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  そこつ研修医 研ちゃん
                           曽田依世                   
                                                                                   平成19年4月19日付け 島根日日新聞掲載

 研修医の研ちゃんは、困っている。
 毎日困っている。

 事例一
 研ちゃんの目の前にあるストレッチャーには、五十歳くらいの男性が横たえられています。
 男性は、息をしていないように見えました。既に死んでいるかもしれません。
「もし……もーし。仏さーん」
 研ちゃんは仏さんのように見える男に向かって呼びかけました。仏さんと言われたせいか、男はしぶしぶと返事をしました。
「何か、用事か?」
 研ちゃんは、びっくり仰天して、次の言葉を探しました。しかし、研修医らしく驚きの表情を出さないように、ありったけの力で、にこやか顔を保ちます。
 研ちゃんの眉毛は、八時二十分の方向にまで落ち込んでいました。仕方がないのです。経験不足のために……というより、若気の至りと言うしかありません。笑いが引き攣っていました。
 途方にくれて病室の中で立ちつくす研ちゃんの姿が、影のように見えます。研ちゃんは、ふと、部屋の窓から庭を見ました。赤いベンツが止まっていました。ベンツを目の端に入れながら、研ちゃんはやっと次の言葉を思いつきました。
「なぜ、肺癌になったと思いますか?」
 無分別さが、突然、口を開かせたのです。仏さんの顔が研ちゃん以上に引き攣りました。経験不足な研修医の浅はかさです。癌という言葉を口に乗せてしまったのです。
「タバコの吸いすぎさ」
 いつもの表情に戻った仏さんは、ぶすっとした顔で答えました。
「今までに、どのくらいの量を吸ったのです?」
 研ちゃんは成り行きに任せようと、言葉を続けました。
「そりゃ、ベンツが買えるほどのタバコ代は使っとらあ」
 仏さんは何の苦もなく答えました。会話が流れるようになったせいか、研ちゃんの困惑気味な表情は消えました。
「そういえば、外にベンツが止まっていますね?」
 窓の外に目を遣りながら、研ちゃんは続けます。
「タバコを買う代金で、ベンツが買えたのに、惜しかったですねえ……」
「赤いベンツか。ありゃあ、俺の車さ」
 自信満々の答です。赤いベンツの所有者は、ここに居たのでした。
 仏さんは、ベンツと肺癌の両方を買ったのです。生と死とは隣りあわせ。でも、死んでしまったらベンツは運転できません。
 ボクの仕事は病気を治すこと。だが、病気は患者の気力無しには治らないんだ、と研ちゃんは仏さんに聞こえないように呟きました。

事例二
 交通事故に遭い、大怪我をした強さん。
 やっと、集中治療室から個室へ移れるほどに体力を回復しました。体には、まだ七本もの管を付けています。管の先端は強さんの喉元や手足に針で突き刺さっています。研ちゃんは、検温に行くたびに強さんに話しかけます。
「痛くないですか」
 研ちゃんは、強さんと話をするのが苦手でした。強さんが、ぶっきら棒な返事をするからです。
「ない」
 強さんは、研ちゃんを見ません。いつも怒ったような顔をしていて、視線をまったく合わせないのです。体に突き刺さっている管が痛々しい様子の強さんに向かって、心の中で話しかけるのが精一杯です。それも恐るおそると。針が刺さっているところの皮膚は、すべて鬱血しています。
「相当に、鬱血していますね」
「……」
「針のところもだけど、どこもかしこも血が固まってますねえ」
 研ちゃんは、看護師に頼みました。強さんの針の先を別の場所に刺しかえてはどうかと……。
 頷いた看護師は、強さんの衣服を手際よく脱がしました。なぜなら、針の刺し替えの時は真っ裸でないと出来ないからです。
 まっ裸の強さんを初めて見た研ちゃんは、ぶったまげました。
 二の腕から背中一面、それに臀部まで彫り込まれた不動明王の倶利迦羅紋紋が見えたからです。見事な彫り物でした。鬱血だと思ったのは刺青だったのです。
「おい、若いの」
 強さんは怒鳴りました。
「俺の体が太るように、点滴の管を一本増やしやがれ」
 栄養剤の点滴を増やせと要求しているのです。
「このままじゃ、体が干し柿みたいじゃあねえか」
 太ったら強さんは今よりも、もっと強そうに、怖そうに見えるに違いありません。ビビった研ちゃんは、叫びました。
「強さん、愛してまっせ!」
 強さんは、ニヤリとして言いました。
「オマエ、アホか!」
 治りたいと思ったらしいのです。強さんの本心はわかりませんが……。

◇作品を読んで

作者は、研修医の研ちゃんが出会った患者のようすを二つの事例にして書いた。「事例」という小見出しと構成がユニークで、意表を突かれる。
 事例一の煙草の吸い過ぎが、赤いベンツと比較されている着想は面白い。メルセデスベンツは安いものでも数百万円、最高級車になると二千万円近い。落差を意識して書かれたものかもしれない。
 事例二は鬱血が刺青であったという話で、これも独創的である。
 作者は、こういう題材をどこから探したり、思い付いたりするのだろう。
 小説というのは、社会を背景にして人間を書くものである。人間に対する興味がなかったら物語は生まれない。