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   老いる
                       
    田井幸子                   
                                                                                   平成20年6月26日付け 島根日日新聞掲載

八十歳を超えた母のことだが、この頃とみに昔のことを忘れ出した。
 私の子供時分の話をしていても「そんなことがあったかいね」と考える素振りを見せたり、「そう言えばあんた、あのとき頭に石ぶつけて血ィ出して」と、ようやく思い出して言ったそれは孫のことだったり。
 五十年前も二十年前も、ただ同じような季節が繰り返されただけで、登場人物の時間差など、無いに等しいほど長く生きたということなのか。
 そんな母を今では可愛いと思う。昔はとても怖かった。怨んだことさえある。
 あれは母の日だった。日頃の感謝を込めて≠ニ私なりに考え、ご飯を作ってあげることにした。と言っても小学校三年生になったばかりで、できることは限られている。目玉焼きにキャベツの千切りを添えただけ。白いご飯をよそい二人で向き合った。その第一声が「太い千切りだこと。ウサギの餌みたい」。
 もう、あとのことは覚えていない。それでも残さず食べてくれたような気はするのだが。
 翌年からは、造花のカーネーションだけ渡した。
 中学一年のとき、友だちが母の日にプレゼントをするというので買い物に付き合わされ、つられてその気になった。もう二度と料理はすまい。売りものなら喜んでくれるだろうと、選んだのが紐で編んだ夏向きの手提げかばんだった。お小遣いで買えるものなど多寡が知れている。期待半分でおずおずと差し出した。返ってきた言葉は「なんだか、オムツかごみたいだね」だった。
「……」
 こういう人なんだ。母はそれを仕舞ったきり、使うことはなかった。オムツなど無いのだから。
 高校一年のとき、隠岐の島へ叔母と遊びに行った。帰る頃になり、何も知らない叔母は「お母さんに、お土産買って帰るだわ」と、親切に売り場を案内してくれた。なんでも黒曜石が名産だとかで、悩んだ末黒いしずく≠フようなペンダントを買った。
渡すのに少し勇気がいった。今度は何を言われるだろうと。案の定「真っ黒で、お葬式みたいだわ」ときた。私の知る限り、一度も身に着けることはしなかった。当然といえば当然のような気がした。
 母に悪気はないのだ。ただ正直なだけ。そう思おうとするのだが、心は深く傷ついた。今でもしつこいくらいに覚えているのだから、瘡蓋ぐらいはまだ残っているとみえる。
 あれもこれも母にとっては取るに足らぬことなのだ。あるいは、記憶の断片すらないのかもしれない。私の口からあえて語ろうとは思わない。
 すっかり丸まった背中に老いを感じる。長生きしたご褒美に、誰かが思い出をオブラートに包んでくれたのだ。五十年前も二十年前も一緒にして。思い出しても苦くないように。
 いつか私も「そんなことがあったかいね」と、うっとりした目をして呟いてみたい。

◇作品を読んで

 老いてゆく母を見詰めながら、作者は昔のことを思い出す。怖かったり怨んだりしたこともあったが、考えてみると誰もが通り過ぎてゆく道程なのだと思いながら、作者は幾つかのエピソードを盛ってみた。そして最後に母を自分に重ね、「そんな母を今では可愛い」と思い、「いつか私も……」と書ききった。
 珠玉のように光る言葉がちりばめられ、本当は暗くなりそうな話に明るさを見せているのである。
 四百字詰原稿用紙で約三枚だが、内容は短いという感じを与えない。情感溢れる作品である。