TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

  今日子の蜘蛛の糸
                        坂本達夫                   
                                                                                   平成19年2月15・22日付け 島根日日新聞掲載

 ウオンウオン――救急車のサイレンが出雲市の夕焼け空に響いていた。自宅へ急ぐ今日子の横を、一台のパトカーが追い越して行く。
 近くで何か事件が起こったなと考えながら、小走りになった。三十代後半、それも小太りの体では、息が切れる。やっとの思いで家の近くまで帰って来た。パトカーや救急車が赤色灯を光らせながら、一軒の住宅を取り囲んでいる。今日子の家の隣が、青いビニールシートで覆われようとしていた。今津庄一という、六十過ぎの老人が一人住まいをしている家だ。
 今日子は、しばらく呆然と眺めていたが、経営しているスナックへ出勤する時間になっていることを思い出した。慌てて家のドアを開けて入った。
「奥さん、ちょっといいですか」
 二人の男が後ろから追いかけるように、閉めかけたドアを押しのけて体をねじ込んできた。白髪まじりの頭をした男と、もう一人は三十ばかりだろうか。刑事です、と言いながら二人は黒い手帳を見せた。
「隣りにお住まいの、今津庄一さんの話を伺いたいのですが……」
 若い方の刑事が言った。威圧的だな、と今日子は思った。
「何かあったんですか? これから仕事に出かけるんで急いでますけど」
 思わず、むっとした感じの返事をしたことに気付いた。
「今津さんが亡くなられたんですよ。最近、変わったことはなかったですか?」
「いいえ、この頃今津さんを見たことがありません。それに私は、勤めが夜だもので、よく分かりません」
 年配の刑事は、黙ったまま品定めをするような目付きをしている。嫌な奴――今日子は口をへの字に曲げて見せた。
 刑事に言ったとおり、今津という老人については何も知らないのである。夜の勤めというせいもあるが、家の玄関はいつも鍵が掛けられ、昼間はほとんど居ないようだ。郵便物がドアのポケットに沢山たまっていることがある。
 ごくたまに、今日子が店から夜中の二時頃に帰ってきて、寝る支度をしていると、隣の家の庭側なのか、ガラス戸がガタンと開く音を聞くことがある。驚いて覗いてみると、作業着を着た老人が辺りを警戒するように振り返りながら、入って行く。
 今日子は、そんな話を若い刑事にした。
「一番最後は……いつ見られましたか」
 若い刑事が、黒い手帳を取り出して、ボールペンをかまえた。
「えーと、一ヶ月ぐらい前、五月の中頃でしょうか。店から夜中に帰ってきて、外の方でガタガタという音を聞いたので覗いたら、なんでか庭の方から家に入ろうとしていましたよ」
 二人の刑事の目が、同時に大きく開いた。顔を見合わせている。本当に五月半ばかと、念を押された。
 間違いないと今日子は言った。自信がある。あの時、なぜかガラス戸が開く音がはっきり聞こえたし、嫌なことに目が合ったのだ。
 悲しそうな、今から思えば何かを訴えるような表情だった。二人の刑事はひそひそと話していたが、急いでいるのだがと言うと、やっと帰っていった。
 翌日の新聞に、事件のことが載った。
 ――今津庄一さん、広島県出身で六十五歳。家賃を三ヶ月滞納し、音信不通のため、借家の持ち主が部屋を開けてみると倒れていた。解剖の結果、死因は脳梗塞で三月末には死亡していた。――
 社会面の下の方に、小さく書いてある。
「うそーっ。私、絶対、五月中頃にあの人の寂しそうな顔を見たのに……。それが亡くなって二ヶ月も後だったなんて」
 今日子は、「うそ! うそ!」と、十回ばかり繰り返した。道理で刑事達が驚いていたのだ。
 昼前だったが、寝間着を着ていたので、ピンクのガウンを羽織り、死んだ老人の隣の家のドアを叩いた。若い夫婦と子ども二人が青い顔をして出てきた。
「驚きました。怖くてたまりません。私も息子達も隣の明かりをこの間も見てるのに、中国電力の人が言うには料金滞納で一ヶ月前には電気を切っていたんだそうです……。三ヶ月も死体が隣の家にあったかと思うと、なんか臭ってきそうです。ミイラ状態だったんですかね。今年は空梅雨で奇跡的に腐ってはなかったそうですけど……」
 夫の方がそう言い、不安そうな顔で、家族四人が寄り添った。それ以来、なぜか、その家族はどこに行ったのか姿が見えなくなった。
 今日子がママをしているスナックは、出雲市の飲食街の片隅にある。
 事件から三日が経っていた。今日子は、ブクブク泡の出る円柱形の水槽を見続けていた。中には、黄色と黒の縞模様をした人工の熱帯魚がゆっくり泳いでいる。水面にも、人造の蓮の花が浮いている。
 あの事件以来、十分眠ることができない。いらいらして、暴飲暴食を重ねてどんどん体重が増えてきた。胸も一段と大きくなり、肩が凝り、服もきつくなっている。カウンターの中で、雇っている女の子と擦れ違うのも苦しいくらいだ。
「こんちわー」
 常念和尚がやってきた。常連である。
「お早う。お元気でしたあ」
 今日子は、嫌な気分を振り払うように、笑顔を作った。
「ママさん、今日はえらい愛想がええね。もしかしたら、愛が生まれたかなあ」
「そうかもしれないよ。私の相談に乗ってくれたらね」
 和尚は、顔中の筋肉をにたっと緩めた。今日子より十歳ばかり年上である。毎年大寒の頃には、下帯一つで滝に打たれる修行をしているという。少し好色だが、和尚ということもあって尊敬しているのだ。


−−−ここで切る−−


 今日子は、芋焼酎の水割りを丁寧に作りながら、このところ頭を離れないあの事件について話した。
「亡くなった人は、自分の欲望のままに悪い暮らしをしとったんだろうね。だから、死んでも誰も見つけてくれんで、発見してくれーと、波長の合うあんたに合図を出しとったと思うよ。隣の人にも、部屋の明かりを点けたりして必死に見つけてもらいたがっていたんだろうね」
「へえ、そんなことが現実に起きるのね。だからガラス戸の音がはっきり聞こえたのかな。三ヶ月も気付いてもらえないなんて、寂しい死に方だよね。まだ成仏できんで、ここいらを霊がうろうろしてるかなあ」
 今日子は辺りを見回した。店の隅に置いてある背の高いポトスの後ろが、妙に暗く、気になった。
「常念さん、少しはお金出すからその人の魂を助けてあげてよ。私、眠れないんだわ」
 常念は、二杯目の水割りを一気に飲みながら言った。
「私には助けることは、できませぇーん。ママは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』って読んだことある?」
「当たり前よ。お釈迦様が地獄の血の海にいる、罪人のカンダタを助けようとした話でしょ。蓮の間から一本の蜘蛛の糸を垂らしたんだけど、それに掴まったカンダタは自分だけでなく他の者もみんなも登ってきたので、自分一人助かろうと糸を下の方から切ってしまった。そのせいで、真逆さまに地獄に逆戻りした話でしょ」
「そのとおり。悪いことをした人がいつまでも自分の欲望だけを考えて生きとったら、極楽浄土にはとうてい行けないよ。私には忠告はできるが、その人に代わって生きることは無理だな」
「そうなの?」
「つまりさ、生き方を決めるのは自分自身なんだ。この間も、檀家の高校の先生が、あんたら坊さんは罪人の一人も助けられんだけん、仏を信じてもしょうがないと言うんだ。芥川をもっとよう読めと言っといたけどね」
「ちょっと、常念さん。なんで、死んだ今津さんを悪者って決めつけるのよ」
「私は、これでも坊主ですから分かりますよ。人間最後に頼りになるのは、家族、親戚、近所の人でしょ。この人には何があったか知らんけど、三ヶ月も死体がほったらかしだったところをみると、周りの人達との縁を切ってるでしょ。それがこの人の悪ですよ。せっかく仏様が繋いでくださったご縁なのにね」
 今日子は、話を聞きながら、私は極楽浄土にいけるだろうかと考えた。母の介護もしたし、捨て猫を拾ったり、野犬に餌をやったりもした。カンダタは蜘蛛一匹で、糸が下りて来たんだから、私の場合は楽勝ね、と思ったりもした。
 常念は、酔って益々饒舌になってきた。
「これが今の世界の問題ですわ。世界でも人情の厚い国といわれているフランスだって、引き取り手のない遺体が、去年は二百ぐらいあったそうですわ。亡くなった人には、ちゃんと身寄りがあるのにね。いやいや遠くの国じゃなく、うちの寺だって檀家の人が、近所の一人暮らしのじいさんが死んだけど、誰も関係者が引き取りたくないというので、相談にこられましたわ。ハイ。たった二人で拝んであげましたわ。なんでこんなに人の繋がりが脆くなってきたかいな」
 常念の目は涙で光っている。今日子は勇気を出して一番聞きたいことを切り出した。
「それで、私は極楽へ行けるの」
 常念は顔をつるりと撫で、鋭い目をして即座に強い口調で言った。
「あんたは無理だ」
 心臓が突然膨らみ、ドキッという音を聞いたような気がした。一週間ほど前だった。店のボックス席に一万円札が落ちていた。誰も聞いてくる者がいないで、自分の財布に入れたのだ。常念には見えていたんだと、狼狽えた。
「何でよ。私はカンダタと違って、人間や動物をいっぱい助けたのにどうして……」
 常念は、にたっとした顔を見せ、今日子の豊満な肉体を眺めながら重々しく言った。
「あんたが蜘蛛の糸にぶら下がったら、その体重じゃあ切れるわね。蜘蛛の糸がかわいそう」
 こらあー、このくそ坊主と今日子は思いながらも、もっとダイエットしなきゃと常念を睨んだ。
 せっかく生きているのだ。もっといいことがあるかもしれないのである。
 その時、円柱形の水槽に浮いていた薄桃色の蓮の花が微かに揺れたのを、誰も知らなかった。

◇作品を読んで

 このところ、高齢化する日本で深刻になっているのは、独居老人問題である。作者は、その中の一つ、老人の孤独死を背景にして書いた。孤独死という言葉は、平成七年の阪神・淡路大震災から使われているという。
 作品は、ちょっとしたミステリータッチの雰囲気を感じさせる物語である。後半に書かれた、スナックのママと常連の客のやり取りが面白い。客は和尚である。そのキャラクターを生かすために、芥川の『蜘蛛の糸』を登場させたのは、よく考えられた構成で、そのせいか最後の段落は、芥川作品の匂いがする。
 作者がこれまでに書いてきた作品は、紀行文や随筆が多かったが、またひとつ新しい分野を開拓されたようである。