁笥を手繰り寄せ、右手を伸ばして向こう左隅の三三≠ノやや力を込めて打つた。
 酒が嫌いではない茂輔の傍に、缶ビールと烏龍茶の缶を置くことを忘れなかった。
 中盤までは僅かに優勢な気がしたが、一つの読みのミスで茂輔が盛り返してきた。
「お前、飲まんかや」
 昌介は誘った。茂輔は頷いて缶ビールを口に運び、一気に半分ほどをごぼごぼと喉に流しこんだ。
 昌介は、茂輔がずっと以前の闊達な餓鬼の頃に戻ったかも知れないと思った。
(よしよし、これでいい。今だ! 今だ!)
 二本目の缶ビールのプルトップを引き抜いて差し出すと、手にとって口につけた。
 終盤の寄せの悪さも手伝って、昌介は駄目も詰め、三目半で簡単に手を上げた。
茂輔が『駄目だ! 駄目だ!』と言う駄目≠ニいうのは、囲碁で勝負判定の時、本当の目でない目、勝負の勘定に入れない目、つまり無駄な目だから駄目というところから出た言葉である。
 昌介は、囲碁が無類に好きだった作家 木山捷平が駄目も目である≠ニ何かに書いていたことを思い出した。
「おい、お前の勝った三目半は、お前が目の外側の駄目を詰めたから三目半勝ったことが判ったんだぞ」
「……」
「だったら、駄目でも立派な目だないかや。役に立ってるよ」
「絶対にか……」
「お前が畑で『駄目だ! 駄目だ!』と言っとった駄目も目だないかや」
「……」
「もう駄目だとか、つまらんとか、言うもんだないがや」
 好きな碁に勝ち、ビールの酔いも手伝ってか何かを見つけたように微笑んだ茂輔の顔を昌介は見逃さなかった。
「もう一丁やるか」
「おー、ええぜ」
 二局目は、茂輔に勝ちを譲った。
 初戦は多少の手心をしてもいいと思っていたが、あっさり負けた。二局目は大分考えて打ったつもりだったが、勝利の女神は茂輔に味方した。
 根は正直者の茂輔にようやく戻ったようだ。優しい笑顔は本物のように思われた。たった一日のうちに、いろいろなことがあったが、馬鹿な出来事は嘘のように消えていた。
 茂輔が帰る後ろ姿に、陽は茜色を落とし始めていた。それを追うように仄白いものが反転しながら、線を引くように飛び去りすっと消えた。
 巣へ帰る燕だった。

◇作品を読んで

 作者は碁を打つのだろう。タイトルに使われた「駄目」は囲碁の言葉である。作品の中でも説明されているが、地の境界線を決めるために打つのを「ダメを詰める」という。「ダメ」は漢字で「駄目」と書き、打っても何の価値も生じない手という意味で、「駄目」の語源である。
 茂輔は自分で駄目な男だと言い、人生を悲観している。友達の昌介は、茂輔を元気づけようと碁を打つことを思いついた。
 茂輔は囲碁の言葉と引っ掛けたのではあるまいが、作者はうまくテーマの言葉として使った。あるいは、作者は碁を打ちながら、「駄目だ。駄目だ」と言っているうちに、虚構のストーリーを思い付き、作品を構築したのかもしれない。
 題材はどこにでも転がっており、それをどう拾い上げるかという、まさに観察の「目」を持つことが大事である。