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   湯たんぽ
                       
    坂本 達夫                   
                                                                                   平成20年1月31日付け 島根日日新聞掲載

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
 ベージュ色のスーツを着たA先生は微笑みながら、私の部屋に入ってこられた。
 A先生は、医療系の大学の教授である。性教育に堪能で、四年生三クラスへの外部講師としてきてもらった。
「お久しぶりです。おはようございます」
 親しみを感じながら、私は挨拶をした。昨年知り合ってから、今日が三回目の来校である。
「三クラス一緒に授業すればいいんですが、同じ内容なのに今年もそれぞれ別々に授業をしてもらうそうで、ご迷惑をおかけします」
 小柄で上品な彼女に詫びた。
「いいんですよ。その方が子ども達も集中してくれますので……」
 小さなメガネの向こうで、優しいまなざしが光っている。私は彼女の寒そうな様子に気づいた。
 十二月の寒い日であった。私の勤めている学校では、各クラスのストーブの試し焚きが行われた。
「ストーブをつけましょうか。さっきまで、試し焚きをしていたんですよ」
 彼女の体を気遣って言った。
「私は、小さいときから体が弱かったせいかストーブの暖かさが嫌いなんです。お気づかいは嬉しいんですけど……」
 自分の両手で体を抱くようにして、話される。
「大学では、ペットボトルを使っているんですよ。七十度ぐらいに湯をさましてね、九百ミリリットルのボトルに詰めるんです。それを膝に乗せて、その上から膝掛けをかけると結構暖かいんです」
 私は小さな感動を覚えた。
「なるほど、湯たんぽですね。みんながそうすれば地球温暖化も速度をゆるめるかもしれませんね」
 話が弾んでいるところに、四年生の係の子が迎えにやってきた。私は彼女がどんな授業をしているか気になりながら、大急ぎでその日の仕事をこなしていた。二時間が経った。だが、仕事が終わらない。そろそろ授業も三クラス目だと思った。仕事は途中で止め、慌てて四年生の授業に向かった。
 そっと教室にはいると、彼女はちらっと私を見て三回目の授業に集中した。
「私の体全体を女の子の生殖器だと思ってね。この両手が、卵管ですよ。この脇の下ぐらいの所にね、卵子をつくる卵巣があるの」
 彼女は両手を広げて真剣に説明をしている。私は自分の体で生殖器を表すという、あまりにも大胆な授業に唖然とした。と同時に小柄な彼女が大きく見え、凄い気迫を感じた。
「この卵巣からね、毎月一個ずつ卵子がぽろっと出てくるの。そうすると、この卵管の先が掃除機の吸う所のようになっていて、卵子をスポンと吸い込むの。人間の体って不思議でしょう」
 右手で物を握るような動作をすると、三十人ばかりの元気者達のきらきら光る目はその一点を注目している。
「この卵管の中でね。お父さんの精子とお母さんの卵子が出会うとね、新しい命が生まれるのよ。みんなの命はそうしてできたのよ」
 右手で示している卵管を、左手で指さしながら説明を続ける。
「すごく小さな一センチより小さな命だけどね、この私の胸のあたりにある子宮で育っていくのよ。お母さんから栄養をもらって成長するんだけど、どこから栄養をもらうかわかる」
「口でしょ」
「へそです。僕んちに、へその緒があったもん」
 すかさず彼女は言った。
「そうよ。へそからお母さんに栄養や酸素をもらうのよ。へその緒を通してね」
 子ども達は、彼女の一挙一動を見逃さないようにと見つめている。
「この子宮の中でね、その卵が十ヶ月間成長して、身長は五十センチ、体重は三キロぐらいの赤ちゃんになって出てくるの」
 手で大きさを示しながら話を続けられる。子ども達は、「大きい」などと言いながら夢中になっている。
「こうして、お母さんの子宮から生まれてくるのよ。皆さん誰もが、こうして生まれてきたの。私が初めて赤ちゃんを産んだ時にはね、夫が病院の廊下でそわそわして待っていたの。そして、初めて自分の赤ちゃんを見た時大きな声を出して泣いたの。嬉しかったんだって…。私も感激しました。今まで一度も泣いたことがなかった夫が涙を見せるんですもの。
 私のお父さんお母さん、夫のお父さんお母さん、みんながお祝いにやって来て、よかったよかっただって。みんなも生まれたときには、お父さんやお母さんはもちろん、おじいちゃんおばあちゃんみんなが大喜びしたのよ」
 子ども達の顔が笑っている。普段悪いことをして叱らればかりいる子も、挨拶をしてもいつも下を向いている子も笑顔笑顔である。私も温かいもので一杯になって、校長室に帰ってきた。
 三時間も連続で授業をされたA先生が、ちょっと疲れた表情で入ってこられた。
「お疲れ様でした。子ども達の笑顔が嬉しかったですね」
「素直ないい子達ですね。本当に真剣になって話を聞いてくれましたよ。それに、三クラスとも反応が違って結構おもしろかったです」
「ありがとうございます。先生が熱演でしたから…」
 互いに授業を思い出しながら笑い合った。
「あんな授業を受けると、命を大切にする子が多くなりますよね」
 意外にも彼女の顔が曇り、次のような話をされた。
 最近の若い女性と話すとそうでもないですよ。性行為を軽い気持ちで行っているんです。
 私が、赤ちゃんができたらどうするのと聞くと、「結婚します」と明るく言います。じゃあ、結婚してくれなかったらどうするのと聞くと、「慰謝料をもらいます」と答えるんです。一人じゃあないんです、こんな女性がたくさんいるんですよ。
 私も助産婦の資格をもっているから、こんな風潮が許せないんです。昔のように、一つの命が生まれてくる環境ができてないんです。赤ちゃんが生まれても、周りの人みんなから祝福してもらえないんです。だから、育てることができない人もたくさんいます。
 私はこの話を聞き、だから幼児虐待が起きたり、赤ちゃんポストに子どもが置き去りにされたりという問題が起こるのかと、暗澹とした気持ちになった。
 私の表情が暗くなってきたのを見て、彼女は唐突に言った。
「最近ね、私の夫も湯たんぽに目覚めましてね。二リットルのペットボトルにお湯を入れて、布団の中に入れて寝るんです。私は、寝るときは本当の湯たんぽを使います」
「へえ、夫婦で差が付いてますね。私も興味が沸いてきたからやってみます。湯たんぽ」
 私生活のことを軽く話題にされるのが、とても新鮮に思えた。
 その夜は、寒かった。私も湯たんぽを布団に入れた。足元が温かくて眠くなる。まどろみながら、最近の子ども達には、性教育以前に人を愛することを教えなくてはと思った。

◇作品を読んで

 作者は、出雲市立K小学校の校長先生である。作品は湯たんぽの話を背景に、子ども達を引きつけたA先生による性教育の授業の様子が語られている。作者は、A先生の指導方法と共にその人柄に感動し、それを作品にまとめられた。
 作者が日頃から子ども達に温かく接している様子と、A先生の豊かな授業に現れた、命を大切にするというメッセージが、「湯たんぽと」というタイトルに込められているのである。
「青藍」を読んでいただいている方のなかには、小学校で性教育を受けたことのない方も多いと思うが、教育現場の状況がうまく書かれており、興味深いのではないだろうか。
 感動そのものを伝えようとした作者の真摯な執筆態度と、思いが伝わる優れた作品である。