TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

   母の謎 
                            I見 優                   
                                                                                   平成19年11月15日付け 島根日日新聞掲載

 私は、特に演劇ファンというわけではなかった。どちらかと言えば、付き合いで松江市民劇場例会の会員となった。ところが、一年前から文学教室で物書きを始めてみると、文章を書く上からも共通点のあることに気付いた。設定、表現や演技の仕方など、今まで気に留めていなかったことに興味が持てるようになった。
 今年の九月、『令嬢ジュリー』の公演があった。十九世紀末のスエーデンで、民主主義の思想による自由と解放が求められ、伝統的な貴族社会の特権は後退した激動する社会的背景の中での物語である。栗原小巻扮する伯爵令嬢ジュリーと下男ジャンに扮する清水宏治との道ならぬ恋の結末は、悲劇に終わる。
 恋する男女は、いつの世も身分、階級、立場を越えて惹かれ合うものだが、成就させ愛を貫こうとすれば、大きな困難が立ちはだかることが多い。だからこそ、物語の題材となるのだろう。
 このような悲劇に触れるとき、亡き母のことに思いを巡らす。子どもの頃には、母について知らないことが多かった。だが、詮索したり、疑問に思うこともなく過ごしてきた。
 母は大正四年、隠岐の島の資産家に生まれ、なぜ家柄の違う貧しい網元の父と結婚したのだろうか。母の死後三十年も経つというのに、疑問に思う。
 令嬢ジュリーと下男ジャンのような激しいロマンがあった訳でもなく、舅に当たる祖父は、家柄の違いからこの縁談を再三断わったと聞く。
 母は、娘時代を大阪で暮らしていた。その間、一度嫁いでいる。だが、突然、単身で実家に帰ってきた。大阪の暮らしについて、母が語ることは無かった。戦前の不穏な社会情勢に不安を抱いたのか、それとも根性の無かった母は嫁ぎ先の厳格な家風に耐えられなかったのか……。母の写真は沢山あり、その中に豪華な結婚式の写真を見たことがあったので、そう思ってきた。
 田舎では、結婚に失敗し、実家に帰った女性を出戻りと言っていた。本人も家族も世間体が悪く、肩身の狭い思いであったことは想像にかたくない。
 出戻りとはいえ、条件の良い再婚話もあったのに、風采の上がらぬ酒好きでお人好しの父のどこに惹かれたのだろう。自分とは逆のタイプに、興味を抱いたのだろうか。
 娘の目から見ても、決して仲の良い夫婦とは言えず、酒好きな父に閉口し、手を焼いているように見えた。そのような父を、私も毛嫌いしていた。
 母は、六十歳を前にして病死した。死後三年間、父は一滴の酒も受けつけないほどのダメージを受けていた。愚痴は言わなかったが、母の若き日の写真を引き伸ばして額に入れ、部屋中に飾り立てたりもしていた。
 人を愛する術(すべ)を知らなかったように見えた父が、心の奥に深い愛を秘めていたのだろうかと思わせられた。
 母は、田舎のおばさんではあったが、今にして思えば少しばかり違っていたかと思うことが幾つかある。嫁入りの時に持参した大きな桐ダンスは、我が家には不釣合いな物であり、びっしりと沢山の着物が詰まっていた。若い頃の母は、衣装道楽だったと思っていた。
 当時、村では若者達が青年団を結成していた。娯楽の少ない時代であったので青年団が中心になり、歌や踊り、芝居などが盛んに行なわれていた。その衣装を母のところによく借りに来ていた。
 衣装道楽の名残りからか、私の服装にはこだわりがあって、流行の物を身につけさせ、学生服は特別注文で仕立てさせた。裕福でもなかったのに、どこかのご令嬢と間違えられそうな服装だった。
 その頃、学校の保護者会というと、終了後は飲み会が持たれていた。教育熱心ではなく、飲酒を目的に父親が出席することが多かった。ある先生は、父と私のことを鳶が鷹を生んだ≠ニ酒席で言い、それを耳にした私は、子ども心にひどく傷ついてしまった。母は意外にも抗議を申し入れたらしく、当の先生がわざわざ謝罪に来られた。飲兵衛の父が原因であったが、他人に侮辱されることには、とても敏感な母と娘であり、変なプライドがあったのだと思う。
 母が、昭和四十年に大阪大学付属病院で乳癌の手術を受けたときのことである。既に関西方面で看護婦として働いていた私の便宜を計らい、隠岐の医師は、知人である、その院長宛に紹介状を送った。
 紹介患者である上に、私が同業者であることから破格の処遇を受けることになった。秘書付きの院長室で、いつも丁寧な説明を受け、コーヒーやケーキまで頂いた。手厚い待遇の中で母は治療を受けていたが、意外にも何ら臆すること無く、毅然とした態度であった。
 娘の目から見ると礼儀知らずなのか、いやそうでも無さそう……。内心ドキドキしながら一体、この母は何者かと驚いてしまった。
 職業柄、患者さんやその家族というのは、医師の前では、必要以上に低姿勢になる場合が多いことを知っていたからである。
 あの時、娘時代を過ごした大阪の地は、母の目にどう映っていたのだろうか。多くを語らず、謎を残したまま八年後に短い生涯を終えた。どのような思いであったのだろう。聞きたかった、知りたかったこともあったのに、もう少し長生きをしてくれていたら親孝行もできたのに、残念である。かといって、アルコール依存症に近い父との生活を想像すると、とても母は耐えられなかったのではないか。
 早く逝った母を可哀相に思ってきたが、今ではこれで良かったのだと考えている。
 父は、母より三十余年も長生きをして、施設で最後をむかえた。
 これからは、母の替わりに、私が元気で幸せな晩年を過ごすことにしよう。ジョークで「母上、母上」と呼ぶ孝行息子に支えられながら……。

◇作品を読んで

 回想記だが、作者はなぜか母のことについて詳しくは知らなかった。何かあるのだろうとは思いもしたが、あえて詮索はしなかったのである。
 若い頃の大阪暮らしと離婚、再婚、そして父よりも三十年早く世を去った。言うに言われない苦労をしたことを思いながら、母の代わりに長生きをし、幸せな人生を歩みたいと考え、作者はこの作品を書いた。
 人生の歩みの幾つかを、自分に取って大事な人のことを書くことで、いつまでも残したいというのは文章を書いている者の願いである。
 記憶は曖昧であったり、忘れていることも多いが、こうして書くことで、糸を手繰り寄せるように見えてくるものがあるかもしれない。