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  岩 塩
                         森 マコ                   
                                                                                   平成19年7月26日付け 島根日日新聞掲載

 近所の花屋から、バーゲン案内の葉書が届いた。
 今年の梅雨は、だらだらと長い。降るでもない、降らないでもない。きっとカタツムリなぞは、蒸し暑いだけでいい迷惑だろう。そのうえに、毎日、湿って黴の生えた布団のような雲が、空に蓋をしているのだ。気が重くなる。太陽は顔も見せない。カタツムリでなくとも、気が滅入ってくるのだ。
 案内の葉書を持って、早速花屋に出かけた。
 花屋も灰色のベールをかぶっている。花たちがしょんぼりしているのだ。
 値札に、赤色の大きいバツ印と、値引き後の値段が書かれているのが見えた。
 可愛そうに、うなだれた花たち……。間違えたテスト用紙を母親に見せる、子供のしょぼくれた顔のよう。
 だが花には興味がない。花の横をさっさと通過して、ある物のコーナーに直行した。花のほかに癒しグッズ≠ニ皆が呼んでいる、ある物を売っている。いかにも花屋らしく、とても気に入っている。
 店員の香緒里ちゃんが、「マコチャン、いらっしゃいませ」と言ったかどうだか、声は聞き取れなかった。
 あった。私の欲しかった物が。
 しかし、値引きはなかった。多少のショックを味わった後、香緒里ちゃんの居るレジに引き返した。
「香緒里ちゃん、何であそこの物は安くなってないの?」
 振り向きながら、指差した。
「あれは……、バーゲンの対象除外品なんで」
 困ったような声が返ってきた。
 そのある物は、梅雨の湿り気に溶けてしまっているのか、泣いていた。しかも、相当に溶けている。足元には小さな水溜りが出来ていた。
 ある物とは――岩塩なのだ。
 ヒマラヤ産岩塩の塊で十キロくらいの重さがありそうだ。ゴツゴツしていて、オニキスの上に乗せられて、ボルトで固定されている。重いから倒れないように留めてある。見る方向によっては、タワーのような円柱形の部分もある。女の人が立っているようにも見える。薄桃色の半透明で光が当たっていなくても、仄かに発光しているような温かみを持つ石なのだ。
 岩塩は、海底の地殻変動によって隆起して海水が封じ込められ、水分が蒸発して凝縮してできた塩の石である。一キログラムが約千円する。
 私の欲しかった岩塩は、一万円の値段がついていた。
「香緒里ちゃん、安くしてよ」
 湿気のために溶けているから、重さも減っているはず。そう思ったので問い掛けてみた。いや頼んだのだ。
 香緒里ちゃんがレジの奥に引っ込み、経営者さんが出て来た。実は、二十年来の知り合いで、私を好いていてくれている。自分だけそう思っているのかもしれないが。
「あら、いらっしゃい。」
 経営者に頼んだ。一心に集中した声で……。
「あの岩塩の女神様は、泣いているように見えるわ。私の家に行きたいと言っているみたいです」
 一万円を値切ろうとしている様子を見せないように、私は言葉を選んだ。
「マコちゃん、いいわ。八千円で売ります」
 こうして岩塩を手に入れたのだ。でも重い。抱えて家に持って帰り、量ってみたら十一キロもあった。
 岩塩はベランダに干してある。
 梅雨は続く。そのせいで、岩塩は相変わらず泣くのである。
 でも、私の気分は晴れやかだ。岩塩が私の代わりに泣いてくれるのだから……。

◇作品を読んで

 豊かな言葉と表現が溢れている。「黴の生えた布団のような雲が、空に蓋をしている」、「花屋も灰色のベールをかぶっている」、「間違えたテスト用紙を母親に見せる、子供のしょぼくれた顔」、「梅雨が続くなかで岩塩が泣く」などがそうである。
 作者は何か気の重いことがあったのか、岩塩の涙を見て、「私の代わりに泣いている」と気持ちを切り替える。作品の読み手も「あ、よかった」と思うのではないだろうか。
 ヒマラヤの岩塩は、三億五千万年前の天然の塩だと聞いた。壮大な年月を経た地球からの贈り物であり、食品や工業原料、彫刻素材やシャンデリア材料などにも利用される。