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   方向オンチ 
                       
    思吐露もどろ                   
                                                                                   平成20年4月10日付け 島根日日新聞掲載

 車をぶつけた。
 前に行くつもりの私の車が、後に走ってしまったのである。尻をぶつけた相手は、クリスマスイブの楽しい買い物をすませ、帰り支度をしていた車だった。
 子供とおばあさんを乗せ、お母さんの運転で出発する直前であった。
 事故処理の話をすませ、夕方、詫びに赴いた。近くの公園に車を停め、同乗の妻を待たせた。 通りから路地に入り、二つ曲がったら見つかることになっていた。
 だが、潜んでいた不安が的中してしまい、気持が萎んだ。磁気嵐に遭った羅針盤のように、基点が判らなくなった。持っていた地図を逆さに見直し、反対に行っても見つからない。
 冬の日暮れは早い。折悪く、みぞれが降りだした。外灯の下で地図に目を凝らし、目安になるものを探した。注意深く戸数を当たりながら歩いた。やっとそれらしき家に辿り着いたが、人気のない夜に、他人の家の門扉を開いて表札を確かめるのは憚られる。
 引き返そうか……。お母さんの隣りで幼い女の子の困ったような顔が頭をかすめた。一つ大きく息を吸い込み、玄関に立った。安堵で力が抜けた。
 公園を出発してから、一時間を過ぎていた。妻は目的を果たして戻った私を、熟睡して待ってくれていた。
 もう古稀を過ぎたが、これまでに同じようなことを何度繰り返してきたことだろう。
 私には、何かが欠落しているのは間違いないのだが――。
 鳩は大空をひと舞いすれば、目的の方向を察知するように、本来人間にも似たような能力が神様から授かっているのではなかろうか。どうやら、私だけが置き去りになったのかもしれない。
 もう半世紀も前のことである。会社の出張で同僚と大阪に行ったことがあった。地下鉄を降り、ホテルへ向かおうと地下街を歩いた。見当を付けて地上に出るのだが、目的の建物が見当たらない。堂々巡りの末、やがて同僚が地下の床に描いてあるコンパスを見て、何なく出口を探り当てた。
 それ以来、私はコンパスを見るとコンプレックスを感じるようになった。
 ところが、人生の賞味期限が切れた今頃になって、方向オンチの原因らしきものを突き止めたような気がする。どうやら日常生活での意識の持ち方に問題があるらしい。
 私にも、二眼のレンズと、少々感度の落ちたフィルムが脳内にセットされている。問題は、情報を漫然と眺めているだけだからシャッターを押さないのだ。
 犬が電柱に臭いを残して歩くように、まだ残り多いフィルムに映像を蓄積しておけば、脳内の演算機構が働いて方向感覚が身に付くのだ。
 そうかと言って、生活習慣が一気に改善出来る訳ではないのだ。
 最近、少し不安なことがある。この年齢、いつ黄泉路に旅立つやも知れない。妻も子供もいない一人旅である。尋ねたずね行くことになるのだろうが……。これまでにさしたる悪事を働いた覚えはないのに、何か間違ってあらぬ方向に行ってしまいそうな気がする。

◇作品を読んで

 読み始めたら、知らぬ間に最後まで読んでいた――というのが、うまい文章である。
 この作品のタイトルを見て何のことかと思って読み始める。探している家が見つからないので、方向オンチなのだと思っていると、最後にきて「あ、そうなのだ。これが言いたいのだ」と気が付く。方向オンチの苦笑いが、人の心の寂寥と無力とでもいうような悲愁を帯びて終わる。
 うまい作品である。なぜか。読み手に対するサービス精神が、文章の底を流れているからである。自分が言いたいことを滔々と書くのは、自己満足である。せっかく新聞に載せるのだから、面白く読んでもらえたらいいという気持ちがあるかないかの違いだ。
 面白いとは何か。それは読み手の共感を呼ぶことである。