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  弄び弄ばれて五七五
                        遠山 多華                   
                                                                                     平成18年11月30付け 島根日日新聞掲載

『出雲総合芸術文化祭第二十八回出雲市川柳大会』という長い標題の川柳大会が、去る十一月十八日、出雲市駅前にあるパルメイトの四階ホールで開催された。
 川柳の年中行事としては、一年中で最も大がかりな催しである。
 出席者は八十二名、投句者が三十一名の計百十三名という会である。地区外から来られた未知の人も多く、いずれも自信満々の顔ばかり。大会という名に恥じない人数と顔触れであり、さすがに緊張感を覚えた。

 席題は「味」。
 隠し味自信過剰でないですか

 最初の選に入った。幸先良しと、少し緊張が解けた。どの題も二句宛の投句である。

『近い』 近道をしてどん栗に躓いた
『寝る』 人生の三分の一は寝て暮らす

 辛うじて三句が入選した。まあまあという成績である。このくらいが限界だろう。
 大体、どこの句会でも同じかとも思えるが、練りに練った推敲の句、自信のあった句でも没になることが多い。
 いつでもそうだというわけでもないが、瞬間的にぱっと閃いた句が入選することが多いようだ。
 もちろん、私の場合だけのことかもしれないけれども、結局、それは新鮮味を買われたということなのだ。感覚の問題ともいえる。
 とにかく、読み上げて披露される披講までが醍醐味の時間である。これは投句をした当人だけでなくては味わえない気持ちだ。だから、自信作が没になると口惜しいのである。選者によって、まぐれかもしれないが入選することもある。
 とは言え、最近はあまり芳しくない。やはり限界を思うこの頃で、一喜一憂の繰り返しである。
 五七五は日本独自の短い定型詩である。俳句も同じであるが、短い詩でありながら心の中の情景を表現しなければならない。川柳はユーモアの中に「うがち」がないといけない。川柳をやっている者として、それだけ奥が深いと思うのは手前味噌ということだろうか。
 川柳に翻弄されている気もしないではないが、作るということを楽しむということが大事である、作品が甘くてもいい、川柳を作る人生、楽しければよいではないか。
 私から五七五を取り除けば、残るものは何もない。惚けが進行するばかりで、それではあまりにふがいなく、家族に迷惑をかけるばかりだ。五七五に翻弄されてもいいではないか。いわば、自分勝手な諦観である。
 若干の余命。悔いは残したくない。

 卒寿今おこがましくも未だ女

◇作品を読んで

 作者も言うように川柳は、「うがち・おかしみ・かるみ」など、つまり、諧謔・風刺・機知などという要素があり、人情の機微や心の動きを描く。笑いと風刺、しみじみとした情感、人間愛、人の世の出来事を通じて人間を見つめる詩であり、多くの人達から共感を得るものではないかと作者は言う。
 作者が関わっている『くずかご文庫』という作品を載せた小冊子がある。この十一月で、二百五十号となった。聞くところによると、創刊は昭和六十年頃で、優に二十年を超える。くずかご文庫は、屑篭に投げ捨てられてしまうようなものでも、それぞれに光るものがあり、それを拾い上げようという趣旨から付けられた名であるという。
 この欄に載せる作者の随筆もそうだが、積み上げられた作品は、まさに生きた証しである。