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   終の岩室
                         金森 真人                   
                                                                                   平成19年9月25日付け 島根日日新聞掲載

 月日が経つというのは、何と早いものでございましょう。わたくしは七十を超える歳になっております。あなた様のように、まだ若かった二十ばかりの頃、五十、六十などというのは、遙かに遠い遠い、先のことでございました。もともとわたくしは、いえ、誰もがそうでありますように、そんな歳になるなぞと思いもしなかったのでございます。
 じいさんと二人で暮らしておりますが、哀しいことは幾たびかございました。ずたずたに心を引き裂かれるような気持ちになったことが――。ですが、長い刻が過ぎてしまいますれば、それは何でもないことのように思えてしまうようになったのでございます。古くから流れております斐伊川が、何もなかったような顔をしているのと同じで、それこそ水に流してしまうようなことなのでございましょう。はあ? じいさんですか? ちょっと用事がありまして、さきほど出かけたのでございます。
 ところで、この夜更け、若い女のあなた様は、どうしてこのようなむさ苦しい宿屋にお出でになりましたんですか? はあ? 道に迷われたんでございますか。奥出雲のこの辺りは地元のもんでも、夜になると、道が分からなくなるんでございますよ。不思議な処でございますね。
 土地の名が知りたい? ああ、そうですか、ここは仁多郡の岩室村と言うんでございます。どうして、そんな名がついたとおっしゃるんで? お聞きにならないほうがいいとは思うんでございますが――。はあ? どうしても知りたい……。
 仕方がございません。お教えいたしましょう。実は、ここから四半刻、いえ、そんなにかかりません。北へ向かって歩きますと、終の岩室という処がございます。それは何かと、おっしゃるんでございますか。お聞きにならないほうが……。どうしても? 致し方ございません。お話しいたします。
 終の岩室に入ったもんは、二度と出てこんと言われておりまして……。いえ、奥出雲の山の中には、深い洞窟がなんぼでもございます。あちこち入り組んで入りこんだら迷ってしまい、出られなくなる洞窟なら二十ばかりもございます。ですが、終の岩室は、そんなんじゃございません。奥行きは、三間(さんげん)ばかりで、枝葉の穴はないと言われておるんでございます。え? 言われておるということは、お前は知らないのかとおっしゃるんで……。それはそうでございます。なにせ、入ったもんが一人残らず出てこないんでございますからね。もちろん、わたくしは入ったことがありませんですが、ちょっと覗けば行き止まりというのは分かるんでございます。ですが、入ったら最後、煙のように消えて無くなるそうでございますよ。
 神隠しか? と、今おっしゃいましたか? いえ、違うんでございます。神隠しにあった者は、この奥出雲の山の中に棲む天狗が異界へ連れ去るんだと言われておりますが、それでも、帰らなかった者と、無事に帰ってきた者とがございます。
 ええ、昔は神隠しの岩室と言っておったそうでございますが、面白半分に入ったもんが、誰も出てこんということが分かるようになりましてからは、終の岩室と言うようになったんでございます。ええ、終というのは、死ぬことでございます。村の名も、それからで。
 世の中は不思議なものでございまして、面白半分ではなくて、そこで消えたいという人も数多い中にはございましてね。
 はあ? あなた様は、そのほうだと? そうでございますか。男とのいざこざがあって、死にたいと――。首を吊るのは苦しいもんでございましょう。海に飛び込めば、息が止まるまでは生きておりますから、これもまた業苦でございましょう。
 終の岩室はどうして人を呑み込むのか、わたくしはとんと知りませんですが、おおかた溶けるように消えるんでございましょう。あとくされがなくて、楽でございますかね。
 それにしても、あなた様は、若くてお綺麗で、いずれ又いい男と乳繰り合うこともございましょうに。やはり、どうしても? ええ、わたくしは止めるなどと野暮なことはいたしません。今から行く? はあ、どうぞどうぞ。えっ? お持ちのお金を全部置いておくから、これで供養をしてほしいとおっしゃいましたか? ええ、よろしゅうございます。終の岩室は、すぐそこでございます。
 
 これで何人目じゃろう。じいさんが仕事を終えて戻るまでに、酒の燗を……。

◇作品を読んで

 芥川作品のなかには、古典文学、なかでも王朝物作品のほとんどが、たとえば『羅生門』などは『今昔物語集』から題材を得ている。小泉八雲は、妻セツから聞いた伝説、幽霊話などを再話し、情緒豊かな文学作品に仕立て上げた。
 題材がなくて書けないということをよく聞くが、どこの地域にもある伝説、怪異譚のようなものを咀嚼してみることはどうだろう。文章修業の一つに、いろいろな分野のものを書いてみるという方法があることからすれば、どこにでもありそうな言い伝えをもとにして書かれたこの作品は、まさにそういうことなのである。
最後の空白行のあとの二行は、その有無によって、物語の風景が変わる。どちらがよいのだろう。