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  怪我の功名
                           穂波美央                   
                                                                                   平成19年4月26日付け 島根日日新聞掲載

「あっ、しまった!」
 右足の踵に激痛が走った。
 玄関の浜床で滑り、四十五糎くらいの高さから踵を突いて落ちたのだ。捻挫ではない。経験からとっさに骨折だと知った。
 正月に帰省予定の三ヶ月になる孫のおむつ替えの際、寒くないようにと回転式の電気ストーブを用意しようと思った。業者にカタログを持ってきてもらい、帰られた直後、玄関の灯を消そうとした時の出来事だった。 
 年の暮れ、十八日の夕方六時頃。もう外は真っ暗である。
 痛くて、歩けなくなっていた。這って居間まで行き、冷蔵庫から氷を出してビニール袋に詰めて踵を冷やした。右足を出して炬燵に当たり、横になる。数時間が経った。何の変わりもない。こうしては居られぬと、何をどうしたのか覚えぬまま寝床に入り込む。だが、痛みのために朝まで一睡も出来なかった。後で思えば、誰かに頼んで救急病院へ駆け込めばよかったのだ。そのことに気が付かぬまま明けるのを待ち、近くに住む、亡夫の従兄弟に頼んで病院へ連れて行ってもらった。
 即日入院となり、取り敢えず近所や知人には一週間くらいの入院だと告げる。一時帰宅して、聞きつけて来てくれた友人二人に荷物をまとめる手伝いをしてもらい、急遽、折り返して病院へ向かった。
 独り身の辛さをしみじみと感じ、人の好意が殊の外有り難く思われた。
 病室は四人部屋で、窓際のベットを選んで落ち着いた。向かいのベットには七十歳くらいの人が居られた。挨拶を済ますと、そのAさんという女性は、もう二ヶ月も入院しているのだと言い、何かと親切に教えて下さる。何しろ、入院は四十年前のお産の時以来である。
 病院は新しく、明るくてきれいだった。テレビ台も設けられている。こぢんまりとしたキャビネットには大小の引き出しもあり、用途によって使い分けられるし、後ろの方には服も掛けられるように衣紋掛けも用意されていた。下の方には、棚が二段もあり、持ち込んだ荷物はそれぞれ仕分けして収納できた。
 キャビネットは、移動出来るように車輪が付いているので簡単に動く。ベットと共にゴロゴロと、いつでも手間をかけずに寝たままでも部屋を移ることができる。手術の時は個室に移され、また元の部屋に帰る時も、ベットとキャビネットの移動だけで済んだのだった。
 入院の先輩であるAさんは、左膝の手術と右足の小指に針金を入れるのと同時に行われたので歩けない。随分、難儀をしたことや、今はやっと杖を突いて歩けるようになったが、片足に針金が入れてあるせいで、靴が履けず、ソックスを重ねて脱ぎ履きして歩いている話などをされた。
 また、自分は三十歳あまりの時、三十四歳の夫と死別し、二人の子を育てるのに雇女の職に就き、たまたま若い時から結核療養を十数年重ねてきた独身の実姉に子どもを托し、必死に働いたとも言われた。察するところ、努力を重ねて、ひとかどの芸や持て成す技能にも優れ、地位の高い人の前でも気配りの出来る誇りと自信を持って働いておられた様子が感じ取れる。
 絨毯の上を草履で歩き回り、座ったり立ったりの労働は腰や膝を傷め、膝の軟骨はぼろぼろになってしまったのだとも話された。
 それに加えて、腰も神経痛に伴う痛みを抱えていて、いずれは手術もせねばならないが、今のところは定期的に注射をして騙し騙しで痛みを和らげているのだと、職業病の辛さを語られた。
 その上に、体には重大な負を抱えていると話される。下の子どもを帝王切開でお産をした時の輸血が原因で、C型肝炎から肝硬変になったと事も無げに言われる。もちろん、インターフェロンの治療も受けたが、その時には薬効は認められなかった。だが、今頃になって効能が現れたのか、病状は進まなくなり検査の結果もよいそうだ。
 そこまで聞いて、遠からず先に来るものを察すると、驚きを絶する思いであった。
 それでもAさんは無類に明るく親切で、私の乗る車椅子を食堂まで押して下さる。杖を突いて歩くより車を押すのが楽なのだと、私に気を揉ませまいとする気遣いもして下さる。お陰で車輪を回す負担がないのでありがたかった。
 怪我をした踵はギブスではなく、包帯が巻いてあるだけだった。そのまま六週間は踵を突いては絶対にいけないと言われ、車椅子による移動のみとなった。
 当初は、一週間くらいの入院だと言っていた非常識さを思い知らされた。それでもまだお正月は、家に帰りたいと頼み込む始末である。次男の家族が帰省するので、一人暮らしではないのだとしつこく訴え続けた。先生は、面と向かって「いけない」と、強くは言われない。かと言ってOKは、なかなか出されなかった。それも患者を傷付けない気配りであったことを、後になって知るのだが、その意を解せぬまま、こちらが根負けして諦めた時、看護師さんからすかさず「では、正月は外泊は無しということにしましょう」と強く引導を渡されて愕然とした。
 そうではあったが、元旦の食事は淋しくないように、家庭と同じお雑煮で、おせち料理や鯛や海老の豪華なご馳走で、正月のメーセージも付け加えられていた。患者さんも殆ど帰られるものと思っていたにも拘わらず、意外と仲間の多いことに安堵した。だが部屋は私一人で、隣も八十歳余の女性だけだった。
 そのうち病棟で、耳を疑うような、すずやかな若い女性の歌声が聞こえてくるではないか。どうして? と不思議に思えて看護師さんに尋ねてみると、何と隣の部屋にいる背の低いおばあちゃんだった。姿と声があまりに似ても似つかないのにびっくりしたが、反面嬉しくなった。
 食堂で声をかけて褒め称えると、老人会のコーラス部で歌っているのだと言われる。私にも入会しないかと、誘われる始末。その人は、後で分かったのだが、若い時には幼稚園の先生だったのだ。
 ある日、見舞いに来られた友人と、六十五年も昔にタイムスリップして懐かしそうに、○○ちゃんとお互いに呼び合っておられたことがある。
 大晦日の紅白歌合戦を見ていると、隣の部屋から歌声がする。思わずテレビのイヤホーンを外して聞き惚れたくらだ。
 そんなことがあって親しくなり、話してみると世間は広いようで狭い。共通の知人の話にも花が咲いたりもして、思わぬ出会いに感動した。
 正月も三ヶ日を過ぎると、元の病棟の雰囲気が戻ってきた。日課であるリハビリも入院中の行事の一つであった。比較的若い男と女の理学療法士さん達の指導は、優しかった。和らいだ口調で、老人を相手に手厚く施療してくださるのに癒されるのを覚えた。
 入院生活二ヶ月間は、老後の自分の姿を考えさせられ、また、思い知らされる良い経験だった。
 何と言っても、痴呆が一番怖ろしい。そんな人達も入院しているのだ。「助けて!」とか「先生!」などと叫んでいる人、猫が啼くような声をして、夜中でも看護師さんを呼び続ける人などがいる。皆、救いを求めて訴えているのだろうが、あんな姿にはなりたくないとつくづく思った。
 食事をするにも嚥下が難しくなり、どろどろになった澱粉のようなものをスプーンで口に入れてもらう人、口の周りを汚しながら必死に食べる人――哀れである。
 昨日まで食堂に出ておられた姿が、翌日から見えなかったりして消息は不明のままだ。そんな有様にならないという保障はないのだから、自ずと老いの先に、不安が走る。
 福祉関係の手続きなどについても、お世話になった。ケースワーカーさんから介護保険の話を聞かされ、たまたま見舞いのために帰省していた長男と打ち合わせをし、申請をしてくださった。査定の時は、車椅子で片足が地に着けない状態だったので、要介護Tと認定された。
 自宅の改装を手掛けてもらう準備のために、福祉の安心支援センターからのケアマネージャーさん、リハビリの先生、看護師さん達の協力を得て住宅の調査をしてもらった。
 段差を無くす改修や手摺りの設置などの恩典を受けることが出来たことは何よりありがたかった。その上、介護用品として風呂場の椅子や浴槽の手摺りなどを付けてもらい、安全に入浴できる。定められた金額内ではあるが補助金が支給され、気安く工事をしてもらえ、退院後の生活も守られることになった。
 さらにホームヘルパーさんの支援も受けることが出来て、遠くで生活している子ども達が一人暮らしの親の心配をすることもなく、安心して過ごせる福祉の恩典に感謝したのである。
 この度の怪我によって取り計らってもらうことが出来た数々のことを、これからの生活に生かし、それに報いるような毎日を送りたいと思う。
 改装された自宅の窓から、春の野の息吹を胸いっぱいに引き寄せて深呼吸をしたのは、三ヶ月後のことであった。

◇作品を読んで

 作者は、年末に思ってもみなかった怪我をした。踵骨の骨折だった。やむなく入院することになった。病院は治療の場であると同時に、作者にとっては生活の場にもなる。約三か月におよぶ治療の経過と、病院の中での人間模様が描かれている。 
 最初は大変な怪我をして災難だと思っていたが、いろいろな人達と知り合い、今後の方向付けもできた。タイトルにあるとおり、怪我の功名として作者は禍を福に転じようと考えたのである。
 退院してすぐに、この作品は書かれた。原稿用紙にして約十枚である。入院中、作者は「書く目でものを見る」ということを考えておられたのではないだろうか。「書く目」ということは、言葉を意識することでもある。