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   捨てゼリフ 
                       
    鶴見 優                   
                                                                                   平成20年10月16日付け 島根日日新聞掲載

清らかな白衣の裏を我のみ見たり――ナルミが、若かりし頃に別れた人から貰った、捨てゼリフならぬ手紙の一節である。
 ナルミは看護学校を卒業後、関西の病院に就職した。さほどの間をおかず、先輩ナースの笙子に誘われ、笙子の彼であった幸人とその友人の四人でダンスホールに行った。
 笙子は社交ダンスに熱中していて、仕事が終わるや否や、毎日のようにダンスホールに通い詰めていた。笙子は誰からも好かれていて、人付き合いも良かったが、遊び人だと噂されていた。
 数日後、幸人から、ナルミに再三デートの誘いが来たのである。笙子には悪いと思いつつ、ナルミは興味本位の軽いノリで、幸人の誘いに応じることにした。
 幸人はスラリと背が高く、都会的な容姿をしており絵が好きで真面目そうな青年であった。<里見幸太郎>に似ていた。油絵を習っていたナルミは、風景画を好んで描いていた幸人の絵を見せてもらうこともあった。二人は共通の趣味があったものの、ナルミは田舎者という気後れが常に心の片隅を占めていた。逆に幸人は、田舎娘のナルミを<磨けば光る>とでも考えているのか、そのことを言葉の端々に匂わせていたし、面白いことを言って、笑わそう笑わそうとするつもりなのか一方的なお喋りが多かった。だが、ナルミは快く思ってはいなかった。
 ある日のこと、「遊ぶつもりではなく、大事に思っている人には、自分は手を出さないンや、結婚を前提に付き合ってくれ……」と、幸人に言われた。思いがけない言葉にナルミは動転した。(さあ大変だ。えらいことになった)。両肩には結婚の二文字が重くのしかかってきたのだ。結婚なんてまだ早いし、全然そんなつもりはないんだから……。相手にとっても自身にとっても、傷が深くならぬうちにきっぱりお断りしなければ――と焦りに焦った。ナルミに手練手管の知恵があるわけもなく、どう断わるか迷いに迷った揚句、手紙を出すことにした。
 (結婚までの心づもりはないので、大変申し訳ございませんがお別れしたいのですが……)
「何故だ? 今までの付き合いはなんだったのか、逢って理由が聞きたい」
 怒りの返事がきた。ナルミはもう、逃げ腰一点張りの心境であった。しかし、このままで……という訳にもいかない。いわば身から出た錆≠ナもある。一生に関わる問題なのだから、自分の手で解決しなければならないのだ。
 最後のけじめをつけなければならないと、悲壮な覚悟を決めて、一生一世の勇気を振り絞って逢うことにした。 「別れる理由は?」と、しつこく聞かれた。
 思っていることを素直に言うしかないと心に決めてはいたが、やっとの思いで、詰まりながらボソボソと口の中で言葉を集めた。
「申し訳ないけど、私は結婚を真剣に考えて付き合ってきたわけではないので、ごめんなさい。このままズルズル付き合うことはできません。益々あなたを傷つけるだけになりますので……」
「結婚はともかく、付き合いだけでも続けて欲しい」
 長く重苦しい沈黙が流れた。ナルミはウン≠ニ言わなかった。
 バシッ。
「ああっ」
 ナルミは頬を抑えた。痛くは無かった。
「どんなに大事に思ってきたか……。分ってくれ」
 幸人の怒り心頭の気持ちは、充分過ぎるほど理解できた。逆にナルミの心は静かに重く冷めて行った。こんな時、めそめそ涙を見せるひとが可愛い女と言えるのだろうが涙なんて一滴も出そうもない自分に驚いていた。むしろ、弱みを見せたくない思いと、幸人の怒りの火に油を注ぐような言動はしてはならないという交錯した気持ちが身体を駆け巡っていた。 「親にも手をかけられたことはないのに……」と、抗議めいた独り言も忘れていなかった。不思議なことに恐怖心はあまり感じていなかった。多分、幸人の興奮状態がそう長くは続かなかったせいでもあった。どちらかというと態度は軟化し、何を考えているのか沈み込んでしまっていた。
 灯りも人通りも少なくなった夜更けの街角で立ち止まり、また、のろのろと歩いた。二人の間にある重く淀んだ空気が、時間の中で静止したかのようであった。早くこの状況から抜け出したいナルミは、とても諦めては貰えそうにない幸人の気持ちを慮り、「交際を続けるかどうかをゆっくり考えてみる」と返事をして、その場から逃れたのである。
 ナルミは自問してみた。幸人に抱いた感情は何であったのか? 自身にも良く分っていなかったのではなかったか。とても危ういものであり、形にもならないものであった。純真無垢だと思っていた小娘にしてやられたり≠フ悔しさが、清らかな白衣の裏を≠フ名句? となったのか。
 DVなる事件を耳にすることの多い昨今、あの時のことが脳裏に甦り、ナルミは肩を竦めてしまう。

◇作品を読んで

 作者の体験をもとにして書かれたもののようでもあり、そうでもないのかもしれない。いずれであれ、田舎にはなかった華やかな雰囲気を持つ都会に出てきて間もない頃である。
 女性はいかに時代が変わっても、愛されたいと思って生きている。綺麗になりたいというのは、そういう願いがあるからだ。
 そんなことを思っていただろうナルミのところに、相手は向こうからやってきた。幸人と恋人関係にあるらしい笙子には悪いとは思ったが、「興味本位の軽いノリ」で彼の誘いに応じた。だが、彼は大時代的にいえば真面目であった。それが思わぬ負担となった。
 作者は、男と女の気持ちのすれ違いを、ナルミと幸人に語らせてみようとしたのである。もう少しじっくり書けば、より面白いものになりそうである。