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随 筆    魔性の花   
              小 村 美 穂
                                                                            
                                           島根日日新聞 平成15年1月1日掲載

 かれこれ二十年も前のことになる。知人の花壇に、濃いワイン色で、香り高く、きれいな花が咲いていた。珍しいと思い、所望して二、三株をもらい、裏の庭に植えておいた。
 翌年から一メートルくらいに伸びて、見事な花が、初夏から秋にかけて咲き続けた。
「きれいな花ですね」
 塀越しに見て通る人から言われると、嬉しくなったものだ。
 その後、年を重ね、株も殖えた。気が付いてみると、庭中あたりかまわずあちこちに芽を出している。その繁殖力と生長の旺盛なことと言ったらこの上ない。
 困ったことに、大きくなったものは、なかなかに抜けないのである。となると、刈り取るしかない。その内、家の床下までも延びてきたのを見て、さすがに驚き呆れた。
 ここまでくると、もう手遅れであった。落葉低木のこの花は冬期だけは安心していることができるが、春を過ぎる頃になると、あちこちと次々に生え出し、十センチくらいの芽を抜き取ろうとしても気持良く根から抜けない。無理に引っぱると、途中で切れてしまう。ところが、トカゲの尻尾ではないが、そこからもまた芽を出す。まるで、追いかけっこをしながら取り除いていくという有様になった。
 根茎から殖えるのであろうか。種が風で運ばれて行くのだろうか。そうこうするうちに、門の外に作っている花畑にまで生え始めたのだ。まるで、両手使いの手品師が品物を増やすように、どんどん領域を広げて行ったのである。最早、根絶しようにも、私の知恵と力では無理というほどになった。
 手をかけられる間は、まだいい。見える範囲の広がりを最小限度に食い止められる。ところが、もしその作業が出来なくなれば、我が家はこの花の木の藪になり、花の中に埋もれ、抜け出せなくなってしまうだろう。私が花の中に取り込まれるのだ。そう思うと、恐怖にかられる。
 自分で株を知人に分けてもらっていながら、理不尽にも花をくれた人までも、恨めしく思えてくるのだ。
 ところが悪いことばかりではなかった。石垣の間からも生えて伸びたこの花の木は生垣となった。紅紫色の花は玉待針の玉ほどの蕾の集まりで、次々とパチッパチッと弾けるように開花する。一つの花となり、そして満開になると、そこへ雌雄の秋蝶が蜜を求めて、ひらひらとやって来る。立派な模様の翅をもつ雄蝶は、両袖を広げ、舞うようにして集散した小花に次々と接吻し、蜜に酔いしれているように見える。それをひと回り小さい地味な翅を持つ雌蝶が、傍らで慎ましやかに、ふわふわと舞いながら見守っている。そのうち、満腹したらしい雄蝶は、せっかく雌蝶が誘っているのに、それには目もくれず去って行く。雌蝶は、後を追いかけるかと見えたが、何を思ったのか、いや、諦めたのか、引き返して蜜を吸い始めるのだ。
 しばし繰り広げられた蝶の世界のドラマに詩情を重ね、人の世の男と女の有り様もこうではないかと想像を逞しくした。限りなく蝶が愛おしく思えてならなかった。
 この花の苗を分けて欲しいと言われている。快く引き受けたものの、この生育振りに困惑もしているので、そのことを話してよいものか迷っている。
 それにしても、この花の名は未だに分からない。図鑑で調べてもはっきりしないのだ。
 後に、夏紫陽花ではないかと教わったが、何にしても魔女、いや魔性の女のような花なのである。

講師評

 珍しく、そして美しい花だと思って貰って来たものの、その繁殖力に辟易している。そう思いながら、とうとう二十年が過ぎた。やはり花が好きだからである。その手入れに困りながらも、花に惹かれる様子がよく描かれている。
 挿入された蝶のこともおもしろい。こういう物事の微妙な感じを悟る心、つまり、デリケートに反応するということは、文章を書く上で大事である。デリケートな感性は、街角の風景や自然の歩みなどをとらえる鍵となる。
 言うまでもないことだが、書くということは、自分ではない他人に読んでもらうことを前提にしている。したがって、相手に分かってもらわなければ意味がない。この作品は、自分の経験したことが、素直に書かれている。だから、読み易いのである。