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  恩返し
                        野津 ツルミ  
                                                                                     平成18年10月5日・12日付け 島根日日新聞掲載

 従兄の家は隠岐島西郷町で、珪藻土の採掘を家業としていた。一九五〇年代のことである。家の近くにあった採掘場の木々は伐採されて禿山になっていた。む だが、久し振りに眺める山は雑木が伸び放題に繁り、すっかり趣を変えてしまっている。
 当時、珪藻土は主として七輪を造る材料として利用されていた。今では殆ど見かけなくなってしまったが、七輪は炭火の上に金網を乗せて魚などを焼く道具である。
 七十七歳で逝った従兄の初盆に行こうと、私たち三姉妹は、懐かしい峠道が山の陰になっていることを幸いに登り始めた。
 故郷を離れて四十年が近い。私は松江に、妹二人は大阪で暮らしている。五十歳を越えた私達は、さすがに暑さには勝てない。無理だったと内心後悔し、喘ぎながら歩いていた時だった。音も無くスーッと一台の車が止まり、イケメンの若者が窓から顔を出した。
「良かったら乗りませんか?」
 隠岐弁ではない。一瞬、不審者かと思ったが、ここは隠岐である。妙な人間なぞいるわけはないと気づく。
「あら、良かった」
 藁をも掴むという言い古された言葉があるが、まるでその気持ちだった。
「あんたは、どちらの?」
「マエタヤです」
 田舎ではたいていそうだが、隠岐でも屋号を言えば、どこの家か分かるのだ。聞けば、小学校以来会っていない同級生の息子さんではないか。車内は昔話などで盛り上がった。
 難儀した峠道はトンネルになっていて、車は、あっと言う間に通り抜け、海が見えてきた。
 三十戸ばかりの小さな村である。村の中央には神社があり、横並びに従兄の家があるのだ。
 家の庭に続く畑の先は護岸道路になっていて、小さな湾を家が取り囲んでいる。湾の両端は深緑色の山々が彩りを添え、紺碧の海に続く遙か彼方の水平線は空と連なっている。いつ来ても変わらぬ懐かしい、これぞ日本海と言いたいほどの眺望が広がっていた。
 しばし我を忘れ、時を忘れて、呆然とするばかりである。
 故郷の隠岐を離れて分かったことは、お金では買えない、何物にも替えがたい自然の美しさだった。自然は全ての生物に必要不可欠なもので、魂までも癒してくれる神のような存在ではなかろうかと密かに信じている。
 子供の頃には、見慣れた田舎の自然に何の興味も湧かなかった。隠岐にはない人工的な都会が珍しく、そこに住んでみたいと故郷を後にしたのだ。
 従兄は亡くなる前の七年間、肺気腫との闘いの日々を過ごした。在宅酸素吸入器を片時も離せず、妻の介護無しには生活できなかった。ワンマンで厳格な従兄に長年連れ添い、介護をしてきた義姉の苦労は想像に難くない。喪失感と燃え尽きたという空虚さから立ち直れない様子を見せていたことが記憶にある。

 子供の頃、私はとても不思議だった。義姉は見たことも無いほど美しく、立ち居振舞いも静かで、言葉遣いも気品に溢れていた。鈴の音のように上品だったからである。どうしてだろう? と思っていた。原節子、山本富士子や岸恵子よりも目鼻立ちは整い、醸し出す雰囲気は、この世の人とは思えず『かぐや姫』とはこんな人ではなかったか? 天使が舞い降りてきたような存在ではなかったか? と思わせられた。
 大人になったある時、従兄に聞いてみたことがある。「略奪結婚だよ」と笑っていた。ある意味、それは本当であっただろう。
 つい最近になって、義姉は元華族の出身で、東京大空襲の後、理由があって引き取られ、隠岐に住むことになったと聞いたからだ。
 やはり……そうだったのかと、長年の小さな疑問が解けた思いもしたが、更に興味も掻き立てられた。きっと、私達の知り得ない、ドラマとロマンがあったに違いない。
 従兄は家業である珪藻土の採掘を引継いだが、何よりも面倒見の良いところがあった。羽振りも男振りも良くてハンサムな部類に入り、時々見せる笑顔の素敵な青年でもあった。その環境の中で、略奪婚は行なわれたのだ。だが、義姉は従兄の浮気で随分泣かされていると聞いたことがあった。
 男は、どうしてこうも浮気をしたがるものか? あんなに美しいお嫁さんがいるのにと子供心に思った。今では、そのことも従兄の人生の通過点であったのではないかと思えるようになった。
 従兄には二人の姉がいたが、随分年下の女の従妹である私を、時には親代わりのように可愛がり、私が初めて隠岐を離れる時にも、付き添ってくれた。
 松江の看護学校で過ごしていた頃、旧松江駅の二階にレストランがあった。そこで、洋食の食べ方と称して、ナイフとフォークの使い方を教えてもらったが、四苦八苦した恥ずかしい思い出もある。
 玉造温泉、日御碕、出雲大社などへ観光にも連れて行ってもらった。日御碕では、高さ四十四メートルの灯台から海に向かつて、私が足を上げたなどと両親に話したらしいが、高所恐怖症の私は記憶になかった。多分、面白おかしく少しばかりの嘘を交えたのだろう。
 結婚式にも、夫が浮気をした時にも、来てもらったことがある。私が作った浮気をしない約束を書いた誓約書をみて驚いていた。多分、自分のことを思い出しての反応ではなかったか。それとも、(男には、こんな物は通用しない)という思いであったのか。
 振り返れば、私のわがままから、数々の世話になってきたことに気付く。
 仕事漬けの多忙な日々を送っていたある日、義姉から電話があった。
 従兄は、肺気腫のため、隠岐病院から、私の勤務していた国立松江病院への紹介入院を勧められたという。呼吸器科の専門病院に勤務する者として、迷うことなく入院に賛成した。かねがね、従兄には恩返しをしたいと思っていた。渡りに船ではないが、そういう思いを常に持っていると機会があるものだと感じたからだ。
 早速、役得も利用して手配と準備をした。幸いにも、隠岐病院と国立松江病院の主治医は、先輩、後輩の間柄で交流がよくあるという。今後のフォローにも好都合であり、何よりも心強く思った。
 こうして、病名と深い関係のあるヘビースモーカーの従兄は松江病院へ入院した。
 ある日、病室に見舞うと、従兄の反応が鈍い。ただ事ではないと直感した。主治医へ急いで連絡を取ってもらった。専門医の診察を受けることになり、松江日赤病院へ転院した。検査の結果、頭部の血腫が判明した。以前、転倒して頭部を強打したことがあったらしい。
 頭部の血腫があるところまで管を入れて血腫を取り出すドレナージという方法が取られた。しかし、再発の可能性もあり不安が残った。車の運転中に症状が出たら……と思い、ぞっとした。 
 退院してから後、幸いにも再発はなかった。
 松江日赤病院での治療を終えて、再び国立松江病院へ戻ることになった。
 しばらくすると、前々から肋骨の一部が接触して痛みがあるので、削って欲しいと言い出した。外科病棟へ移り、手術を受け、ついでに全身の悪い所を修理して帰ろうとの思いであったようだ。
 早々に退院したがる人が多い中で、さすがに、私も驚いてしまった。松江には孫や知人もいて、普段会えない人にも会えるので、結構入院生活を楽しんでいたのかもしれない。
 しかし、煙草は吸い続けていた。言っても無駄だと諦めるしかなかったが、職業柄、私も言わないわけにもいかず、多分偉そうで説教がましい嫌な奴として映っていたことだろう。子供の頃の立場は逆転したが、私の態度は決して快いものではなかったのでは――と思っている。
 三ヶ月余の入院生活を終え、従兄はともかく隠岐に帰った。会う人ごとに私のお陰で命拾いをしたと、半ば自慢気に話していたと聞く。
 隠岐で暮らし始めても、従兄は風邪を引きやすく、症状が進むと直ぐ呼吸困難に陥り、生命の危険にさらされるため、入退院を繰り返した。義姉と共に闘いの日々を過ごしたことであろう。
 私が勝手にイメージしてきた『かぐや姫』の義姉に、早く立ち直って欲しいと思う。かつての輝きを少しでも取り戻し、あの世の従兄が慌てるほど幸せに暮らして欲しいと願っている。

◇作品を読んで

 作者が「青藍」に登場するのは二作目で、最初の作品『命を繋いだ愛犬コン』は四百字詰原稿用紙で六枚であった。今回の作品は九枚である。原稿枚数が多ければよいというのではない。思っていることをしっかり書けば、当然のように字数は増加する。たとえば、動物の様子、風景、登場人物の気持ちなどを読み手に分かるようにと思って書けば、明快で的確な言葉を選ぶことになり、原稿用紙の枚数は増える。
 推敲経過をみていると、しだいに厚みが増してきたことが分かる。
 最後の修正作品には、「何度も見ていくと、不要や重複した語句、誤解、曖昧な表現などが沢山あるものだと驚く」と書かれたメモが添えられていた。
 自分が書いた文章は、どうしても贔屓目で見る。他の人に読んでもらうということが大事である。