TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

   取材日記 
                            中原 保幸                   
                                                                                   平成19年11月1日・8日付け 島根日日新聞掲載

 平成十九年十月上旬――。
 会社の休暇予定が重なって発生した五連休を利用し、私は新潟、東京を自家用車で旅してみた。小説の執筆に行き詰まり、筆が止まってしまったため、取材を兼ねて旅行に出掛けたのである。
 周囲の驚きようと言ったら、想像を絶するものであった。ある人は今回の私の行動を、
「暴挙だ」
 と罵り、またある人は憮然とした面持ちで、
「常軌を逸している」
 と吐き捨てた。
 突拍子もなく駆け足で走り抜けた今回の旅だが、短時間で手に入れた数少ない貴重な取材結果は大きな収穫となった。

 島根日日新聞社発行の『季刊山陰』誌で、私は二編の小説を掲載することにしている。『砂の上のラブソング』、『片羽根の金糸雀』というお話である。
『砂の上のラブソング』は鳥取県中部に実在し、私が実際に暮らす街、《倉吉市》を舞台に、カメラ店を経営しながらアマチュアカメラマンとして活動する主人公の青年と、偶然、彼の店に現れたうら若き女性との出会いと恋を描いた純愛物語である。だが、下準備を億劫がり、おろそかにしてしまった結果、致命的な欠陥に遭遇した。
 女性が一体どこの誰なのかを紐解く最初のヒントに、或る持ち物を使ったのだが、これが今のご時世に合わない時代遅れの代物だと、執筆中に気が付いた。途端に筆が止まり、代用品をどうするか、対策に追われることになったのである。
 女性の人物像も重要な要素だ。本作にふさわしい、チャーミングでコケティッシュな雰囲気を醸し出す、誰にでも愛されるようなヒロインを創出しなくてはいけない。
 ふっくらとした丸みのある花弁に雨水の雫を滴らせ、赤いルージュよりもさらに強い色味と艶を放つ深紅の薔薇のような気品。
 と同時に、人前に姿を見せても傲り高ぶることなく謙虚に花をつける白百合の花のような可憐さを連想していただきたい。人の性格は平板的に書けないのだから、一見すると両極端に見えるぐらいの人物設定をした方が、読み手の想像力と驚きを喚起するのに適している気がするのだ。
 ただし、一方的な女性の解釈はややもすると、作者のご都合主義に陥りかねない。
 そこで私は、一人の女優に注目した。
 他者の追随を許さず、異彩を放って亜熱帯の大地に咲き誇るハイビスカスのような佇まい。
 五枚の花弁はまだあどけなさを残す乙女が、大人の女性へと変貌するために初めて施した朱色の紅にも似て、私の心を強く引きつけてやまない。彼女の上品な立ち居振る舞いは、この不浄な大地を清めるため天上の世界より舞い降りた、金色の眩い後光を放つ神々しい天女にも見えた。
 おそらく、その名を聞いても多くの人々は小首を傾げて終わることだろう。また、中傷的な物の見方で私を訝しむに違いない。 
驚かれるとは思うが、彼女はAV女優である。ただし、他にも映画やVシネ、テレビのバラエティ番組などにも出演し、精力的に活動しているすばらしい女性だ。
 私より六つも年下なのに、その頑張り具合といったら脱帽もので、見習うべき点がたくさんあり、いつも感心させられる。
 つい先日も、島根県東部から鳥取県西部にかけて営業している同系列のビデオレンタル店八店舗に来店し、二日間で回りきるという殺人的なスケジュールにも関わらず、疲れた表情など一切感じさせることなく笑顔でこなしていた。
 これにはもう、深く感謝の念を示し、敬意を表すしかない。
 私のような、ほんの少し前に物書きを始めたばかりの思慮の浅い駆け出し者とは雲泥の差だ。
 実は『砂の上のラブソング』のヒロインを描写していく上で、絶対に外すことのできない要素が彼女の中に存在している。
 芸能界と呼ばれる世界に身を置く人々は、一体どんな人となりをしているのか?
 それにはフィクションや想像ではなく、実際に会って言葉を交わすのが一番の近道である。
率直な感想として、まさに『百聞は一見にしかず』だった。
安易な言い回しだが、私たちにはない独特なオーラがある。
 毎週末ごとに、全国各地で来店イベントが催され、彼女もスタッフも忙しく様々な地域を飛び回っている。私の個人的な見解になるが、ファンサービス的な色合いを感じるイベントにおいて、当日集まった参加者一人一人の言葉に耳を傾け、どんなに他愛ない事柄であっても聞き流したり、受け流すことはない。
 彼女の実直な姿勢は、何百年もの歴史を重ねた由緒正しい寺院の、奥ゆかしい梵鐘の音色にも似ている。その鐘の音は、森の奥深くにひっそりと湧き出でる清らかに澄んだ源泉に、水の一滴が落ちたときに広がる波紋と同じく、私の狭小な心にゆっくりと浸透していった。
「ああ、これだ!」
 私は雷で打たれたような衝撃を覚えた。
 これで魅力的なヒロインを描写できると確信した。その成果は是非、作品本編を手に取りじっくりと確認して頂きたい。

 冒頭に話を戻し、私が新潟に赴いた理由を書こうと思う。
 五連休のうち三日間を潰してまで新潟に走ったのは、彼女のイベントが新潟県の南魚沼市で行われていたためである。実のところ、私的な事情でイベントへの参加をここで一旦打ち止めにするつもりだった。今年の六月上旬に鳥取市の某ビデオショップで初参加したイベントから数えると、ほぼ月一回ペースで四度目の参加になる。
 前回で書いた『同系列の某ビデオレンタルショップ八店舗巡り』の告知は、この南魚沼の会場で彼女とそのマネージャー氏にこっそりと教えられた。事前にどこの店で開催するか告知しない形式のゲリライベントで、彼女のブログにも来店前日まで情報が上がらなかった。
 まさに寝耳に水、私が腰砕けしたのは言うまでもない。
 そうは言いつつ、予告のあった当日の島根・鳥取イベントにはしっかり参加したのだが。

 さて、新潟でのイベントを終えた私が次に目指した場所、それは……。

――東京だった。
 
 私が無茶なことに二本立てで始めたもう一つのお話、『片羽根の金糸雀』は、詳細に設定してはいないものの東京を舞台にしているので、空気感を掴むためにも足を運ぶ必要があった。
 物語にリアリティーが出るし、嘘くささがなくなる。《行かず東京》で執筆などしたら、街が持っている雰囲気を描写することなど到底できない。
 思い立ったら即行動に移してしまうのが私の悪いくせで、初めは私自身でも懐疑的だったのに、悪乗りと助平根性から本当に東京へ走ってしまった。
 関越自動車道を南下すること三時間、首都高速に乗り換えて池袋で降りた。巣鴨、本郷の順に通過し、浅草へ到着、旅の拠点とした。
 不夜城とはよく言ったものである。夜も更けたというのに、煌々と七色のネオンが常闇の空を染め上げている。星のない夜空とは言い得て妙だった。通りを行き交う人の流れは途絶えることがなく、私が普段暮らす倉吉の街との違いをまざまざと見せつけられた。
 ここで一つ手違いが起きた。携帯電話のナビゲーションにカプセルホテルへのルート案内をさせたところ、カプセルホテルではない宿泊施設に私を導いてくれた。二階、三階は何とストリップ劇場になっていて、一瞬甘ったるい誘惑に負けそうになったが、邪念を振り切って四階のフロントへ向かった。
「エライ所に来てしまった……」
 最上階の六階にある畳部屋の個室に案内されたとき、体中に寒気が走った。
 泊まる場所といっても毛布も布団もない。一畳もない部屋の奥に、テレビとDVD付きビデオデッキがテレビ台上に据え付けられ、意味深にティッシュペーパーの箱が置いてある。部屋の中央にはテレビに向かい合う形で縹色の座椅子が用意されていた。
 備品の配置から瞬時に察した。
「ここは、宿泊所じゃない!」
 私自身の場違い加減に呆然とした。
 ビデオ鑑賞のオプションを丁重に断り、長旅の疲れを癒すべく座椅子の腰掛けを枕代わりに眠りについた。
 朝を迎えるまでのわずかな時間、私は浅い夢の中で関越道の途中、休憩を取った埼玉県内の《嵐山サービスエリア》で出会った、小さなお子さんを連れた親御さんとの出来事を思い出していた。
 小腹が空いて、食堂で飛騨ラーメン定食に舌鼓を打っていた私は、右側から妙な視線を感じた。何気なく目を向けると、男の子が私の顔を威嚇するでもなく笑うでもなく、ただ凝然と見つめている。
 反射的に冷や汗をかいた。
「何か悪いことしたっけ?」
 やや重苦しい空気を感じながら過ごしていると、親御さんとも目が合った。
「僕の顔に何か付いてますかねぇ?」
 私の問いかけに、男の子の両親はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
 最近小さな子供と目が合うと、何もしてないのに親御さんの脚の陰に隠れられたり、急に泣き出したり、と散々な思いをしていた。
 男の子とそのご両親の仲睦まじい姿を横目に見て微笑ましく感じ、私の心は不思議と和らいでいった。
 家族同士の会話の中で交わされる屈託のない笑顔。当たり前で、平凡で、在り来たりで、どこにでも見られそうな光景にもかかわらず、誰もがその恩恵を受けているわけではないんだと、もう一人の私が耳元で小さく囁く。
 家庭内暴力が原因で、生傷が絶えない家族もある。諸般の事情で母子家庭、父子家庭にならざるを得なかった家族もある。家族間で意思の疎通がはかれず、崩壊した家族もある。
 挙げれば枚挙に暇もないが、誰もが幸福な家庭環境の中で大人になっていくわけではないのだ。
あの親子もこの先どのように変わっていくのか、誰にも分からない。
 日の光が射し込むことのない密閉された部屋で朝を迎えた私は、ついさっきまで見ていたこの夢を振り返ってみて何となく、『片羽根の金糸雀』で取り組もうとしているテーマと徐々に重なっていく気がした。
『砂の上のラブソング』とは違い、『片羽根の金糸雀』は家族や人間関係、現代社会そのものを、二十歳過ぎの若い女の子の視点を通して痛烈に描き出せないかと思案する中で発想が生まれた。
 内容の詳細をとやかく言うのは止めておこう。読者の皆さんそれぞれの感性に委ねたい。
 半ば投げやりな物言いをお詫びしつつ、近いうち店頭に並ぶ文芸誌『季刊山陰』を是非、手に取っていただきたい。

◇作品を読んで

 書かれているように、作者は鳥取県倉吉市の人であり、松江での文学教室にはるばる車を走らせて参加される。仕事の都合で、時折、徹夜明けの時もある。熱心なこと、この上ない。なぜ、教室に? と聞けば、小説が書いてみたいと言われる。それは『砂の上のラブソング』、『片羽根の金糸雀』という二つの作品であり、同時進行で書き始められた。
「取材日記」というタイトルで書かれたこの作品は、小説の発想や資料を求めて、遠く新潟や東京へ軽自動車を走らせた記録でもあり、期せずして出会ったエピソードも面白い。