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  世界のどこかで
                        佐々 氷月  
                                                                                     平成18年9月28日付け島根日日新聞掲載

 午前ニ時。今宵も眠れぬ夜が訪れた。
 仕事のこと、子供と両親のこと、これからの人生について……。私の日常には不安材料が多すぎるのだ。
 とても重要なようで、考えようによってはどうでもいいような事をあれこれ考えあぐね、もう二時間以上も布団の上で堂々巡りを続けている。
 冷蔵庫の低く唸る声だけが響く静寂の中、底知れぬ不安感に襲われた私は、おそらく今も世界のどこかで@キをつづけている男友達に言葉のロケットを発射してSOSを求めることにした。
 
 お元気ですか?
 ずいぶんと久しぶりです。どうやら今夜は、出口のない迷路に迷い込んでしまったみたい。きっと長いメールになると思いますが、どうか最後まで読んで下さい。
 日本に帰国してからもう一年。私の生活は、最近、にわかに忙しくなりました。思い返せば、カナダで過ごした九十日間は少しの英語力と素晴らしい友人を得た、最高の夏。宝物のような時間でした。
 ワーキングホリデー「働く休暇」とは、矛盾に満ちた、おかしな言葉だとずっと思っていました。実際に経験した今となっては、「働く休暇」――これは、粋な試みだと思います。
 バイトで貯め込んだ三十万円を握り締め、日本を飛び出して、やりたいことだけをして過ごしたあの日々は、得がたい大人の自由時間。
 私の住む松江では、夏の終わりを告げる涼やかな風が吹き始めました。旧暦の十月は神無月といわれていますが、出雲地方では逆に神在月になります。年に一回開かれる重要な会議に出席するため、全国の神様は、出雲大社に集まってくるからです。何の会議かって? そりゃ、他でもない「縁結び」に決まってるじゃないですか! 毎年毎年、誰と誰をくっつけるか引き離すか……神様も大変なんですよ。
 ワーキングホリデービザの有効期限が切れ、私が旅立つ前夜のお別れパーティーで、寮のみんなと飲んで語り明かしたあの夜。働いていたバンフカリブーロッジの古い方の社員寮一〇四号室。この建物のこの場所の匂いを今でも正確に思い出すことができます。
 日本語という、世界一難解で美しい言語。これに頑固なまでこだわりを持つ私のトンチンカンな会話を「毎回、楽しみにしている」とアナタは言ってくれましたね。やはり、おだてられた豚は木に登ってしまいました。
 帰国後、「取材ライター募集!」という文面をインターネット上に見つけた私は、すぐさま応募し、今は副業だけどライターやってます。これは、山陰で熱く生きる人々を取材して記事を作成し、ホームページ上でその人の魅力を余す所なく紹介するお仕事で、日記や小説を書くのとは違った面白味があるんです! その経験から、日本語をもっともっと極めたくなりました。日本語教育と英語を学ぶため、この春、通信制短期大学に入学しました。娘が中学生になって,母は大学生になったわけです。人生って面白いものですね。人を苦しめるのも幸せにするのも、同じ、人なんですから。
 アナタは、そのエベレスト級の男らしさと賢い優しさで、たくさんの人を幸せに出来る人だと思います。もう結婚なんかしない、と突っ張る私に、
「オレは、いつか誰かと結婚するよ」
 そう言っていましたね。アナタなら誰かの素敵なダンナサン、お父さんになるでしょう。
 街の外れにあった「オーロラ」という名のディスコで一緒にビールを飲んで踊り狂って、店を出た時に話しかけてきたオーストラリア人のルイスを覚えてますか?
「キミたちは恋人同士かい?」と尋ねる彼に、私は間髪入れず、「ノー、ジャスト ァ フレンドッ!」と言ってアナタを苦笑させましたね。
 こんな色恋沙汰のない関係も素敵だとは思いませんか? そうでなければ、あまりに寂しい人生だと感じます。
 どうか、そのままヤンチャで真っ直ぐなアナタでいてください。どこかで頑張っていてください。私はここで、世界のどこかから、いつか送られてくるアナタの手紙を待っています。電話もメールも存在しなかった平安時代の女のように。

追伸
 本屋と郵便局とマクドナルド。この三つは世界中どこにでもある場所です。
 チップの要らないどこかのマクドナルドで食事をして、どこかの郵便局で私や友人宛ての手紙を書いて投函してください。そして、旅を終えて帰国したアナタが、日本のどこかの本屋に辿り着いたらゆっくりと店内に入ってみるのです。
 もしも、そこに私の書いた本が並んでいたら、それを見つけることが出来たなら、迷わず手にとってページをめくってみてください。二ページ目には外国の作家がするように、こう綴られているはずです。
私の周りにいるこの上なく大切な人たちへ……
 長い長い夜に、長い長いメールを送信しました。
 では、またいつか……。

◇作品を読んで

 特定の相手に読んでもらいたいと思い、その人へ語りかけるのが手紙文である。言いたいことを書くのだから、内容が相手に伝わらなければ意味がない。手紙を大事にしている人は、文章が書ける人であるともいえる。
 ワーキングホリデーは、目当ての外国に行き、アルバイトなどをしながら言葉や文化を学ぶ制度である。対象になる国は七ヵ国のようだが、作者はカナダを選び、その体験をメールという書簡体形式で作品にした。カナダでの生活に寄せた思いが、モノローグで生き生きと綴られている。
 前作の『夏のしずく』とは、またひと味違う独白体のこの作品から、積極的に小説を書こうとしている作者の研究熱心さがうかがえる。
 手紙を使った小説には、ウェブスターの『あしながおじさん』、日本では明治四十年初頭に書かれた近松秋江の『別れたる妻に送る手紙』などの作品がある。