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小 説    ホ ア   
              山 根 芙美子
 
                                                                            
                            島根日日新聞 平成14年12月18日掲載

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 夕方のラッシュ時であった。京都の街角で、水島ハナの乗った観光バスが大型トラックに接触した。幸いスピードが出ていなかったので、重傷者はなく、打撲、擦過傷程度がほとんどだった。後部座席で居眠りをしたり、他愛のないお喋りをしていたハナたちは、体が浮くと同時に投げ出されて将棋倒しになった。床に後頭部を打ちつけたハナは、意識を失ったまま病院に運びこまれた。
「ホア」
 急ぎ足で近づいてきた医師が、処置室の明るい照明の下に横たわるハナを見て、一瞬、短い声を上げた。
「何か?」
 傍らの看護婦が、医師の横顔を見上げた。 
「いや、何でもない……」
 医師は手を振るようにして脈を取ったが、すぐさまCT、点滴と矢継ぎ早に指示を出し、次の怪我人に向かった。

 消灯時間は過ぎているようだった。徐々に意識が戻りながら、また後退する。そんな繰り返しのなかで、何か気配を感じてわずかに目を開けたハナは、白い人影を見た。白衣を下からなぞるように見上げ、視線が顔に及んだ途端、(ユウマ)と、声にならない声を上げた。医師は、ゆっくりと長身を折るようにしながら顔を近づけると耳元で囁いた。
「すぐに分かったよ。ホア、君の手は今も冷たいね」
 暖かな微風にくすぐられるように、ハナは声を全身で聞いた。思わぬ涙が目尻を伝わり、せき止めるように医師の唇が触れていた。おぼろげな意識の底で、鮮明な映像が蘇っていた。

 二十年も前のことだ。暑い夏であった。
 中国の東北部、満州で終戦を迎えた日本人は、支配者から一転、敗戦国の難民になっていた。権力を笠に着て威張り放題の日本人も確かにいたから、土着の人々の反感は一挙に爆発した。徒党を組んで邦人の家を襲い、金品を強奪し、女子供にも容赦しなかった。
 奥地にいた日本人達は集団となって、邦人の多い町を目指して移動を始めたが、その群も暴徒に分断される悲惨な情況が、つぎつぎに伝わって来た。ハナのいた町は、比較的治安のよい場所とされていたが、例外ではなかった。不穏な空気が察知されると夜明けを待たず、ハナの勤めていた鉄道局の職員、家族五十人程が、女、子供を囲むようにして線路沿いに錦州へ向かって出発した。錦州は、このあたりの中心で、大きな鉄道局があり、たくさんの日本人がいた。
 静かに行動したつもりでも、暴徒が見逃す筈はなかった。中には昨日まで作業員として働いていた者も何人かいた。
 大蒜の臭いの混じった体臭が、旋風となって襲いかかる。異様に血走った目が自分に向かっていると感じた刹那、恐怖のあまり金縛りに遇ったようになり、思わずしゃがみ込んでしまったハナは、固く目を閉じた。内ポケットに忍ばせている青酸加里の小さな包みが念頭にあった。
「立て、走るんだ」
 低い日本語に促され、片手を掴まれたハナは引き摺られるように立ち上がった。
 走った。走った。悲鳴と怒号を掻き分けるようにして、ただ走った。
 周囲に人影のないことを確かめ、毀された倉庫の傾いた戸の隙間から洩れる光の中で、で二人はやっと顔を見合わせた。
「ああ、あなたでしたか……」
 ハナは、それだけ言うのがやっとだった。二人はリュックも手提げも奪われ、ほとんど着の身着のままになっていた。
「どこも怪我はなかったか?」
 息を弾ませながら言ったのは、同じ鉄道局に勤める職員だった。お互いに顔は知ってはいたが、仕事の分担が違うこともあって、ほとんど話をしたこともなかったのである。
 鉄道局には、いろいろな部門があり、殖産部では、農林、水産、土地、それに畜産もあった。有馬純平は、現地駐在員として物資の集散に関連した仕事をこなしてきた二十人ほどの職員の一人だった。名前は、中国風に(ユウマ)で通っていた。ハナも中国語で(ホア)と呼ばれていた。有馬は最後まで残り、後始末して追いかけて来たという。
 突然、喊声が上がった。板戸の隙間から覗くと、暴徒が農具を武器にして走る姿が見えた。暫くして、遠くで女の叫び声と幼児の尾を引く泣き声が聞こえた。
 小柄なホアの冷たい手は、指の長い有馬の大きな手に包まれ、肩に顔を預けるようにしていつしか眠った。身寄りのないホアには、幸せとはこんなものかと思える三日間が過ぎた。有馬はホアのことがいつも頭にあり、同僚と話したり、笑ったりしているのを遠くから憧れのように見ていたと言った。内地へ帰れたら、結婚して死ぬまで君を守るとも。
 極限状況の中ではあったが、真剣な眼差しで、ぽつりぽつりと話す有馬を見ていると、きっと実現するに違いないとホアは思った。
 錦州に近づいた。
「近くに知人がいる。情報を聞いたり、食料も分けてもらえるかもしれない。ここを絶対に動かないように。――すぐ戻る」
 身を潜めるようにして有馬は出て行った。
 空き家になっている社宅とおぼしい家でホアは待っていた。他にも二家族がいた。夜が明け、他の家族は出発したが、有馬は戻ってはこなかった。日本人の若者が何人か八路軍に連行されたと聞いたのは、次の日だった。

 長い冬が過ぎ、葫蘆島から引揚げ船、済州丸に乗るまで、ハナの目はいつも有馬を探していた。船が外洋に出ると、次第に諦めに似た空しさが広がり、あれは夢だったのかも知れないと思ったりした。
 食べ物も薬品も乏しい引揚げ船内で発熱し、息絶え絶えだった子供の介抱を手伝ったことでハナは大野という女と親しくなった。
「行く当てがないのなら、私の親がいる家へおいでよ。こんな時だから、誰も助け合わなきゃ……」
 大野の誘いが嬉しくて、黙って頭を下げた。
 上陸は博多であった。八時間かかって出雲市に着き、更に電車に乗って平田市郊外の大野の家に落ち着いた。実直な両親はハナに孫を助けてもらったことを感謝して、納屋の一間を提供してくれた。親切を受けたら受けたで、それなりの気苦労もあったが、ここは日本であり住む所もある。それだけで有難かった。大野の子供も懐いてくれた。宍道湖に落ちる夕日に大陸のそれを思い、有馬と過ごした三日間が、胸を締め付けるように浮かんできて切なかったが、お守りのように生きる支えにもなった。
 やがて復員者が増え、大野の夫も帰ってくると、ハナの居場所はなくなった。急がなくてもいい、とは言ってくれるものの、親戚関係でもない、全く他人の家である。納屋は改造して、大野の一家が住むことになっていた。出るしかなかった。
 引揚げ時、許された所持金は一人千円であったから、物価が上がる一方の時代にどうしようもなかった。
 職を探し、住む場所を求めるのが精一杯だった。新聞も見ず、ラジオを聞くこともなかった。有馬の消息は分からなかった。
 出雲市に医療器具の会社が出来ると聞き、履歴書を送った。採用通知を受け取った時は、正直ほっとした。寮もあったからである。
 新設の会社は、活気に溢れていた。提案した小さな思いつきが認められたりして居心地は良かった。
 上司の勧めで結婚したのは、三十間近であった。夫となった水島健一郎はレントゲン技師で子どもは居なかった。引き揚げ後、十年ばかりは仕事を変えたり人間関係の難しさにひとり暮らしの辛さを味わった。だが、結婚してからは、夫である健一郎のおおらかな優しさに包まれ、伴侶としての歓びが育っていた。中肉中背だが、広い肩幅の背も好きだった。

 まだ少しぼんやりした頭の中で有馬の知らない二十年間が浮かんでは消えた。話そうと思うと感情が昂ぶってハナは小さく咳き込んだ。
「ホア、まだ喋っちゃいけない。私の話を聞いてくれ」
 八路軍に連行された有馬は、野戦病院で衛生兵の仕事をさせられていた。満州に来ていた日本人の多くが有能な人材であったし、八路軍はそれを必要としていたが、ホアのことを思うと眠れぬ夜が続いた。四日目の夜、雨の中を脱走した。駐屯地は出ることが出来たものの、住民の密告で連れ戻されてしまった。刑を受けるところを年配の軍医に救われ、助手として三年間転戦した。
 やっとの思いで帰国した内地の変わり様に呆然としながらも、医師の資格を得ることとホアを探すことを目的に、死にもの狂いだった。新聞やラジオの『尋ね人』でも何の反応もなかった。生死さえも分からなかった。医学雑誌に載った小論文が縁で、京都の病院に赴任した。
「ここに落着いてから、もう十年だよ。……五年前に結婚した。男の子が一人いる。浩平というんだが、有馬の子だから小馬と呼ばれている」
「小馬」と言われた声に誘われて、ハナはふっと目を開けた。翳りを持った精悍な顔が、うなじに触れた。
 小さなライトを持つ巡回の看護婦が医師を認め、驚いたように立ち止まった。
「脈が安定したよ」
「よかったね。明日は帰れるね」
 看護婦はそれだけ言うと、さりげなく出て行った。 
 午前九時。病院へ迎えのバスが来た。少し剽軽な仲間の一人が一夜を過ごした病院の医師や看護婦に握手を求めた。座席につくなり、だれもが昨夕からの話を繰り返して賑やかになった。
 ハナの夫の健一郎には、仲間の一人が連絡をしてくれていた。神戸で土産の焼売を買い、出雲市に着いたのは夕方であった。五分ほど歩くと、健一郎の待つアパートの灯りが見えた。それがひどく懐かしいものに思われ、自然に足が早くなった。今夜、夫の広い背を指でなぞりながら、有馬のことを話すだろう。ハナはそう思った。
 コートのポケットに手を入れると、今朝、有馬と握手をした時、渡されたメモに指が触れた。直通電話の番号が書いてある。小さく破って高瀬川に散らした。
 ――逢えてよかった。でも、今の私はホアでなくハナなんです。――
 川面に映る上弦の月が、小さく揺れて滲んだ。
講師評
 戦後の混乱期、中国で出会った男女が、二十年経った日本で偶然のことから再会する物語である。タイトルと冒頭で呼びかける「ホア」は、何を意味するのだろうと読み手は思う。それが女の名前であることが分かるのは、しばらく読み進めてからである。謎解きというほどではないが、何だろうと思いながら読み進める。ホアという名前を含めて、中国読みの名前が効果的に使われているということだろう。
 最後の場面は、電話番号の書かれた紙片を破って水面に散らすハナの情感が、さりげなく描かれている。その舞台は、静かな高瀬川の畔である。川面に月が映り、そしてハナの瞳の中で滲む。背景をどこにすれば効果的か、ということも書き手の腕の見せ所である。結末をどうするかは、自由だ。小説を書くということは、そういうことからしても面白いのである。