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  ロマンティックな週末を
                        佐々氷月                   
                                                                                     平成18年12月28日・29日付け 島根日日新聞掲載

 旅と恋と転職を繰りかえして私の二十代は終わった。
 放浪癖があるから定職に就けないのか、まっとうな仕事を持たないから放浪するのかわからなかった。恋に関しても、惚れたり惚れられたり、去ったり去られたりの連続で、私の辞書に永遠なんて言葉はなかった。私を取り巻く世界は真っ暗闇で全てが不確定。
 確実なのは、今日が私の三十二回目の誕生日、それと、目の前に無造作に置かれた紙の束が全て不採用通知だということ。
 彼氏のジンは、そんな私に「作家になったらいい」と言ってくれた。無論、書くだけでは食べていけないので、週に三日だけキオスクの売店で働いている。私は駅が好きだ。ホームレス、旅立つ人と見送る人、通勤する人、通学する人。「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」の行き交う駅には人の数だけドラマがあり、人間観察にはもってこい。それに、駅で働いていれば突然旅に出たくなった時でも、すぐに出発することができるから。
 昼はマジメな販売員、休日と夜は記事や小説を書くというパターンで過ごし始めてもう一年半になる。不安定ゆえに無限の可能性を秘めた、この生活をとても気に入っていたけど、普通が大好きな両親は、いつまでも夢のようなことを言って定職に就こうとしない娘を快く思っていないことも知っていた。そんな両親が、月下美人のように夜に活動する私の心の憂いなど、永遠に理解することはないだろう。
タクシードライバー≠ニいう古い映画を見た。ロバート・デ・ニーロ扮する不眠症の男がタクシー会社の面接を受けに行く。フルタイムで働きたいデ・ニーロと雇い主のやりとりの中に、イカした熟語がみつかった。
――moon-light.
 昼夜でふたつの仕事を持つこと。本来の仕事の他に(特に夜間に)内職をすること。

『同窓会のご案内』と書かれた葉書をメールボックスに見つけたのは、一ヶ月前のことだった。その日、朝から張りきって美容院に出かけた。ついでに、書きかけの原稿と読みかけの雑誌が散乱する部屋の掃除もさっさと済ませた。普段より入念に仕上がったヘアメイクに心を躍らせ、お気に入りのワンピースに身を包んだ私は、夜の繁華街に足を向けた。
 会場に着き、旧友とお決まりの挨拶と簡単な近況報告をしあった。クラスで一番のガキ大将は警察官になっていた。その後は、飲みながら自由に歓談ということになったので、私は先週作ったばかりの名刺を配って歩いた。

 フリーライター 佐々 氷月

 OLをやっている友人は、名刺を手に、羨ましそうな顔をした。
「へえ、カッコイイね」
 どこが? フリーターの間にライ≠挟みこんだだけの肩書きの、一体どこがカッコいいというのか。フリーとは名ばかりで、何の保証もボーナスもない、実は限りなく不自由なものだということを彼らは知らない。わがままに生きるのなら、他人にその考えを認めてもらうだけの努力をしなくてはならないのだ。二次会には行かず、早々に退散した。
 駅の裏手にお洒落なお店がある。気のいい中年夫婦がやっていて、昼間は食事処、夕方からはバーになる。夫婦揃って店に出る時もあったが、基本的にはマスターの愛妻セツ子さんが昼に出勤し、黄昏時に出てくるマスターの稔さんと交替で店を回していた。
 日本語で幸せな偶然という意味をもつ店の名前、それに、「ロマンチックな事って大抵お金にならないものなんだよ」というマスターの口癖が気に入っている。週に三回、少なくとも一回――金曜の夜には決まって、その店セレンディピティ≠ノ通い、カウンターの指定席でグラスを傾けるのだ。
 常連客の中に、ひときわ情熱的な女性がいる。名前は平井ユキ。若い頃フライトアテンダントをやっていた、という一見イイ女風のユキさんは、優しい旦那さんと、一風変わった習慣をもっている。夫婦ケンカをしたといっては、月に一度、家出という名の旅に出るのだ。
 ユキさんの旦那さんが右手に鞄、左手にゴミ袋を抱え、しょんぼりとマンションを出て行く姿は近隣の住民に何度も目撃されており、哀愁漂う彼の背中は毎回、笑いと同情を誘ってしまうらしい。

 ある時、ユキさんに私は言った。
「旦那さん、しょぼくれてたよ。またケンカでもしたの?」
「ああ、私、明日から家出するから」
 平然とした口調で彼女は言い放った。家出予告である。そういえば、この店で初めて会ったとき、ユキさんはしたたか酔っ払っていて、旦那さんについてこんなことを口走っていた。
「お金目当てで結婚したのに、うっかり恋をしてしまった」
 私に言わせれば、それは幸せな誤算で三億円の宝くじが当たるのと同じくらい価値あることだけど。
 旦那は旦那で、一日で一番ドキドキするのは、マンションに帰り着いて鍵を開ける瞬間だとか。ある日突然、荷物も妻もそっくり無くなっていたら……とあらぬ妄想をして常に痩せる思いだと言う。
 世の中の夫婦を見るたびに、不毛だと思いながらも考えることをやめられない。生涯、同じ人を変わらず思いつづけること。しかも愛を強要したり、相手を束縛することなしに。おとぎ話でも映画の世界でもない、日常の中でこんなことが可能だろうか? 
 ママは、「それは、結婚するよりむずかしいことね」と。
 マスターからは、「結婚してしまう方がよっぽど簡単だよ」と。
 終いには、「かぐや姫にでもなるつもり?」と言われたりしている。
――Cry for the moon.
 得られないものを欲しがる。出来ない事を望む。辞書にはそう書いてあるのが、自分の事のように思え、心の休まらない夜だった。

 部屋に篭もってパソコンの前でじっとしていたところで人生は動かない。会員になっているスポーツクラブのプールで一時間ほど泳いだ。

「実はね、私たち籍は入れてないの」
 セツ子さんからそう聞いた時も、私は驚かなかった。マスターもセツ子さんも私の両親と同世代のはずだ。二人は自分の趣味や時間を犠牲にすることなく自由に生きていて、子供がそのまま大きくなった印象がある。だから両者が同じ人種だとは、とても信じられなかった。
 婚姻届を市役所に提出していない二人は、三十年間ずっと恋人同士のまま。別れようと思えばいつでも別れられる状況にありながら、互いを必要とし、今日まで愛を更新し続けて来たのだ。私には、結婚という接着剤を必要としない、信頼に裏打ちされた二人の関係が、素直に素敵だと思えた。 
 その夜、「氷月ちゃんにピッタリな一杯だよ」と言って、マスターが差し出したブルームーンという名のカクテルは、儚げな薄紫色が美しかった。グラスを持ち上げると、スミレの淡い香りが漂い、ついついうっとりさせられる。パルフェ・タムールという甘口のリキュールの量が、色と味を左右する。リキュールの名は英語でパーフェクトラブ、日本語で完璧な愛≠ニいう意味をもつ。
 この液体の宝石を体内に流し込む時、一年に数回しか逢えないジンのことを思い出す。私より一つ年上の彼は、住所を二つ持っていた。一年の半分は世界を旅し、残りの半分は実家のある横浜で、運転手やバーテンダーのバイトをして暮らしている。
 私たちが出会ったのは、バンクーバーの空港だった。磁石が引き合うように意気投合した二人が重ねたグラスの中には、ブルームーンが揺れていた。
 ドライジン70ml パルフェ35ml レモン35ml
 レシピを見た時に気づくべきだったのだ。私に足りなかったのは、ジンという物質だということを。

 スーツケースを押しながら平井さんが駅の売店に駆け込んできたのは、慌しい朝だった。
「おはようございます。急な出張か何かですか?」
 私は、新聞や雑誌を陳列しながら尋ねた。
「いえ、今度は僕が家出します。妻に……もう帰ってくるな、と言われたんです」
 いってらっしゃい、平井さん。どうせ、ブーメランのようにすぐ戻ってくるんでしょ。二人は間違いなく、愛し合っている。だから、ユキさんが旦那サンにどんな暴言を吐こうとも、私にはどれも「愛してる」と言ってるようにしか聞こえなかった。たとえ「離婚じゃー」と怒鳴って、年中喧嘩を吹っかけていても。

 それから、月が地球の周りを三周した。
 夢を見た。ジンによく似た男の宇宙飛行士が、月まで行って来ると言う。きっと、「月の石を取ってきてくれたら結婚してもいい」なんて私が無理なお願いをしたせいだ。
 ロケットは旅立った。機体が乱気流に飲みこまれ、巨大な隕石と衝突して粉々になった。何もかも消え去って、宇宙の塵となった。
 泣きぬれて、目が覚めた。ジンは、今まで出会ったどんな男とも違っていた。四六時中側に居てくれるわけでも、甘い言葉を囁くタイプでもなかったけど、彼が絶妙なタイミングで送ってくる短い手紙や写真などの郵便物は、いつだって私を幸福にした。
 二十代最後の夜には、私が一人で泣かないようにと、一九七四年のビンテージワインを送ってくれた。遠くにいるのに、いつも側にいてくれているような気がした。
 ジンとの出逢いは、
――Once in a blue moon.
 極めて稀で、めったにないこと。一生に一度あるかないかの出来事。そう思いたかった。何より、ジンに逢いたいという欲望をもうこれ以上、おさえられなくなっていた。

 翌日、なんとか出社したものの、午前中は誰に何を言われても、ずっとうわの空だった。昼食を終えた私は、休憩室でくつろいでいる店長をひっ捕まえて一気に言った。
「長期休暇をください」
 一度も下げたことのない頭を廊下に届くほど垂れて、懇願した。渋々だろうが要求は受け入れられた。そうと決まれば、ぐずぐずしている暇はない。大阪行きの高速バスのチケットと、関空からパースまでの格安航空券を手配した。それからの一週間は、旅の準備と仕事に追われて、またたくまに過ぎ去った。
 出発の前日にジンから小包が届いた。中身は、英字新聞とビー玉大の石ころだった。
 旅立ちの夜は、ちょうど週末でセレンディピティの店内は賑わっていた。先週までの一部始終を手短に話し、
「ちょっと南半球まで高飛びするわ」
 犯罪者めいた宣言をすると、セツ子さんは突き出しを用意しながら苦笑した。
「ほんと、かぐや姫みたいね」
 昨年、カナダから帰国した時にスーツケースを持ったまま、ぶらりとセレンディピティにやってきたかと思えば、今夜も突然、オーストラリアへ旅立つというのだから。
 心配しないで。私は大切な人を置き去りにしたまま月に還ったりはしない。休暇が終わればここに戻ってくる。旅は三週間の予定。もしも滞在を延長するような場合はメールで連絡をするつもりだった。旅人は、自分を待っていてくれる人、帰る場所があるからこそ旅に出られるのだ。
 今の心境は? 優しい顔のマスターに聞かれた。いくら探しても私の心の内を適切に表現してくれる日本語は見つからなかったので、
――Over the moon.
「非常に幸せで月を超えるほど、満ち足りた気分……かな」そう言い残して店を出た。

 駅の高速バス乗り場に向かって十メートルほど歩いたところで、怪しげなオーラを放つ、宗教団体所属と思われる中年女性に捉まった。
「貴方の健康と幸せをお祈りさせて頂けませんか?」
 いつもなら軽く捲いて逃げる所だが、腕時計に目をやると出発までは充分に時間があった。私は満面の笑みで答えた。
「あいにく、今の私は健康な上に、たまらなく幸せなんです。もう、ほとんど怖いくらいに。どうしてもとおっしゃるなら、私ではなく私の両親と友人のために祈ってください」

 高速バス、飛行機、長距離バスを乗り継いでオーストラリア北部の小さな港町へ向かう。隠れ家的なリゾート地であるブルームのタウンビーチで、満月の日を含めた三日間、月へ続く階段≠ェ見られるという。ジンに会うのは実に一年ぶりになる。ブルームの街に着いたら、ジンを誘拐して、これまでの人生で最もロマンティックな週末を過ごすのだ。
 地球上で、たまたま同じ時代に別々な場所で暮らしていた二人が、ひょんなことから出遭い、恋に落ちて結婚する――これだけでもかなりドラマチックな出来事だ。
 ジンから貰った月の石をぎゅっと握り締めながら、目をつむって私は静かに祈った。ただの恋人同士だった私とジンがいつか妻と夫になり、恋の関係じゃなくなったとしても、その事実を私が淋しいと思いませんように。
 バスを待つ間、小さな旅行鞄と溢れるほどの幸せを抱きしめた。見上げた夜空には、漆黒の海を背景に今月に入って二度目の満月が煌いていた。

◇作品を読んで

 作者の日常を垣間見るようなエピソードと外国暮らしの経験が巧みに投影され、小道具として書かれた英語のフレーズも小気味よく、いかにも洒落た感じに仕上がった。大都会を舞台にした映画の一場面のように思える。
 文章は歯切れよく、物語を作ることを楽しんでいるという印象を受ける。そのこともあって、セレンディピティ≠ノまつわる数人の登場人物と彼氏のジンが、一人称の「私」の目線ですっきりと立ち上がっている。
 スパイスとして出された「月への階段/Staircase to the Moon」も、それを知らない読み手にさりげなく説明をしてみせ、うまく使われている。
 作品が生れるごとに切れ味がよくなる。ロマンティックな、長い物語が書ける作者だと思う。