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  三十一文字の恋文
                        佐々氷月                   
                                                                                   平成19年3月22日付け 島根日日新聞掲載

生まれくる時代を千年ほど間違えたかもしれない。そんな不埒な考えが浮かぶほど、平安時代に強く惹かれている。パソコンやケータイが幅をきかせる現代において、仕事の効率は劇的に上昇、世界もより身近になった。メールのおかげで遠くの友人を近くに感じることだってできる。
けれども、便利さを手に入れる代償として、私たちは快適な静けさと美しい言葉を奪われた気がしてならない。現に何処も彼処も雑音と情報の洪水ときている。
 現代に清少納言が生きていたら、真っ昼間からのんびり『枕草子』など書いてはいられないだろう。「これまた、なんと……騒々しい」と長い黒髪を振り乱しつつ、さぞ嘆き遊ばれること間違いなし。
 ここの所、まわりの雑音に食傷気味な私だったが、先日、久々にココロときめく本に出会った。知的な大人たちの間で密かにブレイクしている、書きこみ式の本だ。
 誰が考えたのか、『奥の細道』、『徒然草』などの名作を読むだけでなく、えんぴつで書いて味わってしまおう、という思いつきが心憎い。
 どうせ書くならロマンチック路線を! と思い、『えんぴつでなぞる 古の恋文』、『書いて味わう 枕草子』の二冊を購入した。
 以来、胸がざわついて眠れない夜には、この本を開く。「たまには日常の雑事から逃れて、平安の雅な世界にどっぷりと溺れてみたくなるのが、人情ってもんよッ」なんて呟きながら、思いのままにえんぴつを走らせる。
 五・七・五・七・七――心の琴線に触れる、魔法のリズムだ。短い音韻の合間に見え隠れする、平安人の圧倒的な文章作成能力に感心せずにはいられない。頭の悪い私にとって、文は短くシンプルなほど有り難いに決まっているからだ。
 古い書物をひとたび手にとれば、匂いたつ平安ワールドにたちまち夢中になってしまう。彼らは、たった三十一文字で私のようなワケの解らない現代人すら、簡単によろめかす。
 なにも紫式部や和泉式部みたいな有名人ばかりではない。「詠み人知らず」と記された名もない人たちだって、いい仕事をしている。農民だろうと貴族だろうと、心に沸きあがる感情は何ら変わるところはない、そんな風に思わせてくれる。そう、一般庶民をナメてもらっては困るのだ。いにしえの歌人が遺した珠玉の言の葉は千年のときを超えて、現代に生きる私の心にまっすぐ届く。
 平安は文字通り、男も女も恋愛にうつつを抜かした平和で幸せな時代。寂しい夜をやり過ごす娯楽がない代わりに、歌や手紙を詠み交わす、という素敵な習慣があった。
 似て非なるもの。それは、メールと書簡。印刷文字と手書き文字。インクの匂いと紙の重さのせいか、手紙から伝わる想いはヘビーだ。
 そのあたりの現代人に物申す。時にはケータイを捨てペンを持つべし! お気に入りの音楽を聴き、心地のよい香りのアロマを焚きながらだっていい。無理矢理に愛を語らなくてもいい。あなたの大切な人宛に、しっとりと文をしたためる夜があっても良いではないか。
 かくいう私は、静かに決意するのだった。いくつになっても心が痺れる恋文をもらえる身分であり続けよう。この騒がしい時代を図々しく、しなやかに生き抜いていこう、と。

◇作品を読んで

 作品は携帯で書かれた。通常はパソコンで書いているのだが、それが使えない状況になったことから仕方なく携帯を使った。原稿用紙に書く、パソコン画面で打つことと、携帯のそれは違うのだろうか。画面表示が小さいから、短い文、歯切れよい文体になり、読み手側からは、メール感覚で読めるので感情移入がしやすいという意見もある。
 作者は、携帯で書くと、作品全体が見渡せない、成り行きまかせで書いているとまとめるのが困難になる気がしないでもないと言う。だが、この作品が携帯で書かれたという雰囲気はない。
 作者は携帯でも文章を書くことができる現代人だが、古い文化に郷愁を持つ生粋の日本人でもあり、作品は平安に思いを馳せた文章論でもある。