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   幽霊烏賊 
                       
    朝野 百合                   
                                                                                   平成20年10月23日付け 島根日日新聞掲載

 浜田市の県立しまね海洋館のアクアスに行った帰りのことである。深海に住むイカなどの珍しい飼育動物などを見てきたこともあって、私は無性に魚が食べたくなった。
「ねえ、せっかく浜田に来たんだから、買って帰りたいわ」
 私は、夫にせがんだ。そのスーパーマーケットは、浜田市から東へ五キロばかり行った国道九号線沿いにあった。
 夕方のせいでというわけでもないが、魚の特売が客を呼んでいる。そのコーナーには、何種類かのイカが並べられていた。柔らかそうなものを選んで買った。
 家に帰り、まな板に横たえた。そのときだった。左手の指先に激痛が走った。真っ赤な鮮血が流れ出し、イカを赤く染めた。切れた……と思ったが、包丁を手にしてはいない。水道を出し、血を流した。見ると、左手小指の指先から根もとまで、ざっくりと開き、水道の水をはじき返すほどに血が流れ出ているのだ。指が二つに割れている。
「あなた、あなた。来て……噛まれた」
 悲鳴を聞きつけた夫が、居間から「なんだよ。何にさ」と呑気な声を出した。
「早く……」
 泣きそうな声に驚いたのか、夫が飛んできた。私は、まな板のイカを見て、全身の血が消えたような気がした。寒気がした。イカの吸盤に、肉の塊が挟まっているのだ。青い顔をした夫が、イカの吸盤から肉片をはずした。夫の指先で、赤い肉がぴらぴらと揺れた。私は、顔をそむけた。
 夫の運転で、かかりつけのS外科に走った。S医師は、小学校の頃から夫と同級だ。
 ちょうど診察が終わる午後六時半で、他の患者は誰も居ない。受付に顔馴染みの事務員が一人、ノートパソコンのキーを叩いている。
「お願いします。早くっ」
 私は叫んでいた。
「どうされましたか?」
 事務員が顔を上げて、私の顔を見ている。
「噛まれたんです」
「何にですか?」
 そんなことはどうでもいいから早く診察をして欲しいと、私は言った。
「先生は、後ろの本宅に帰っておられますから、直ぐに呼びます」
 私は、待合室の椅子に倒れ込んだ。夫は、血が滲むタオルを押さえている。意識が遠のいた。
 ふっと気がついた。まだなのかと思って見上げた待合室の時計は、七時を十分ばかり過ぎている。駆け込んでから、四十分が経ったことになる。事務員は帰ってしまったのだろうか、照明が落ちていて病院全体が薄暗い。
「あいつ、何してんだ」
 夫の呟きが聞こえたとき、本宅に続く暗い廊下の奥からS医師が現れた。白衣を着て、白い帽子を被っている。手術室から出てきたばかりのようだった。
 酒を飲んでいるのか、泳いでいるように格好だ。S医師を見た途端に、傷口が痛んだ。ぞくっとする悪寒に似た感触が背中を通り抜けた。
「やっと来たか」
 確かに、S医師はそう言った。
「診察室へ――どうぞ。いや、処置室がいい」
 S医師の背中を見ながら入った。ふっと魚臭い空気が流れたような気がした。
 椅子に座り、処置台に左手を出した。待っている間に、更に流れ出る血が増えたのか、白かったタオルが赤いそれになっていた。
「幽霊烏賊に噛まれましたね」
 深海から聞こえてくるような、沈んだ暗い声でS医師が言った。
 台所で見た、赤い肉片が手術用のゴム手袋をしたS医師の右手の先で血をしたたらせ、ぴらぴらと揺れていた。
 再び意識が遠のいた。

◇作品を読んで

 幽霊烏賊というのは作者の作りものではなく、実在するイカである。寒天のような感じで柔らかい。第四番目の腕は特に大きく、何十という吸盤がある。話自体が、もともと荒唐無稽なものだから、空想のイカでもよいのだが、「幽霊」という名に惹かれて使ったのだろう。
 実際にこういうことはあり得ない話だが、想像でいろいろなことを創り出すのは容易であるものの、誰でも考えつくようなことでは面白くない。
 昭和三十五年頃であったか、スリー・キャッツが歌った曲に『黄色いさくらんぼ』というのがあり、その歌詞の中に「ありそでなさそで」とあった。小説も、そういう危うさを思わせる題材が面白い。