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 主よ、あなたは何故、黙っておられるのです
                       
     三島 操子                   
                                                                                   平成19年11月29日・12月6日付け 島根日日新聞掲載

 もう小一時間、バスに揺られている。
 長崎市内から遠ざかるほどに、バスの中は静かになっていく。乗客は私を含めて三、四人ほどになってしまった。窓いっぱいに差し込む陽が眩しい。目の奥まで光の手が伸び、我慢できずにサングラスにした。速度を落としたバスは、ゆっくりとカーブを切って進む。ページを捲るように、秋の風景が用意されて行く。
 左手に白い標識がぽつんと見えた。流れる風景の中で「いとう一長の墓↓」と読めた。今年の四月、銃弾に倒れた長崎市長の名だ。矢印の方に墓があるのだろう。半年ほど前の事件なのに、ずいぶん昔の出来事のような気がする。真新しい標識が気持ちを重くさせた。
 バスは、(夕陽が丘そとめ)の停留所で止まった。
「遠藤周作文学館ですよ。この広場を真っ直ぐ進み、下に降りて下さい。そこが文学館ですから」
 運転手に促されて下車したのは、私一人だった。降りた所は、五島を望む角力灘に面した外海地区。見上げた空は、アクア色の色紙を張り付けたような表情をしている。視線の先は太陽がすべての光を抱き込んで真白だ。
 広場の標識には(道の駅・夕陽が丘そとめ)と、書いてある。大型バイクを並べ、石畳に足を投げ出した十人近い男女が、車座になり楽しそうに話している。人生半ばと見受うけられそうな人もいる。青い空のせいか、とても健康的に見える。野菜を売る人、デートを楽しむ人、修道服を着たシスターが、野菜を抱えて足早に広場を横切って行く。
 真っ直ぐ広場を突っ切ると群青色の海だ。
 遠藤周作の『沈黙』の中で、「なぜいつも沈黙したまま何もしてはくれないのですか……。」と、神に訴えた修道士ロドリコが、日本を目指して出発したポルトガルまで続いている海だ。どこまでが空で、どこが水平線になるか見分けられない。
 茫洋とした青のグラデーションと対峙するように、遠藤周作文学館はあった。
 エントランスホールに立つと、角力灘の海の色のような光が、ステンドグラスからこぼれていた。書斎コーナーには、主を失った机が置いてある。思ったより小さい机の上には、愛用の置き時計が当たり前のように動いている。生前の写真には、執筆する場所さえないほど雑然とした机に向かう遠藤周作の笑顔があり、時計は、積み上げている物の狭間からほんの少しだけ見える。
 展示室をゆっくり廻る。子供の頃、いつもお母様から誉められていた作文が展示されている。遠藤周作は勉強について「二流、三流の学校だと劣等感を感じて過ごすよりも、その学校での日々を楽しんだ方が自分のためになる」と言っている。つい「そうだ。そうだ」と、頷いてしまった。
『深い河』の創作日記を見る。
「とにかく一枚でも良い、書き出せば始まるのだ。それはわかっているのに。」と、毎日のように書けない≠ェ、続いている。登場人物の性格がメモられている日もある。
 愛欲の世界のなかでのむき出しの独占欲、エゴイズム……。私の周りにはいない女性だ。
 次の日の日記を読む。
 
 ○○夫人の着ていたもの。
 やや長めのキュロット(黒)
 長袖ブラウス(ショッキングピンク)

(若くないが、背筋を伸ばし、いつもイヤリングを忘れず、香水の似合う人)
 私の印象ではこうなってしまう。『深い河』を再読して彼女達を探してみたくなった。
イライラした感じの走り書きを見付けた。『沈黙』のように酔わせない。『侍』のように重厚になっていない。講演で入院費が作れた。と、書いた日もある。
 いつもベッドの脇に置かれていたお母様の形見のマリア像が見たくなり、順路をバックした。
 赤ペンで何回も手を入れられた原稿に、作家の過ごす重たい時間の辛さを感じる。その反面、文壇仲間からの手紙は楽しかった。乱暴な、それでいてユーモアのある手紙には顔が緩んでくる。
 二時間近くも文学館で過ごした。痺れたようになった足で、角力灘に面したテラスに出た。太陽が真上にあがったのか、空の色が海の色に近くなっている。五島灘を越え角力灘に滑り込む、遠慮がちな西北風が気持ち良い。休憩所でコーヒを飲んだら、真空になった頭を覚醒させてくれた。(つづく)
 またバスに乗る。
 午後は、二つ先の停留所で降り出津文化村≠ノ向かう。長崎市内から四十キロ離れ、切支丹禁制の時期に迫害をおそれた信者が隠れ住んだ土地で、『沈黙』の舞台になったところだ。
 慶応四年には、まだ禁教解けないこの地域に渡来した、ド・ロ神父によって信者が発見されている。貧しい暮らしの村民のために神父は、パン、マカロニ製造の授産事業、保育所、救助院、防波堤整備などを行っている。その意志が引き継がれているこの一帯は、出津文化村≠ニ呼ばれている。
 人通りのない坂を上がって行く。長崎は何処に行っても坂だ。真上に来ている太陽に、首の後ろを焼かれているのが分かる。途中から道路を逸れて、肩幅ほどの畑から畑へ行く野道のような道に降りる。案内図を見ると、ド・ロ神父が近道として歩き回っていた道だ。歴史の道として、今は草が刈られ歩きやすいように整備されている。
 百三十年前に長崎に来た神父が、四十六年間忙しく行き来した小道を歩く。
 ド・ロ神父記念館に着くと、丘の上にある修道院のシスターが観光客の相手をしていた。神父がフランスの実家から取り寄せたオルガンで賛美歌を歌ってくれる。千葉県からきた家族四人、遠藤周作文学館で一緒だったご夫婦、七人で、シスターのオルガンに合わせて賛美歌を歌った。初めて出会った者同士、お互いシスターと記念写真を撮り合い、そして別れた。
 坂の上にある出津教会に回る。入り口にある大理石の聖水入れが、歪になっていた。十字を切る数え切れないほどの指が、いつのまにか歪にしたのではなかろうか……。私も中指を浸し、十字架をきってみた。
 秋の日はせわしない。沈黙の碑を探して急ぎ足でいると、年の頃、五十代前半と見える女性に日傘をさしかけられた。修道院の横にある老人ホームでの葬儀の帰りだと言う。「百歳が近かったのに残念でした」と言う。
 入所している義母の友達なので、見送りのミサに参列しての帰りだと話してくれる。松江のこと、読んだ本のこと、信仰のこと、急ぐ足にブレーキを掛けながら坂を下りる。
 沈黙の碑は、真下に角力灘の打ち返しを聞きながら、五島灘から外海に広がる海を背に、出津教会を見上げるように立っていた。秋にしては遠慮のない陽を、日傘の人が優しく受け止めていてくれる。
「四月に亡くなられた、伊藤一長市長のお墓が外海地区にありますけど、気が付かれました? 生前、自分達の墓地をさがしておられたようですね。この外海地区の景色を見て、ここに決められたそうです。その後で、あんな事が……長崎の町は本当に静まりかえりました。十七年前にも市長さんが暴漢に襲われて……。私達は二度も経験してしまいました。」
 穏やかに。とても穏やかに、話を続けられる。
「伊藤市長さんのお祖父さんは、被爆者と聞いています」
「……」
 応える言葉を探した。
 罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。『沈黙』の中に遠藤周作が残した言葉だ。
 下から突き上げるような塊が気持ちを掻き回して息苦しくさせる。
 太陽が眩しくて、彼女が見えなくなった。さしかけられた日傘の中に、太陽から逃げるようにほんの少し身を寄せた。
沈黙の碑には、荒岩を深くえぐりように刻まれていた。
「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに蒼いのです」と……。

◇作品を読んで

 作者は、ボランティア活動などの忙しい仕事をやり繰りして、よく旅行に出かけるという。今年は二度ばかりの外国への旅があったと聞いた。外国ばかりではなく、国内の文学館巡りをしてみたいという気持もあって、長崎市外海地区にある遠藤周作文学館に出かけた。そこは場所は隠れキリシタンの里であり、遠藤文学の原点とも言われる小説『沈黙』の舞台だった。
 二十九日付け第一回は、その冒頭の二段落で、「静かで穏やかな」という雰囲気をバスの窓から見える情景で描き、三段落は迫害や原爆のありようについての導入になっている。
 積極的に社会に触れ、その思いを文字にする大切さを作者は常に考えている。